釘を刺されて杭を打つ。
「ごめんねぇ、どうしてもって聞かないから」
いつものような面白がる顔でなく、本当に申し訳なさそうな顔で。
お兄さんもまた、すっと立ち上がり頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。ただ、ランチの邪魔をするつもりはありません。ほんの五分、お時間を頂ければ」
大人の、ましてこんな
とはいえ、怒ってるとかじゃないんだ。ただ戸惑ってしまって、言葉を失っていただけ。
「あ、僕は桜庭直樹、といいます。えっと……氷室さんには、友人としてお世話に」
なんとはなしに、山口の『氷室冷夏』としての関係者だろうと思った。
「これはこれは、こちらから挨拶すべきところで。氷室冷夏のマネージャーを務めております、柏木と申します」
黒いジャケットの内ポケットから皮のケースを取り出し、そこから一枚の紙――名刺を僕に渡してくれた。
人生初、名刺を手に入れた。財布に、大事にしまっておくことにする。
「ではどうぞ、おかけに」
「あ、はい、失礼します」
「二人ともおかしぃの、かしこまっちゃって」
「……すみません」
「いえいえ」
「なんだよー」
僕と柏木さんは初対面だぞ。その上大人と子供だ。
「そういうんじゃないんでしょ、今日のお話って」
「……まぁ、そういうことです。桜庭さんさえよければここはひとつ、氷室冷夏被害者の会ということで」
「……そういうことなら」
「被害者ってなんだよぉ!」
読んで字の如し。
柏木さんからも確かに感じる、僕と同類の気配――氷室冷夏、山口透子のわがままに振り回される、悲しい男の匂い。
何しろ氷室冷夏の生み出す『価値』というものはすさまじい。一度の出演でどれだけのお金が動くか、僕には想像もつかないほど。
それをマネジメントする苦労というのはいかほどのものか。彼の顔に刻まれたシワが、なんとなく物語っている気がした。
テーブルの上にはまだおしゃれなポットとティーカップが三つあるだけ。確かに、ランチの前のちょっとした時間だけ、という言葉に嘘はないようだ。
「……さて」
あえて、だろうか。柏木さんはネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外し、ため息一つ。
「こういう場面で私のような者が出張ってくると、漫画とかなんとかじゃあ、関係に釘を刺しに来たっていうのが定番かな」
「……それはまぁ、確かに」
実際、僕の頭をよぎったことでもある。
「始めに言っておきたいのは、私……いや我々には、そんなつもりは一切ない、ということ」
「一切、ですか」
「一切だ。だからあまり構えなくていいよ。本当にただ、様子を見たかっただけなんだ」
「柏木さん、たまたまこっち来てて、すぐ帰らなくちゃだめなんだってさ」
「そういうことだね。元気そうで安心したよ。桜庭くんも、悪い子には見えないしね」
「めっちゃいい子だよぉ。私の勉強にこんな長いこと付き合ってくれた人なんて、初めてかも」
「……それはすごいな」
逆にそこまで諦められてるのがすごいよ。
覚えがいいし、教えてて気持ちがいいくらいだけどなぁ。
「そういえば、桜庭くん……か。もしかしなくても、そういうつながりなのかな」
「……そういう、というのが何なのかわかりませんが、父は姫崎ですね」
「あぁ、そうかやっぱり。こんな騙し討ちのような真似をして、あとが怖いな」
「姫崎さんめっちゃ親ばかだもんねー。息子怖がらせたってなったら……ぶるぶる」
「お前も共犯だろうが」
親ばかではあるけど、バカではないよと言いたい。
にしても、きっちりした大人かと思っていたら、いや間違いなくそうではあるんだろうけど、砕けて話すとずいぶん印象が違う。
山口に引っ張られたのか、あるいは彼女に合わせたのか。
「まぁとにかく、元気でやってるならそれでいい。どのみち氷室は、女優の道に戻ってくる」
「……はい」
そう思う。
僕の隣でどれだけぐだぐだやっていようと、彼女がその道を諦めるという未来が、まるで見えない。彼女にとってそれは道でなく、レールのようなもので――今はただ、ちょっとした駅に停まっているだけだ。
面白がるような顔。挑発するような瞳。山口は柏木さんを見ている。だが彼もまた、動じない。
「いい傾向だな、氷室」
「……なんのことだか」
「磨きがかかってるぞ」
僕にはわからないやり取り。冷たいやり取り。
けれど大人の、仕事の、遥か雲の上の。
「氷室、外してくれ」
「……えぇ」
「頼む」
「……はぁい」
ああ、愕然としてしまう。
あの山口に、氷室冷夏に、言うことを聞かせてしまった。
長年の付き合いなんだろう。信頼関係が、言葉の、態度の端々からうかがえる。……痛いほどに。
立ち上がり、扉を開けて出ていった山口を見送って、たっぷり十秒。
「……改めてすまなかったね。今回こういう方法をとったのにも、きちんと理由があるんだ」
「理由ですか」
「見たかったんだよ。君が、どれだけ氷室冷夏を、受け入れているのか」
「……受け入れ?」
いまいちピンとこない。
「朝に突然家を訪ね、『個室ランチ予約してあるから行くよ』と有無を言わさず連れ出す子を、どう思う?」
「……どう思うも何も、連絡くらいは欲しいなぁとは思いますけど」
「だが、来たね」
「断る理由も、ありませんし」
いまいち、ピンとこないなぁ。
「道中、楽しかったかい?」
「ええ、まぁ、……かなり」
「はは、よかった」
そんな、『いまいちピンときていない僕』に対し、柏木さんは居住まいを正した。
「釘を刺しにきたわけじゃないとは言ったが、本当はそうじゃない。逆の意味で、刺しに来たんだ」
「……逆?」
「男と二人、氷室を歩かせる。騒ぎになるかも、迷惑になるかも。そういう後ろめたさ、申し訳なさがあるなら、それらは一切、気にしなくていい」
……ああ、ここでなんとなく、
同じ苦労人の匂い。けれど根っこもまた同じ。
氷室冷夏、山口透子に、期待している。
「とにかく、彼女の思う通りにさせて欲しいんだ。頼む」
テーブルに手をつき、大の大人が頭を下げる。
僕は少し動揺して、けれど、その声に真剣味を感じたから、居住まいを正した。
「あんなにわがままの似合う子は、いませんよ」
「……ああ。そう、その通りだ。氷室冷夏は、世界の中心でいい」
「楽しいじゃないですか、彼女の思う通りに、ぐるぐると回るのも」
「だがね、残念ながら彼女がそこまで自分を出せる相手というのは、決して多くない」
それは初耳だ。
鳥居さんにも、芹音さんにも、十分自分を出しているように思えたけれど。
「スタッフにも評判の良い、行儀のいい子でね。ニコニコと愛想を振りまいて、とてもじゃないが十代の女の子とは思えないくらいだ」
「……へぇ」
僕の知らない、氷室冷夏の顔。痛みは見ないふり。
「ここに入ってきた彼女を見て、驚いたよ」
苦笑いの柏木さんは、痛みを見ないふりを、しているようだった。
「氷室が言っていたんだ。君なくして、氷室冷夏はありえない、ってね」
「……え」
ずぐ、と胸に何かを刺された。
だって、大げさだ。バーチャル授業で初めて会って、実際に顔を見たのはほんの二ヶ月前。少しずつ、僕らは仲良くなってきたけれど――
だから、そうであるなら……
頭がうまく回らない。そんな僕を、柏木さんはやっぱり、苦い笑いで見ていた。
「だから心配はしていない。氷室冷夏は、君をも糧に大きくなる」
「糧、に」
これは牽制? いや、事実か。
やっぱり僕は小さい。
「さ、氷室を呼び戻そうか」
「……はい」
頭がうまく回らない。思考が追いつかない。
けれど、山口の顔が見たかった。
深々と礼を残し、柏木さんは去っていった。
釘を刺しに来た? ぶっとい杭を打たれたみたいだ。
僕らの前には、運ばれてきた料理が。アミューズブーシュにサザエのベニエ。食前酒代わりのノンアルコールカクテル。
「桜庭ぁ、ご飯来たよぉ」
「あ、うん。……おいしそ」
「ねー。あ、柏木さんのおごりとかじゃないからね。私、わ・た・し! の! おごりだからね」
「……うん」
ああ、いつも通りの山口で、安心する。
頭の中が彼女でいっぱいなんだ。柏木さんの言葉が耳から離れない。その意味を考えれば考えるほど、今目の前の彼女の顔が、まぶたに焼き付くようだった。目を開いていても、閉じていても。
そうだ。僕の世界の、その中心に山口がいる。彼女と出会ってからの僕は、彼女なしに語れない。手を取られ、引っ張られ、押されて振り回されて、今僕はここにいる。
行き着く先のことなんて考えなくていい。
「……そういえば」
「うん?」
グラスを傾ける山口を見ていると、ふと気づく。
細身のリボンのような銀細工が施された、小さなさりげないヘアピンが、髪を耳にかけるようにして踊っていた。
……僕が、選んだはずの。買わなかったはずの。
「えへへ、買っちゃったぁ」
照れ臭そうに、でも心底楽しそうに、彼女は笑う。あるいは、はにかむように。
ああ……
胸の中にある温かな何かが、絞られて、引き絞られて、喉元を通って目の奥に溜まっていく。
ああ、熱くて、溢れてしまいそうだ。
僕は一生、この子に振り回されて生きていきたい。そんなふうにさえ思えてしまう。一生勝てないまま、一生を見上げて、掌の上で。
気づいていなかっただけだ。知らなかっただけだ。僕はたぶんずっと、そうずっと。
山口が、好きだ。
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