第4話 下船する2人

 年間を通して「うみのこ」でフローティングスクールが行われる。それは滋賀県内の小学校5年生に、対人・協調関係を養うふれあい体験をさせ、郷土への理解や琵琶湖の環境を学ばせる学習船である。

 今日は新屋敷小学校と大石小学校、そして私立の神水学園小学部の5年生の生徒が乗り込んでいた。神水学園は私立の名門校であり、その生徒だけは胸に紋章のワッペンをつけた品のいい制服を着用していた。

 引率の教師に連れられてタラップから「うみのこ」に乗り込んでいく。船内では生徒のにぎやかな声で満たされていた。

 生徒たちはまずは多目的室に集められ、そこでオリエンテーリングが行われる。そんなせわしい時なのに、30半ば過ぎの女性教師が生徒の手を引いてタラップの方に戻っていた。それに若い男性教師が気づいて声をかけた。

「緑川先生。どうしたのです?」

「あっ! 大崎先生。いいところに・・・。翔太君が急に具合が悪くなったっていうのだから、船を降りてもらおうと思って・・・。学年主任の本庄先生に伝えてください」

 緑川先生はかなり焦っているようだった。大崎先生は5年1組の副担任でもあった。翔太のことはよく知っている。いつも明るく元気だと・・・。彼が見るところ翔太の顔色は悪いようには見えなかった。

「熱でもあるのですか?」

 大崎先生が右手を翔太の額に伸ばそうとしたが、緑川先生がそれを遮って言った。

「もう出港の時間よ。急いで降りなくちゃ。後で連絡するから。あっ・・・」

「どうしました?」

「スマホを忘れてきてしまったの。あわててしまって控室の机の上に置いてきてしまったかも・・・。今からでは間に合わないし、どうしよう・・・」

 緑川先生はもう一度ポケットを確かめたが、やはり忘れてきたようだ。大崎先生は胸ポケットから自分のスマホを出して緑川先生に渡した。

「これを使ってください。これは仕事用でもう一台プライベート用をもっていますから。ロックはかかっていません。緑川先生のスマホは僕が預かっておきますから」

「すまないわ。じゃあ、借りるわね。それから5年1組をお願いね」

 緑川先生はそれだけ言うと、翔太とともにタラップの方に足早に向かっていった。出航時間が迫っているためか、彼女はかなり急いでいる様子だった。

「あんなに慌てて・・・」

 大崎先生は首をかしげていたが、特に気にかけることもなく生徒たちが待つ多目的室に向かった。


 ◇


 警察船「湖国」は毎朝、琵琶湖のパトロールのため大津港から出航する。その時刻が迫っていた。今が一番慌ただしい時間帯である。航行課の署員が忙しそうに走り回っていた。

 佐川刑事はいつものように展望デッキにいて琵琶湖の風景を眺めていた。これが彼の朝のルーティンである。

 周囲の連なる山々は鮮やかな赤や黄色に染まっている。もう季節は晩秋の紅葉の時期になっていた。冷たい比良下ろしの風が彼の古びたコートを吹き上げている。

「今日は『うみのこ』が出る日か・・・」

 佐川刑事はぽつりとつぶやいた。「うみのこ」は湖国の停泊する桟橋から少し離れたところに停泊していた。

 この湖国は元はと言えば、先代の「うみのこ」である。老朽化した船を改装して警察船「湖国」となり、その船内に湖上警察署が開設されたのであった。だから「うみのこ」と同じような構造をしているが、湖国の方がやや小さい。

 展望デッキからは「うみのこ」に教師に引率された生徒が乗り込んでいく姿が見えた。あの子供たちは2日間の航海に出て行き、貴重な体験をする。それは滋賀県にいる子供たちだけの特権でもあった。

 佐川刑事は楽しそうにはしゃぐ子供たちの姿を見て微笑を浮かべていた。普段は凶悪な事件を扱い、犯罪者に敢然と立ち向かっていく彼に、その光景はひと時のやすらぎを与えているのかもしれない。

「もうすぐ『うみのこ』も出航か。今日は『湖国』より先だな・・・」

「うみのこ」には生徒がすべて乗り込み、タラップが外されようとしていた。その時、佐川刑事は変わった光景を目にした。

「おやっ?」

 出航近くになって「うみのこ」から降りようと、タラップの方に足早に向かう女性と男の子がいた。多分、教師と生徒なのだろう。かなり慌てているようだ。2人はなんとか外される前にタラップにたどり着き、船から降りることができた。

「何とか間に合ったな。急病か何かだったのか?」

 佐川刑事はそう呟いたが、さして気に止めなかった。彼もそろそろ捜査課の部屋に戻る時間になっていた。

「もう行くか・・・」

 佐川刑事が展望デッキから下りようとするとき、「ボーッ!」と汽笛を鳴らして「うみのこ」が出航しようとしていた。これからこの船は北琵琶湖を目指す。この湖国もその後を追うように出港して琵琶湖の巡回航路をとるから、また「うみのこ」と遭遇することはあるかもしれない。

 佐川刑事は階段を下りる前に何気なく、また「うみのこ」の方に振り返った。そこで彼は「ん?」と顔をしかめた。それはあの船にいつもとは違う感じを受けたからだった。彼は刑事の勘で、これから何か起ころうとする不吉な影を感じていたのかもしれない。

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