第19話 脅迫メール

 県警捜査1課は大津署に捜査本部を置いて誘拐捜査の準備をしていた。あれから捜査員が様々なところを当たってみたが、やはり緑川由美と水上翔太の足取りはつかめなかった。県内の所轄署とも協力してさらに捜索を続行するとともに、誘拐事件の可能性を考慮して備えねばならなかった。

 自宅の方に犯人が接触してくるかもしれないと、捜査1課の久保課長は片山警部補の班の捜査員を水上家に派遣した。また緑川由美には家族がおらず、アパートの一人暮らしだった。彼女の家にも捜査員を向かわせていた。


 水上家では堀野刑事をはじめ数人の捜査員が密かに屋敷に入ってきていた。彼らは作業員に化けて様々な機器を詰め込んだ銀色のアタッシュケースを運び入れていた。外からのぞかれないように屋敷中のカーテンを閉め、持ってきた機器を設置した。そして屋敷の固定電話をリビングまで引っ張ってきて傍受装置などを取りつけた。犯人からの電話をここで受けようというのだ。

 また屋敷の外の道路には大型のワゴン車を停めていた。外部からの連絡はそこでチェックする体制を取っている。もちろんそのワゴン車には移動指令室のような役目をしており、そこには指揮を執る班長の片山警部補と内田刑事が乗っている。

 屋敷には森野以外に家政婦の南江順子がいた。南江は家政婦協会から派遣されていたが、この家での勤務は長かった。彼女も翔太を孫のように思っていたので、今回のことにひどく心配していた。

 森野は主人の水上雅雄が帰宅するのをひたすら待っていた。捜査1課の久保課長から連絡は行っているのだが、まだ帰ってきていない。学園の仕事が終わらないのだ。

(こんな時に・・・。翔太様の一大事なのに・・・)

 森野はため息をついて不在の主人に代わって電話の前に座っていた。


 やがて雅雄が帰宅した。聞きなれた車の音がして、しばらくして玄関のドアの開く音がした。森野はすぐに玄関に駆け付けた。

「旦那様。翔太様が・・・」

「わかっている。警察の方から聞いた。ご苦労だった。お前はもう帰っていい」

「いえ、私も心配です。他の者はすべて帰しましたから、私が残ってこの家のことをいたします。私のことよりも翔太様のことを・・・」

 森野は少しほっとしていた。子供が誘拐された可能性があるというのに両親のどちらもいないのではどうにもならない。旦那様がいれば何とかなるという希望があった。


 雅雄がリビングに入ると、そこは朝までの様相と変わっていた。ソファと机はそのままだが、電話を中心に何かの機械が設置されていた。そしてその前に3名の捜査員が陣取っている。カーテンはすべて閉められて電灯が灯っており、静まり返った部屋には何か陰鬱な雰囲気があった。

「これは一体?」

 雅雄はこんなことになっているとは思わなかったようだ。彼に気付いて堀野刑事が立ち上がった。

「捜査1課の堀野です。ご子息の翔太君が誘拐された可能性があります」

「電話で聞きましたが、まだはっきりそうだとは・・・」

「いえ、我々はそう断定しています。犯人からの電話があるかもしれません。ここで待機させていただきます。ご主人も電話に出るためここにいてください」

 堀野刑事はそう言った。その口調は厳しいものだった。

「まさか本当に?」

「詳しいことは追って説明させていただきます。とにかく電話を待ちましょう」

 そう言われて雅雄は仕方がないという風にソファに腰を下ろした。その後ろでは森野が心配そうにオロオロしていた。

 堀野刑事はこの様子に違和感を覚えていた。

(自分の子供が誘拐されたんだぞ。驚く様子もないし、あまり心配していないように見える。変だ。雅雄より家令の森野の方がよっぽど親らしい反応をしている)

 その夜、ずっと犯人からの電話を待ったが、何もかかってこなかった。朝から「うみのこ」の事件の対応で疲れ果てていた雅雄はソファで眠っていた。堀野刑事たち捜査員も交代で仮眠を取った。だが森野だけは一晩中、真剣な顔をして電話の前で待っていた。



 次の日の朝、やっと電話がかかってきた。雅雄はまだソファで眠っている。堀野刑事が起こす前に森野がすぐに雅雄に声をかけた。

「旦那様! 起きてください! 電話です!」

「あ、ああ・・・」

 雅雄は目をこすりながら受話器を取った。

「もしもし。水上です」

「朝早くからすいません。事務の村下です」

 若い女性の声だった。堀野刑事がナンバーを確認すると神水学園からだった。何か急な用事で電話をかけてきたのだろう。時刻を見るともう午前8時だった。

「どうしたんだ?」

「大変です。翔太君を誘拐したというメールが来たんです!」

「そうなのか・・・」

 水上翔太が誘拐された可能性があるというのはごく一部の者以外、まだ伏せられている。だから彼女はそのことを知っていない。出勤してきて学校関係のメールに目を通して見てそれを発見したのだろう。

「誰かのいたずらでしょうか?」

 村下は聞いてきたが、雅雄は起きたてで頭がまだどんよりしており、どう答えていいか迷っていた。それで堀野刑事が右手を上げて「ちょっと」と雅雄から受話器を受け取った。

「もしもし。私は滋賀県警捜査1課の堀野です」

「えっ! 警察の方。じゃあ、やっぱり・・・」

「このことは秘密にしてください。誰にも言わないように。いいですね」

「は、はい」

「メールがそちらに届いたのですね」

「はい。出勤して来たら翔太君を誘拐したというメールが届いていました。そのメールの発信元が緑川先生のスマホだったのです。驚いてすぐにお電話したところです」

「こちらに転送していただけませんか。アドレスは・・・」

 堀野刑事は村下に伝えながら考えていた。

(メールとは意外だが、こちらと接触手段としてはなのかもしれない。一方的に用件を伝えて犯人側の様子を知られなくて済むからな。発信元は同じく行方不明になっている緑川由美のスマホだ。足がつかないように犯人が緑川由美からスマホを取り上げて、そこから送信したに違いない)

 しばらくして受話器から声が聞こえた。

「メールを転送しました」

「ありがとうございます。そちらに捜査員を向かわせます。よろしくお願いします」

「わかりました」

 堀野刑事は電話を切ると、すぐにパソコンに転送されたメールを見た。


【水上翔太を誘拐した。警察には言うな。現金1億円を用意しろ。矢橋帰帆島公園まで運んでもらう。詳しいことは後で指示する】


 それだけだった。いたずらの可能性も・・・堀野刑事がそう思いながらも添付された写真を開いてみた。

「うむ!」

 思わず声が出た。それには水上翔太と思われる子供が写っていた。腰から上というアングルで、拘束されている様子はくスナップ写真のようだった。少し緊張しているが顔は微笑んでいた。服装は当日着ていたものに間違いはないようだ。屋外で撮ったもので、その背景は紅葉であり、かすかに檜皮葺のような屋根も見える。

(この場所は神社か寺か・・・)

 堀野刑事が考えていると、外の指令所のワゴン車から連絡が入った。それは片山警部補からだっだ。

「神水学園からの電話は聞いた。捜査本部から捜査員を神水学園に向かわせている。そっちに届いたメールをこっちと捜査本部に転送してくれ」

「わかりました」

 堀野刑事はそう答えてパソコンを操作した。部屋にいた捜査員はそのそばに集まってメールと添付された写真をじっと見ていた。もちろんその背後で森野も必死にそれを見ようとしていた。だが肝心の雅雄はソファに座ったままだ。パソコンをのぞこうともしない。

「水上さん。神水学園へ届いた犯人からのメールです。1億を要求しています。翔太君と思われる子供の写真も送られてきています。確認をお願いします」

「あっ、はい。わかりました」

 堀野刑事に促されて雅雄はやっとパソコンの画面をのぞいた。

「翔太に間違いありません」

「1億円は用意していただけますか?」

「ええと・・・1億ですか・・・」

 雅雄は言葉を濁した。そこに森野が食って掛かるように言った。

「旦那様。何を迷っておられるのです! 翔太様はこの家の跡取りなのですよ! 旦那様の子供なんですよ!」

 雅雄はそれでも決断せず、考え込んでいた。

「この森野からもお願いします。翔太様のために1億をご用意ください!」

 森野は土下座までして必死に頼んだ。堀野刑事もさらに言った。

「ご用意できないのでしょうか? もし無理ならこちらで方法を考えますが」

「いえ、なんとか用意できると思います・・・」

 雅雄はそう答えた。心ここにあらずといった様子だった。それは子供のことをかなり心配しているというより何か他に考えごとをしているように堀野刑事には思えた。

(何を考えているんだ? 金の心配か? この家の財力なら1億は集められると思うのだが・・・)

 そんな疑問を堀野刑事は抱いたが、今はそれより考えることは山ほどあった。まずは人質を無事に救出しなければならない。それには送られてきたメールと画像が手掛かりになる。パソコンを見ていた捜査員が言った。

「どこでしょうね? 辺りが紅葉していますが」

「確かにそうだな。山の中か。檜皮葺の屋根が少し写っているから建物が近くにあるな」

「民家にしては立派に見えますが・・・もしかしたら寺ですかね」

「うむ。だが滋賀県は紅葉の名所の寺が多くある。比叡山、湖東三山や永源寺、石山寺、三井寺・・・それだけでは絞り込めない」

「スマホの発信元の基地局が分かると思います。それである程度特定できるかもしれません」

「そうだ。指令所から問い合せてもらおう。もしかしたら犯人に接近できるかもしれない」

 堀野刑事はワゴン車にまた連絡を取った。

「こちら堀野。そちらにメールは届きましたか?」

「ああ、届いた。それにスマホの発信元の基地局の問い合わせをしている。わかり次第、捜査員を向かわせる」

 指令所の片山警部補はすでに手を回していた。

「犯人はメールで接触してくるようです。ここに2名残して、私も現場に向かいたいと思いますが・・・」

「わかった。犯人が見張っているかもしれない。気を付けてそこを出ろ」

 犯人から届いたメールを手掛かりに捜査が動き出した。堀野刑事は部下とともに水上家を抜け出した。幸い、道に通行人はなく見られてはいない。その足で少し越し離れた場所に停めてある覆面パトカーに乗りこんだ。

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