秋の虫は清らかにうるさい。




 お昼を食べ終わってから、僕らはリビングで自習をしていた。

 吸収が早い、とはいっても、山口の学力はようやく高校入学に差し掛かろうというレベルでしかない。むしろ一週間でよくここまできたな、と感心するレベルではあるのだけど。

 ただしそれでも状況はひっ迫している。二学期も半分が過ぎ、三学期はなおさらに短い。進級のためには、相当数の小テストをこなさなくてはならないわけで。

「とはいえ、ここまで基礎ができてれば、特に困ることもないね」

「えー。まだめっちゃつまるよ。ねー芹ねぇ」

「なんで自慢げなんだよ。私もびっくりするくらい学力上がってるだろ」

「ちぇー」

 なんで不満げなんだよ。

「しかしよくここまで付き合ってくれたね、桜庭くん」

「いやまぁ……楽しい、ので」

「そうかそうか。よかったな透子」

「よかったぁ。だって聞いてよ、芹ねぇってば、二日で付き合いきれねぇとか言ってさぁ」

「どこ教える? って聞いて、さぁ? って答えるやつだぞ? 無理だろ」

「桜庭やってくれてんじゃん」

「それがいわゆる下心ってやつだ」

「ちょっ」

 間違っちゃいないけど、言い方。

 雑談交じりに、それでも着々と進めていれば時間も進む。

 気づけば夕飯の時間で、僕は母さんに電話をして、山口家でご相伴に預かることになった。

「すみません、お昼だけじゃなくて夕飯まで」

「いいよいいよ。お礼の意味も込めてね」

 キッチンから、鍋をかき回しながらのおおらかな言葉に安心する。

 料理中は髪をまとめてポニーテールの芹音さん。後ろから見ると、腰辺りまで髪が伸びていて、それがまたサマになってる。かっこいいなぁと眺めていると、ちょいちょいと袖を引っ張られた。

「見すぎ」

「あ、ごめん」

 確かに、いくら後ろを向いているとはいっても、失礼か。

 コトコトと煮込む音。優しい和の匂い。キッチンには大人の女性が立っていて、ソファに座る山口は、部屋着でクッション片手にすっかりくつろぎモードだ。

 なんとなく、山口から『生活感』が見えなかったけれど、こういう光景の中にあると、ああ確かに僕らと同じ人間なんだな、なんて思ってしまう。これもまた、失礼な話なんだろうけど。

 だからちょっと、安心するというか。

「あー」

 スマホを見ていた山口が、ふと不満そうな声を漏らす。

 傾けて見せてくれたスマホには、SNS上での氷室冷夏の話題が表示されていて。

「……まぁ、でも」

「思ったより? ではあるんだけど。でもやっぱ、諸手を上げて賛成、応援するーって人は、少ないんだなぁって」

 そりゃあ、そうだろう。芸能人は、やっぱり露出してなんぼだから。

 当然そんなことは山口にもわかっていて、あるいはだからこその不満もあるのかもしれない。何があっても応援してくれるファンの存在なんて、考えるだけでありがたい。

「山口の学力レベルを発表したら、増えるかも?」

「ひどいなぁ。でもいっそ、それくらい思い切るのもアリではある」

 なんだかんだ山口は学生で、やっぱり中学レベルでしたってなると、心配になるファンもいるだろう。

「いっそ男ができたって開き直るとか」

「……まぁ」

 それでも、彼女のファンはそこまで減ることはないだろう、と思う。ファン層があまりに広すぎて、一部の『ガチ恋』がいなくなったところで、大した影響がない。別の心配も発生するけど。

「冗談だよ冗談。でも思い返してみるとほんと、女優一筋でやってきたなぁって。学生らしいこと、なーんにも、してこんかった」

「後悔してるの?」

「してない! 全然、してない。けど、やってみると楽しいんだよね。今、とっても」

 そんなことを僕の顔を見ながら言うんだから、本当、敵わないよなぁ。こんなところを見られたらたぶん、『別の心配』も現実になってしまうんだろう。

 ただの友達、けれど秘密の関係。なんだか、妙な話だ。

「あーやめやめ。こんなつまんないの」

「そう、だね。他にスマホで、何してるの?」

「個人用のアカウントでっていうと、SNSとか動画見るくらい? 自分からなんか呟いたり投稿したりとかは、ないけどね。あとは友達と話したり、通販系もよく見るかも」

 言うたびアプリを切り替え、画面を見せてくれる。驚くほどに、本当に無防備だ。そりゃあ家に上げちゃうくらいだから、ある程度は信用されてるって思ってもいいんだろうけど……。

 理由は、もう、気にしてない。気にしないことにした。どうせ考えたところでどつぼにはまるのが目に見えてるし、いつか本人から話してくれるかも知れない。それを待つ以外に、僕に選択肢はないように思えたから。

 ちらりと見れば、面白がるいつもの笑顔と目が合う。

「そろそろ来ると思った」

「……いや、その」

「ご飯できるまで、一緒に動画でも見てよっか」

「……うん」

 なんかもう、いいか。そんな気分に、させてくれる。



「じゃあ、お世話になりました」

「また来てねー」

 門の前だと人目もあるかも、ということで、玄関での見送りだ。手を振る山口と芹音さんに頭を下げ、僕は扉を押し開ける。

 すでに時刻は夜七時。十月ともなればつるべ落としとも言われるくらいで、辺りはすっかり真っ暗だった。隣の林からは虫の声。りぃりぃと澄んだ音が耳に心地良い。

 なんだか夢心地というか、まだ頭がぼうっとしているような、地に足のつかない気分だ。

 僕は今の今まで山口の家で、彼女と一緒に過ごしていた。あの氷室冷夏と。

 普通の女の子、だったな。SNSに一喜一憂して、動画を見て笑って、年上のお姉さんに甘えて、好物に喜んで。

 当たり前だ。僕は今までだってそういう顔を、何度も見てきたじゃないか。

 てくてく、響く足音に、返す声はない。

 芹音さんの服は、洗って返すと言ったけど、二人ともが「いいよ」と回収されてしまった。そうなればもう僕に言うべきこともなく、お礼だけを言っておいた。

 スコールは、置いてきた。「じゃあもらうね」と山口が言ったから。お風呂上がりにはこれだー、と喜んでたから仕方ない。

 ソファでくつろぐ部屋着の山口は、いつもよりずっと柔らかそうで、温かくて、かわいかった。クッションを抱いて、膝を上げたり下ろしたり、いつもより動きが多くて大きくて、表情がころころと変わって。

 学校で二人きりとはいっても、やっぱりよそ行きだったんだな、と思わされるような。

 ああ、この一週間、夢みたいだった。たった一週間で僕は、引きこもっていたころの気持ちを全部忘れてしまったよ。あの情けなくて恥ずかしくて、鬱屈とした日々のことなんて――

 頭をもたげる暗い気持ちも、決してなくなったわけじゃない。でも、それでいいんだ。

「……なんか、突然いなくなりそうな人では、あるけど」

「えー。そんなことないよぉ」

「うぉぁ!」

 び……っくり、したぁ。

 振り返ると、にこにこと楽しそうな山口の姿があった。さっきまでと変わらない、ピンクのセーターと白のワイドパンツ姿の。大きめのサンダルを履いた彼女の息は少し上がっていて、暗がりの中でもわかるくらい、頬が紅潮している。うっすらとした街灯の光は、それでも彼女を照らさない。

「はい、わすれもの」

 そう言って差し出されたのは、まったく見覚えのない紙箱だ。高級感のある柄で、見てもはっきりとわからない文字が書いてある。

「おみやげ。飲んだ紅茶の、新しいやつ。みんなで飲んで」

「あ、そんな」

 と、断りかけたけど。

「ありがとう」

「うん」

 ここまで走ってきてくれた彼女の厚意を、無下にもできない。左手で受け取って、僕は黙り込んでしまう。

「また来てね」

「うん」

 ついさっきの挨拶をもう一度。

「じゃあ、ばいばい」

「あ……」

 一歩、後ろに下がって振り返ろうとする山口に向けて、僕は意味もなく、わけもなく、反射的に手を伸ばしてしまった。

 止めたいわけでもなかったけど、彼女は律儀に振り向いて「なぁに」と笑う。優しい、温かな笑顔で。

「あの……おやすみ」

「うん、おやすみ桜庭」

 手を振って、そして今度こそさっと振り返り、彼女は暗闇のほうへと歩いていった。

 林の横、吹く風は冷たくて、葉擦れの音に混ざって虫の声が聞こえてくる。りぃりぃ、りんりん、ぴぴぴ――澄んだ小さな音も、重なると耳によく届いた。

 ふぅ、と息をつけば、山口にもらった身体の熱が逃げていくようだ。

 寒くなる前に、帰ろう。僕は足を早める。



 その夜、ベッドの上でスマホを触っていたら、ディスコのダイレクトメッセージが届いた。

『いなくなったりしないよ』

 僕は、

『うん』

 とだけ返して、布団をかぶった。


 窓の外からは相変わらず、虫たちの声が聞こえる。清らかに澄んでいて、ああでも。

 余韻に浸ってるから、静かにして欲しいな――なんて。




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