めまぐるしく。
恋をすると世界が変わるというけれど、それで日常が変わるわけじゃない。
気づけば山口のことを考えているし、会うと嬉しいし、なのにどこか照れ臭いし……あれ、何も変わっていないのでは? とすら、思わせる。
山口は人の変化に敏感で、些細な変化を見逃さない。察知して、面白がって、僕はそのたびどぎまぎさせられるんだ。
なった、というより、気づいた。
だから表面的にはたぶん何も変わらない。表面的に変わらないのなら、そう、僕らはたぶん、変わらないと思う。
もう二学期も終わりが間近で、それともなれば単位のために焦りも出てくる。僕らは連日小テストラッシュだ。
今日の午前中も八つほど受け、午後にも八つを予定している。このペースで行けば、早めに進級要件を満たせるはずだ。
もう、山口に僕の指導は必要ない。それでも連日、僕らはメタクラに通った。
今日は、少しだけいつもと違う。
交友関係を広げよう計画、第二弾。同性の友達を作ろう。
山口から鳥居さんに、信用のできる男友達を連れてきてほしいと頼んで、彼女はそれを快諾してくれた。
――正直、少し躊躇するところはあったけれど、それでも必要なことだと思ったから。
彼女が連れてきたのは、見るからに『爽やかな好青年』って感じの、マッシュパーマのおしゃれ男子だった。なんだろう、もうその時点で気後れしてしまう。
とはいえ、鳥居さんが「信用できる」というんだから、たぶん、間違いないはずだ。
「……どういう集まり?」
「こういう集まりだよ。よろしくねぇ」
「え、あはい。……氷室さん?」
「山口でいいよ。オフだから」
「うん。……いや、ちょっと待って、脳みそ追いつかん」
わかる。
実際これ、はたから見たらどういう集まりなんだ? こういう集まりってなんだ?
「おい鳥居、どうなってんだよこれ」
「え、言ったじゃん。話し相手になって欲しい男子がいるって」
「いやそうだけど。オッケーしたけど」
わかる。
そういう意味じゃないよね。
「とりあえず自己紹介。私、山口透子」
「鳥居真魚。……あたしは全員知ってるか」
「……桜庭直樹、です」
「
「そういうことだよ。変なこと、頼んでごめんね」
「いや、別に」
そうしてようやく、僕らはお弁当を広げて座り込んだ。
僕の隣に新谷くん。それから向かい側には鳥居さんと山口が並んで、早速会食が始まる。
「えーっと、桜庭?」
「うん。よろしく、それからごめんね、新谷くん」
「いやいや、……正直、今俺めちゃくちゃ舞い上がってるからさ」
「……気持ちはものすごくわかる」
慣れてきたとはいっても、未だに驚くくらいきれいなんだ。
それに、氷室冷夏の名前は、世代を問わず憧れの対象だ。目の前で弁当を食べてワイワイ騒ぐ彼女なんて、レアを超えてもはや怪奇現象に近い。
見ちゃうよね。僕との会話よりそっちが気になるのは、本当、ものすごくわかる。
「あぁ、ダメだな。頼まれたことくらい、きっちりやんねぇと」
だからこの人は、ものすごくいい人だ。信用できる、というのがたったの数分のうちによくわかった。
「とはいっても、話し相手ね。普通に話しゃいいの?」
「うん。僕、ほら、あそこの特別教室の」
「あー。そういう、あれね。コミュ練みたいなことか」
「そうそう。お手柔らかに、お願いします」
「はは、任せとけ。お手の柔らかさには自信があるからな」
思わず笑ってしまう。
爽やかで、かっこよくて、気さくで、女性から見ても信用のできる。
笑ってしまうくらいに、好青年だ。
「早速だけどさ、結局これ、どういう?」
「あー……まぁ、端的に言えば、山口も、事情は違えど『不登校』みたいなもので」
「あぁ、あぁ、なるほどなぁ」
僕もどこまで説明していいものか迷ったけれど、どうやらわかってくれたらしい。察しもいいとか、ほんとなんなの。
「でもさぁ、明らかにそっちのがハードル高いだろ。俺と喋るより」
「……いやぁ、山口はこう、ほら、器が大きいというか」
「あー。多少ミスったところで、とかか」
「うん」
現に僕は、山口の前でうまく喋れない時期が、何ヶ月も続いた。それでもおおらかに、楽しそうに話してくれるんだ。
目の前では、まるで別のグループであるかのように、楽しく笑い合う山口と鳥居さん。
今日は徹底して、同性の友達を作ろう、ということらしい。
「ま、そういう意味じゃ弁当の時間ってのは正解かもな」
「……というと?」
「ほら、目が合わなくたって不自然じゃないだろ?」
「……あぁ、なるほど」
気づかなかった。
「もちろん単純に、集まりやすい時間だけどな」
やっぱり人間関係をしっかり構築できている人は、そういう気遣いにも敏感なんだな。
気遣って、気遣われて、気づいて、学んで。積み重ねが、新谷くんにはあるんだ。少し話しただけで、そんな明確な
……でも、これは練習。山口が僕のためにと組んでくれた、そういう場だ。つまり、積み重ねるための。
「……勉強になるなぁ」
「はは、深読みし過ぎの勘違いもよくあるけどな」
「でも、今のはへぇって思った」
「できるやつってのは、まー自然にやるからなぁ。わからんと、悔しいだろ」
「……確かに」
悔しいな。これは、確かに。
山口に感じている劣等感とは違う、「負けた」という敗北感。別に競っているわけでも争っているわけでもないけれど、確かに僕は負けて、悔しい。
「ただ、あんまり日頃から意識しすぎると、押し付けがましくなりがちだからな」
「あれもこれも気遣いだと思わないほうがいいか」
「そういうこと。気づいたらラッキー、くらいでいんじゃね?」
なんだか雑談の練習のつもりが、妙に深い話になってしまったけれど。
新谷くんがいいヤツで、悔しいくらいの
使うのが悪いんじゃなく、使い方を誤るのが悪い。今度こそ、気をつけなくちゃ。
「で、ライン交換までこぎつけたの? やるじゃん」
「すごくいい人だった」
その日の帰り道、山口は僕の報告に嬉しそうだ。
「でもそっかぁ、りぃってああいうのが……」
「うん?」
「だって、信用できる男の子連れてきてって、連れてきたんだよ?」
「あー……もしかして」
「それも、ある」
探ってたのか。鳥居さんの、脈アリな男子のことを。
にやにやといやらしい笑みを浮かべる山口。他人の色恋にさほど興味があるようには見えないけど、やっぱり友達ともなると別なんだろうか。何しろ数少ない、ディスコのフレンド枠だ。
「でももちろん桜庭がメイン! そこ疑われちゃ困るなぁ」
「いや、疑ってないよ」
「だよね。でもなんかこう、お礼的なことしたほうがいいのかな」
「僕がする、って言いたいところだけど、どう考えても」
「私がしたほうがいいよね」
そのほうが喜ぶだろうね。
もちろん僕だってお礼をしたい気持ちはあるし、何ならするつもりではある。
ただ、なにが喜ばれるのか、よくわからない。気遣いの押しつけはよくない、というのははっきりわかったから。
「じゃあ、二人ともするってことで」
「それがいいか。サインでいいかなー」
「……そういえば、氷室冷夏って」
「サインしないで有名だからね。激レアよ」
何度か抽選でサイン入りグッズのプレゼント企画はあったけど、それもたった数十個限定。つまり氷室冷夏のサインを持っている人間なんて、この世界に百人ほどしかいないってことになる。
「桜庭もほしい?」
「……ちょっと」
「んん~。じゃあ、どこに書こっか?」
ああ、やっぱり面白がってる山口は、本当に生き生きとしていて……
「スマホケースとか」
「あー。いつも身近に、ってことかな?」
「いやっ……まぁ、でも」
かわいいんだよなぁ。
「明日、サインペン持ってくるね。最初は桜庭がいいから」
「……うん」
「今日でも、いいよ」
「あ、……うん」
遠回しの「うちくる?」。僕は頷く以外にできなくて、彼女の顔も見られない。
ああ、やっぱり、今まで通りは難しい。
いつも以上にきれいに見えて、いつも以上にかわいく見えて。耳の上、ちらりと光るヘアピンに、ついつい目が行ってしまうんだ。
その視線にもちろん気がついて、山口はまた薄く笑む。
「そだ、それなら。スマホ、貸して」
「え、うん」
パスコードでロックを外して、山口に渡す。カメラを起動したと思ったら――
肩を抱かれ、顔を寄せ、ぱしゃり。
ばっちり決めた笑顔の山口と、驚いて間抜けづらの僕。
それを、彼女は勝手に壁紙に設定する。
「あとで私にも送ってね」
「あ、うん」
スマホを受け取り、しばしそれに見入ってしまう。
笑顔の山口は僕の肩でピースサインを作り、驚き固まる僕はとっさにカメラから目をそらしてしまっている。まったく非対称な、アンバランスな、加工の一つもされていない――いい写真だな。
「あぶないよ」
「うん」
ポケットにスマホをしまい、僕はまた山口と歩き出す。
目的地は、彼女の家だ。
透明なスマホケースに、山口はさらさらとサインを書いて、何やら小さな瓶のようなものを持ってきてくれた。
「これ? ネイル用のトップコートっていうの。サイン、剥げないようにね」
サインの上から薄く塗り、「乾くまで待ってね」と、ソファの上、隣をぽんぽんと催促だ。僕はそれに従い、彼女の隣に腰を下ろす。
「それでも剥げることはあるけど、桜庭には、何回でも書いてあげる」
「……うん」
氷室冷夏のサインは、
スマホを見れば、笑顔の山口と、不器用な僕。
「全部、私だね」
ああ――世界は、変わっている。確実に。輝くように。
でも、この日常が変わってしまわないよう、僕は願うことしかできないんだ。
山口透子が、いつか氷室冷夏に戻ってしまうその日まで、僕は。
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