大きな岐路に立っているのだ。
十二月に差し掛かろうとしている。
気温はぐんぐんと下がり、外はもうコートなしでは出られないほど。
だからというわけではないけれど、休日は家で過ごすことが多い。
母さんは苦笑いしながら、それでも楽しそうに僕の相手をしてくれる。
父さんがかれこれ二週間ばかり仕事で遠出しているから、寂しいのもあるだろうか。
テーブルを挟んで重ねる談笑に中身はないけれど、ああ、「母さんだなぁ」と感じる。二人の間、話し始めた頃に紅茶から立っていた湯気は、すっかりと消えてしまっていた。
来客は、そのカップが空になったころのことである。
鳴ったチャイムに「はぁい」と返事をする母さん。ドアホン取らないと、誰にも聞こえないよ。
うちにも一応テレビドアホンとかいうものが設置されていて、門のところに取り付けられたカメラからの映像が、室内から見られるようになっている。……常識か。
ともあれその画面をぱっと見てみれば、ずいぶんと驚いた様子の母さん。
「どしたの?」
「え、珍しいお客さんだから。ちょっと出てくるわね。食器だけ片しといてくれる?」
「へーい」
気のない返事で送り出し、僕は立ち上がって食器を重ね始める。
珍しいお客さんか。僕が子供のころから、我が家にはときどき芸能人が遊びに来ていた。そういえば引きこもってからは一度も見たことはないけれど、僕でも知っている人ばかりで驚いたものだ。
それでもなお、珍しいお客さん。
――思い当たるのが一人いるんだけど、まさかね。
――そのまさかだった。
「おはよー。来たよー」
「来たよーじゃなくて、連絡くらいしようよ」
「いやー、ノリで」
「ノリって……」
「……ずいぶん仲良くなってるのね」
「そうなんですよぉ。さくら……あー……直樹くんとはもうかれこれ二ヶ月ほどの」
どうやら、二人は一応顔見知りではあるらしい。
そりゃそうか。山口はずいぶん父さんを信頼してるみたいだし、それであれば母さんと接点があってもおかしくはない。
なんて驚きも、「直樹くん」の呼び名に上書きされて消えてしまった。
「冷夏ちゃん、コート、預かろうか?」
「あ、いえ、今日は一緒におでかけしたいなーって思って」
「そう? 直樹、どうする?」
「……行く」
「準備する間、お茶の一杯くらいは飲んでいって。直樹がお友達からもらったっていうお茶が……って、あれ、もしかして」
「あーはい、それ私ですね」
「あら、それはまた、どうしよう」
「いえいえ、よろしければぜひ」
「そう? じゃあ、すぐ用意するから、直樹」
「わかってる」
二人、のんびりとくつろぎ始めたのを見て、僕はリビングをあとにした。
準備っていっても簡単なもので、財布とハンカチをポケットに詰め込んで、コートを着たらはいおしまいだ。
でもそれじゃ、お茶の一杯を飲む時間すらないよなぁと思いながら、僕は自室で少しばかり服装を見直すことにした。さすがにコートの下は上下スウェットでした、じゃあ、あんまりだ。
今日の山口は、初めて見るよそ行きの私服姿だった。黒のチェスターコートに、裾から覗く白のプリーツスカート。スタイルが良くて立ち姿のきれいな彼女が着ると、反則なくらいビシッと決まってるんだ。大人っぽい、感じだったな。
張り合うのは無理にしても、雰囲気くらいは合わせたい。かといって張り切りすぎるのも――
「どーん!」
「うわぁ!」
鏡を前に悩んでいるうちに、乱暴にドアが開かれた。犯人はもちろんヤツだ。
「何してるの? さっさと出かけるよ」
「いや、服が」
「じゃあこれとこれとこれで」
クローゼットを覗き込んだ山口は、一切の迷いなく服を取って僕に投げつける。……投げるなよ。
テラコッタカラーのパーカーに、ネイビーのステンカラーコート。それから黒のパンツ。
「さっさと着替える!」
「……ハイ」
センスがどうとかはわからないけど、まぁでも、山口がこれでいいというならそれが一番だ。
もともと勉強してこなかったのは僕なんだから、ちょっと背伸びしようと意味がない。下手の考えなんとやらだ。
僕は山口のコーデを信じて着替えを終え、彼女と並んで家を出た。
母さんが妙な笑顔で送り出してきたのは、無視だ。
「相変わらずきれーなおかーさんだねー」
歩き始めてすぐ、母さんが家に引っ込んだところで第一声。
「会ったことあるんだ」
「そりゃあるよ。何なら越してきたとき挨拶したもの」
「……そうなんだ。知らなかった」
「まだバーチャル授業も受けてないころだからね。桜庭は、ね」
「うん……でも、いいよ、今、いるし」
「そう、今いるしね」
楽しそうに笑う山口の言葉が、白く空に溶けていく。
ああ、本当によかった。外に出て、学校に行って、彼女に会えて。
ポケットに入れた手を握り、広げ、なんとはなしにため息一つ。白く、消えていく。
「ちなみに、どこ行くの?」
「
「人、多くない?」
「いいじゃん。あ、個室ランチ予約してあるから」
「じゃあ拒否権なかったじゃん……」
「そうだよ?」
そうだよじゃなくて。いやまぁ、予定も何もあったもんじゃないから、いいんだけど。
断れないの――断らないの、知ってて言ってるんだからなぁ。ずるいんだ、山口は。
「支払いは任せ給え。というかもう支払ってある」
「……まぁ、僕のお小遣いじゃ、ね」
「そういうこと。お金はあるほうが使えばいいんだよ。有り余ってるんだから」
「かっこええ……」
「はっはっは」
一度は言ってみたいものだ。お金が有り余って仕方ない、とか。
でも、それに関してももう、開き直れるようになってきた。なんというかまぁ、見栄を張れるような
それでも一緒に笑えるんだから、それでいい。山口が楽しいのが一番だ。
「でも、電車なんて久々ぁ。こっち来てから原付ばっかだし、東京じゃ車ばっかだし」
「そうなんだ。東京こそ公共交通機関のイメージだけどな」
「仕事はスタッフが車回してくれるんだよ。それ以外の移動自体、あんまりしなかったし」
「あー、なるほど」
本当に、女優一筋って感じだ。
こんなにものんびりと、男と二人で町を歩いている山口を――氷室冷夏を、
のんびりとした横顔は、年頃の女の子そのものだ。役者人形、冷たい仮面を被った女優氷室冷夏ではなく、ただの山口透子。
それでも、背筋の凍るほどにきれい、なんだけど。
電車内の山口は、ちょっとそわそわと落ち着きがない。
窓の外を見ては僕に話しかけ、また窓の外を見る。子供じゃないんだから、と思いながら、そんな無邪気な彼女がまぁ、かわいくて。
僕はマスクの下、にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべてしまうんだ。
視線は少し。それからひそひそと内緒話も少し。
けれど山口は少しだって気にする素振りもなく、夢中になっておしゃべりだ。マスクしてたってバレるのは、もう実証済みだっていうのに。ああなんて無防備な。にやけてしまう。
「笑いすぎ」
「ごめん」
そんな彼女も、少しだけにやけている。
休日でも、普通電車は空席が目立つ。ロングシートの半ばほどに並んで座った僕らは、もしかしたらデートに見えていたりするんだろうか。
SNSのお祭り騒ぎは一旦の収束を見、結局のところ『真偽不明』で落ち着いた。それをこんな、人の多いところに出かけようっていうんだから、彼女は一体何をどうしたいのやら。
がたん、たたん、規則正しく揺れる電車は、僕らを折り目正しく運んでいく。レールに沿って、決まった速度で、がたん、たたん。人が降りて、乗って、増減を繰り返しながら少しずつ。
暖房で温かな車内で、穏やかな日差しを浴びて、山口の頬が柔らかく白く。
「着いたら、ランチまでちょっとあるね」
「……うん」
「デパートでも、見て回ろっか」
「うん」
「私、なにかプレゼントしてあげるよ」
「……それは、いいよ」
「えー。アクセサリーの一つでも、つけたらいいのに」
「じゃあ、選んでくれたら。そしたら、買うよ」
「そっかぁ。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとくらいは、貯めてあるから」
こんなこともあろうかと、ってわけじゃないけれど。
「そういう山口は、アクセサリーの一つでも」
「つけてるよ。ネックレス。コート脱いだら見えるけど、見る?」
「いや、大丈夫」
「じゃあ、ランチのときだね」
「……うん」
なんかもう、何もかもバレバレで、恥ずかしい。
探るような瞳。涙に濡れたような輝きで。
山口は車窓から何を見てるんだろう。視線を追いかけてみるけれど、景色はあっという間に流れていって――
気づけば、目的地だ。
デパートでいろいろと見て回った。
服を見た。あれこれ身体に合わせて見てみたけれど、結局どれも買わなかった。どれも似合ってたのになぁ。
アクセサリーを見た。別れて見て、選んだ一つを見せ合おうなんて言うから、僕はガラにもなく張り切ってしまって……結局どれも、買わなかった。
家電製品を見た。アレは便利だ、アレ欲しい、これはいまいちだったなぁ、これ気になってる。あれこれ相談していると、なんかこう、妙な気持ちになってくるんだ。わかるかな。わかってほしい。
それからデパ地下、食品街。試食すらせず、「おいしそう」を積み重ね、僕らは結局何も買っていない。だってこれからランチだから。
そうして、僕らはデパートから出て、予約の店へと向かった。
駅からほど近く、雑居ビルの一階部分がそうらしい。
聞けば、たった三つほどの部屋で一日何組、みたいなコース料理の専門店らしく。
雑居ビルとは思えないきれいな内装に、少し気後れしてしまう。なるほど確かに、僕の小遣いじゃ、まったく心もとない。
予約の名を告げ、店員さんの案内に対し山口は実に堂々としたものだ。慣れてるんだろうな、この程度のことは。
案内された一室は、重厚な木の引き戸で仕切られていた。それでも軽やかに、すぅと開いてみれば――
「や」
中で、ピシッとビジネスマン然とした壮年の
……え?
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