夜長に、夜中に。
カラオケのレパートリーは多くない。なにより苦手だ。
だからこの打ち上げの主役は山口で、かれこれ三曲、彼女はマイクを離していない。
ヒットチャート常連の女性ボーカル。エモい歌詞とエモい歌声、青少年の心をくすぐってしかたないその曲を山口が歌うと、ああ、なんてきれいなことだろう。
歌手のような技巧はないけれど、心に迫る発声を心得ている。浸るというより、ぶち込まれるといったほうがいいような――圧倒的な感情表現。
ああ、なんてきれいな。恐ろしいくらいに。
「やー。どもども」
僕の拍手に手刀で応え、山口はテーブルにマイクを置いた。もう何曲歌ったか、けれど彼女の声には喉への負担が少しも感じられない。さすがというか、なんというか。
「桜庭も歌おうよ。せっかくカラオケなんだからさ、うまいとかへたとか、ないって」
「うぅん……じゃあ、まぁ」
半ば強引に渡されたリモコンを受け取り、僕はヒットチャートから曲を探す。
無難なところしかしらないんだ。だから選ぶのは、ヒットチャート常連の男性ボーカル。
歌声だって無難なものだ。音を外すことこそないものの、高音はつらいし、低音は苦しい。というかそもそも、こんなにも大きな声で歌うって、いつぶりだろう。
ああ、でもこれは確かに、気持ちがいいかもな。
なんでだろうか、山口の前だと
そうして歌い終えると、楽しそうな山口は、笑いながら手を叩いてくれるんだ。
「いいじゃん。私好きだよ」
「ありがとう。でもやっぱり、喉に来るね」
一曲歌って、休憩を挟んでもう一曲歌っただけで、ちょっと。
「声の出し方だなぁ、そこは。やっぱりほら、正しい発声なんて、普通習わないし」
「確かに。でもカラオケ好きの人とか、自然に身についちゃうのかな」
「うーん……できる人はやっぱり、最初からできるよ。まぁ、だからうまくなるってわけでもないのが、難しいところだけど」
言いたいことは何となくわかる。スタート地点が違っても、結局走らなければどこにも行けないんだ。
「まぁでも、複数人でカラオケに来て発声の練習しようか、とはならないよね」
「間違いないね」
僕らは打ち上げをしにきたのであって、楽しみに来たのだ。
「というわけで私。山口透子、歌います」
ぱちぱち、と拍手。けれど山口は立ち上がりもせず、マイクを手に取った。
二人で三時間、僕らはたっぷり歌って、とっぷりと日の暮れた夜道に躍り出た。
まだまだ午後七時過ぎ。車道は途切れることのない車の列が光とともに流れゆき、ネオンよりも明るく町を照らし出す。
なんだか僕らは浮ついていて、彼女なんかはヘルメットも被らずに、リトルカブに身体を預けるようにして歩いていた。もちろんマスクをしているし、それであればカラオケの店員にもバレたりはしなかったけれど。
まだまだ遊び足りない。そんな空気感を、どちらともなく感じてたんだ。
すれ違う人たちの表情が疲れていても、楽しそうでも、ああ僕らにはまるで関係のない。
「次どこいこっかー。軽くしか食べてないから、適当になにか食べる?」
「久々にマックでも? もうずいぶん、食べてないし」
「あーたしかに。じゃあ、行こう」
夜の国道は流れが早い。行き交う車は、その色を確かめる前に過ぎ去っていく。
自転車が車道を使って僕らを追い越していくと、なぜだか面白くなって、揃ってくすくすと笑った。
自覚のできるくらい、テンションが上擦っている。テスト合格のせいか、カラオケのせいか、その両方か――わからないけど、楽しい――酔っ払ってる、みたいだ。酔っ払ったことなんて、ないのに。
国道沿いのマックは、夜にこそ混み合う。学生、サラリーマン、家族連れ。沢山の人でごった返す店内のその隅っこで、僕らは身を寄せ合ってスマホとにらめっこ。モバイルオーダーってやつだ。
「もう何年ぶりってレベルだからなぁ。どれがいいんだっけ」
「僕、ダブチでいいや」
「せめるなぁ。やっぱそれでもカロリーは気になる」
ダブチのカロリーはと僕は自分のスマホで調べてみれば、
「よんひゃくごじゅうなな……」
「うわぁ……」
ちょうど、二人で分けたシロノワールくらいだ。
「……あとはドリンクだけでいいか」
「それがいいね。カラオケでもちょこちょこ食べたし」
「山口は?」
「私は普通のハンバーガー」
「意識高いなぁ」
「はっはっは。オフとはいえ、ですよ」
そして山口もセットはやめておいて、まとめて注文完了だ。
ざわざわと騒がしい店内は、隅っこにいても隣に人が立っているくらい。それでもたいていみんなスマホに夢中で、山口の
マスクの下、僕のにやけた顔は、山口だけが気づいていた。
「二階、空いてるかな」
「最悪、外でもいいかも」
「まー、バーガーとドリンクだけなら、それでもいいか」
僕は知っている。この髪は、この目は、この耳は、その調和は、彼女でしかありえないこと。それが、マスクで隠しきれないほどきれいなこと。
やがて番号が呼ばれ、商品の乗ったトレイを受け取った僕らは、階段を上がって二階へ。一階よりも遥かに多い席も、今はほとんどが埋まってしまっていた。階段横のちょっとしたスペースからフロアを見渡してみても、どうにも二人で掛けられる席が見当たらない。
顔を見合わせ、ため息一つ。僕らはその場のゴミ箱上にトレイだけを片付け、それぞれのメニューを持って階段を下った。
「やっぱだめかー」
「しかたない」
「駐輪場?」
「さすがに人通り多いとこは避けよう」
「ん、そだね。マスク外さないと食べれないもんね」
店を出て、周りを見渡して、僕らは隣の建物に当たりをつけて、その駐車場の塀の陰に座り込んだ。
たくさんの人がいて、たくさんの車がぐるぐると行き交っていて、それなのに、ここはひっそりと暗く静かだ。何の建物かはよくわからないけど、まるで切り離されたみたいな。
マスクを外した山口はやっぱりきれいで、僕はやっぱりそれを見てしまうんだ。
「さー、どんなもんかな」
「期待はしすぎないほうが」
「気の持ちよう、だよ」
がさがさと包み紙を解き、あぁんと大きな口を――
「や、見すぎ見すぎ」
「ごめん」
さすがに咎められてしまった。
しかたないと僕も包み紙を解き、やけくそみたいに大きな口で、がぶりと食らいつく。
ああ、久々のこの、濃さ。チーズ、塩、肉。カロリーの味がする。もっといい肉を使ったバーガーも、もっといいチーズを使ったバーガーも、バンズもそれから塩だって。世の中いっぱいあるのに、なぜか戻ってきてしまう味だ。
なぜだろうとかじったバーガーの断面を見ていると、ふと視線を感じる。山口が、覗き込むように僕を見ていた。
「……んん?」
口にものを含みすぎて喋れない僕を、彼女はクスクスと笑う。
「おかえし」
つんつんと頬をつつかれ、僕は視線で抗議した。
「いただきまーす」
そんな視線もどこ吹く風、山口も大きな口でハンバーガーを頬張る。
おいしい、と感動するようなものじゃない。けれどかみしめるように、彼女もやっぱりその断面をまじまじと眺めていた。
「なんでだろね」
「ね。なんでだろ」
わからない。
答えの見つからないまま食べ終え、店内に戻ってゴミを片したら、僕らは再び国道を歩き始めた。
今度こそ目的はなく、ただただ、歩くだけ。
気づけば時刻は八時を回り、本来であればそろそろ帰らないといけないころだ。でも、帰りたくない。別れたくない。
そんな未練を知ってか知らずか、彼女は「まだ足りないなぁ」とつぶやく。
リトルカブを僕が押し、彼女はメットも被らず、隣を歩く。遮るものは何もない。
僕らは少しだけ浮ついていて、テンションが上擦っていて、冬の空気は少しずつ少しずつ、けれど確実にそれを冷やしていくんだ。
なんだか少しだけ、正気に戻った気持ちで。
「うち、くる?」
僕は言う。
「……いく」
山口は答える。
それ以降は無言のまま、ただ歩いた。
ああ、本当にどうかしてる。僕らは友達で、だからもちろん付き合ってもいないし、なんなら手を繋いだことすら――あぁ、
なのに、うちくる? だってさ。どうかしてるよ、本当に、今日の僕は。
どうかしてるのは山口もだ。いく、だって。
まぁ、でも、大丈夫だ。父さんはいないけど、母さんも今や専業主婦。僕の帰りを待ってくれている。友達をちょっと上げて、お茶の一杯でもごちそうするだけだ。
歩いて、歩いて国道を一本離れるともう、
覚めていく熱を、僕らは少しずつ自覚していく。そうすると、途端に意識してしまうんだ。
「あ、の」
「うん。大丈夫だよ、芹ねぇにはちゃんと、連絡するから」
「いや、でも」
「まぁ、反対されたら大人しく帰るけどね」
「……うん」
「されないと、思うな」
ささやくような声に、僕はすくみ上がってしまう。
そんなとき。
間の抜けた電子音が夜道に響く。山口のスマホが鳴っている。
取り出し、画面を見て、「あはは」と苦笑い。僕に見せてくれた画面には、『芹ねぇ』の文字。それを受けて話し始めると、相槌をいくつか打って、すぐに通話は終わってしまった。
なんとなく、予感はしている。
「……お察しの通り」
「……そっか」
そりゃあ、そうだろう。されないわけがないじゃないか。
やっぱり山口も、テンションが上擦っていて、おかしくなっていたんだ。
「うわー、なんか急に恥ずかしくなってきた」
「ね。なんか、僕ら、お酒飲んだらダメな人になりそう」
「っぽいねー。完璧酔っ払ってたよ、私たち」
なんとも間の抜けた話で、結局大した心残りもなく、あっさりと僕らは別れた。
終わってみれば「楽しかったな」以外の感想もなく、ああこれでよかったな、とすら思っていて――
僕は初めて、僕のほうから山口に電話をかけた。
「おやすみ」を言いたかったんだ。
「おやすみ」が、聞きたかった。
どちらともなく、通話を切る。
夜半過ぎ、声が耳から離れない。
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