火のない所に煙は立たぬ、とは限らない。
その日のSNSはちょっとしたお祭り騒ぎだった。
愛知県某所でつぶやかれた、芸能人の目撃情報が原因だ。
氷室冷夏、夜のデート。
写真こそないものの、これまでにネット上に上げられた情報や具体性、その他諸々から信ぴょう性は高い――とされており、噂が噂を呼んでの騒動になった。
何しろ氷室冷夏といえば女優一筋で、これまで幾多のイケメン俳優と共演しながらも、プライベートにおいては男の影一つ見られたことがない。『役者人形』という字名は、あまりのストイックがゆえでもあるのだ。
そんな彼女に、降って湧いたような色めいたニュース。
「うらやましい男もいたもんだね」
「……ねぇ、りぃ、この男どこまで本気だと思う?」
「え、さすがにボケでしょ?」
目の前で隣り合い、お弁当片手に何やら話している二人は、『りぃ』こと鳥居真魚さんと、当の氷室冷夏その人である。
場所はいつもの踊り場で、週に一度はこうして交流の場として昼食をともにしていた。
「え、どうしたの」
「嘘だろ。おい嘘だろ」
「本気の目だ。ねぇとこちゃん、あたし怖いんだけど」
いやまぁ、冗談ではあるんだけど。
昨夜の打ち上げは、はたから見れば男女のデートだったということで、僕らはやっぱりというか、バレていたらしい。
それでも慌てた様子がないのは、山口本人にそれがないから。
「帰りがちょっと遅くなったのを、芹ねぇにちょっと怒られたくらいだよ」
「もっとこういうの、騒ぎになると思ってた」
「そんな、恋愛禁止のアイドルじゃあるまいし」
けれど知名度で言えば比較にならない。もっといえば、注目度だ。
男の噂がこれまで一つもない。誇張でもなんでもなく、女優一筋だというのが世間一般の氷室冷夏への認識だ。
突然の長期休養。突然のデート騒動。
そりゃあ、注目されて然るべき、と思うけれど。
「事務所からも何もないし、あ、でも両親からはちょっとイジられたな」
「イジられたんだ」
「紹介しろよーとかなんとか。まぁ、今まであんまりにも浮いた話がないもんだから」
「あたしびっくりしたもん。男と二人で歩いてるーって」
ああ、それもあってか。鳥居さんが、山口を怒らせてしまったのは。
「よくわかんないんだよねぇ、恋愛とか。好きになるとどうなるの?」
「あたしは……なんかこう、きゅっとなって、ぐーっとなって、わぁって」
「え、桜庭」
「全然わかんないね」
「理屈じゃないんだよ。そのときがきたらわかるって」
開き直るな。
呆れたような目の山口に、鳥居さんは「なんだよぉ」と不満そうだ。
山口もどうやら
「桜庭のことは実際どうなの」
「本人の前で聞く?」
「や、だって気になるじゃん。男と二人で歩いてるーって」
「……聞いたよソレ」
とはいえ、気になるかといえばそりゃあ、僕だって気になる。氷室冷夏が――山口透子が、僕のことをどう思っているのか。
友達だ、といえばそれまで。
「まぁでも、可能性としては、一番高いんじゃ?」
「お、え、へぇぇ」
「何語?」
素っ頓狂な声を上げる鳥居さんに、ツッコむ山口。そして言葉を失う僕。
いや、でも、そんなふうに言ってくれるなんて思ってなかったから。
「他の子が可能性なさすぎってのもあるけどー」
「……そっちじゃん。つまんなー」
「面白がるな、そもそも」
ゼロパーセントと、一パーセント。みたいな話だろうか。それでも、妙に浮かれてしまう自分がいる。
同時に、目の前で恋バナをされるという時点で、意識されてないも同然じゃないか、なんて考える自分も。
そんな相反する気持ちが、胸をぐるぐるとかき回す。
「共演者とは、どうなの?」
「仕事の人は、仕事仲間としか見れないなぁ」
少なくとも、彼女の
というかそもそも僕は、意識されていたい、んだろうか。考えてみれば、「好きだ」と胸を張って言えるほどの気持ちが、僕の中にないんだ。
そりゃあ好きだ。山口はいい子で、あるいは恩人で、僕が今ここにいるのだって彼女のおかげなんだから。好きでなきゃおかしい。
でもそれはきっと、違うんだろうな。きゅっとしないし、ぐっとしないし、わぁってならない。
「なんか中学時代を思い出す二人だなぁ」
「失礼な」
「まったくだ」
事情は天と地ほども違うにしろ、お互い真っ当に学生生活を送ってこなかった者同士。中学レベルだと言われても、何の言い訳もできないのだけれど。
弁当に入ったササミの大葉包みをぱくりと一口、かみしめる。
「試しに付き合う、みたいなのは?」
「いや。試しにとかないから」
「うん、だよね。そう言うと思った」
僕も思った。
「まぁ、でも、なんかあったら言ってよ。相談乗るよ」
「あー、うん、まぁなんかあったらね」
「ねぇやつじゃん!」
かしましく、昼時は過ぎていく。
ああ、振り返ってみれば激動の一ヶ月も、はたから見れば大した進展でもなくて――
僕っていうヤツは、空回りしてたんだろうか。なんて、少しセンチな気持ちになってみるのだ。
帰ってからコンビニに行く途中、山口の家から出てくるところの芹音さんと出会った。時刻は午後三時過ぎ、おやつの時間だ。
「やあ」
と手を挙げる彼女に、僕は「どうも」と軽く会釈を返す。
「コンビニかな。一緒してもいい?」
「え、はい」
「じゃ、いこうか」
それにしてもかっこいい人だな。立ち姿がきれいだ。揺れる長い髪は、けれど乱れることもなく、ひらりと彼女の跡を追う。
脚の長い彼女の歩幅は広く、僕は少しだけ早足で。けれども彼女は、あえてだろう、ゆっくりと歩幅を縮めることをしなかった。冷たい人だ、とは思わない。
「冷えるね」
「そうですね。マフラーでもしてきたらよかった」
「風邪には気をつけなよ」
はい、と返事をしたきり、僕らは無言のままコンビニまでの道を歩いた。
食事の管理は、山口と遊ぶようになってからも続けている。たまに羽目を外したりはするけれど、その分後日調整したり、いろいろと工夫だってしてるつもりだ。
だから今日のおやつはちょっとした気晴らし。なんだか胸がざわざわして落ち着かない。お昼の話題のせいだ。
甘いシュークリームを一つ、二種あるうち、カロリーの低いほう。それから無糖のカフェオレを手にとって、レジに並んだ。
ちょうど僕の番が来たところで、隣に香る女性の影。落ち着くのに胸に迫る、あの香り。
「彼の分も一緒に」
「え」
「いいから」
強引な手際に、僕は拒むこともできず
そうして店外へ出た僕らは、また無言のまま並んで歩き出す。
……何の時間なんだろう、と思わないでもない。
こういうとき気を利かせて話題を出せたりすると、モテるんだろうか。いやでも、そもそも話したいと思っているかどうかもわからないわけで。いやいや、迷ってばかりで何もできないのがダサいんじゃないか。
そういう葛藤を、僕は表に出さないように努めた。そうでもしないと、またなにか妙なことを、つぶやいてしまいそうで。
「実はね」
山口の家の近くまで来て、芹音さんは唐突に口を開いた。
「雇い主に言われたんだよ。おやつを買って、招待してきて、ってね」
「え」
「窓から見てたんだ。まるで恋する乙女だな」
「……いや、それは」
「お説教はもう、透子にしたから。よかったら上がっていって。ほら、査定に響くだろ?」
「……それじゃあ」
山口の家は相変わらずおしゃれなのに簡素で、物が少ない。「ただいま」と芹音さん。「お邪魔します」と僕が続いた。
リビングでは、あの白いソファでごろりと寝転ぶ山口の姿があった。ブレザー姿のまま、リボンタイだけを外して。
「いらっしゃーい」
「人を使うなよ、人を」
「使うための人だもん」
「ハウスキーパーってそういうんだっけ?」
「違うな」
ですよね。
「でも桜庭、私が奢るよって言っても聞かないでしょ」
「……そんなことは」
「あるよね」
「……はい」
めちゃくちゃお金持ってるのは知ってるし、僕がさほどお金を持ってないのも知られている。それでもなけなしの、プライドとかいう
対して大人の女性、芹音さんになら、そこまでの抵抗感はない。もちろん、遠慮したい気持ちはあったけど。
「ちなみに今日は、何の」
「友達を呼んで遊ぶ日だよ」
「……そのうちほんとに炎上しかねないなぁ」
「そんなもんほっとけー」
あんまりにもな言い草の山口を笑い、僕は彼女の足元に腰掛けた。目の前のテーブルに、芹音さんがシュークリームとカフェオレを置いてくれる。
「ありがとうございます」
「うん。透子には、私の焼いたクッキーだ」
「いぇー。いいだろー」
「……いや、うん」
危ない。別に、なんて言ったら芹音さんに失礼じゃないか。実際ちょっとうらやましい。
がばっと勢いよく起き上がった山口は、そのまま僕の隣に座り直す。肩の触れそうな距離で、吐息の掛かりそうな、いつもの距離で。
「……これって友達の距離感じゃ、ないのかな」
「え、何を……今更」
「いや、あんまり意識したことなかったけど、そうなのかな、って」
「どうだろ……僕もあんまり」
意識はめちゃくちゃしてたけど、けど、そもそも男女の友達がどんな距離感なのかわからない。
慣れてないだけ、意識しすぎなだけ――そう思ってたくらいだ。
「ねー芹ねぇ、どう思う?」
「あぁ? まぁ、普通?」
「普通だって。なーんだ」
とん、と何気なく、山口は肩をぶつける。とん、と胸が跳ねる。
こういうかわいいことを平然とするから本当、油断ならないんだ。
「クッキー、食べてもいいよ」
「うん」
「カフェオレとシュークリーム、冷蔵庫いれとこっか」
「うん」
何もかもが彼女の術中。最初からこうするつもりだったろ――とも言えず。
SNSのお祭り騒ぎなんて結局、山口にしてみればスズメのさえずり程度のものであって、その生き方に何の影響も――
腕に絡みつく、柔らかな感触。
「これは、ちがうね」
芹音さんがキッチンに向かう隙を狙った一瞬の犯行。いたずらっぽく笑う山口はすぐに離れてしまったけれど、熱だけはいつまでもくすぶるようで。
せっかくのクッキーも、高そうなコーヒーも、味がよくわからなかった。
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