テンション上がってきた。
僕らの日常にさして変わりないまま、季節は立冬を迎え、冬。
まだ冬本番には程遠いものの、そこそこ着込んでも寒いと思うことは増えてきた。
十一月の十日、そんな今日は、小春日和――うららかな日差しの温かい、穏やかな朝から始まった。
真剣な表情で小テストの答案用紙に向かう山口を、僕は隣の席で眺めていた。
教卓には壮年の男性教師。渋い声の、優しい先生だ。
「あと一分」
小テストは一回たったの十五分。山口透子、本日五度目のそれである。午前中は四つで終わらせた僕は、高みの見物だ。……低み?
「四・三・二・一、そこまで」
「はぁぁーー」
盛大なため息。これまでの四つもまだ結果は出ていないため、緊張感が途切れない。
「ここまでにしとくか?」
「お昼からまた電話します」
「そうか。じゃあそれも含めて採点して、放課後までには結果が出ると思うから」
「はぁい」
先生は答案を回収して、さっさと出ていってしまった。あまり雑談をしようとかはないらしい。それともそういう決まりなのかな。生徒と必要以上に馴れ合わないこと、みたいな。何しろ先生は先生であって、カウンセラーではないのだから。
まぁ、僕らには関わりのない話。今は、突っ伏してしまった山口だ。
「大丈夫?」
「なんとか。あー、たぶんギリギリ」
「でも、それがわかるんなら成長だよ」
「うぅ、桜庭やさしい」
本当にできないヤツは、自分の点数を把握できない。ソースは一月前の山口だ。……これを言うと『やさしい桜庭』が台無しになりそうなので黙っておこう。
机に突っ伏したまま顔だけこちらに向けた山口。頬がつぶれて、なんとも。
「これ全部合格で、授業五時間分? 少ないよー」
「でも、合計一時間ちょいでそれだけとれるんだから、破格っちゃー破格では」
「そういう問題じゃないの」
どういう問題だよ。いやわかるけど。
何しろ僕らと来たら、一単位修得のための出席日数が、もはや把握できないほどに足りていない。この先どれだけの小テストを受けなくてはならないか、数えるだけで気が滅入るほどだ。
おそらく百は下らない。
「でも、これもまた青春。勉強やだぁ、なんて、言ったこともなかった」
「女優の勉強は?」
「私は感覚派。割と冗談抜きで、天才だと思ってる」
「……すごいな」
言い切る彼女の顔に、冗談などといった色は一切見受けられない。本気で、自分を天才だと言い切っている。
そしてそれは事実だろうと思う。現状がすべてを物語っている。日本中が彼女の演技に熱狂し、彼女の休養を日本中が惜しんでいるのだ。
勉強だってもちろん、してないわけではないと思う。感覚に寄っているとはいっても、それだけじゃあ、いくらなんでも。
……なにより、天才っていうのは、常人とは努力の尺度が違うんだ。そう思っていないだけ、というのも十分ありうる。
「まぁでも、経験も勉強っていえば勉強なのか。現場で学ぶってやつで」
「ああ、そっか、なるほど」
「そういう意味じゃ、姫崎さんからもずいぶん学んだ気はする」
「父さん?」
「二枚目から三枚目、シリアスからコメディ、役幅広いよね」
「確かに、いろいろやってるなぁ」
山口と共演していた『恋ほら』においては、彼女の担任教師として。ちょっとおせっかいでお調子者で、でもいざとなると生徒と本気で向き合ってくれる。
大河にも出てたっけ。勇猛な武将だった。刑事モノでは理知的なキャリア。他にもいろいろと。
「桜庭は演技、やってみたことないの?」
「……ないよ」
ざわ、と胸の騒ぐのを抑える。それから、「僕なんて」という言葉も飲み込んだ。
「ねぇ、桜庭さ、結構演技、厳しいでしょ」
「……え、なんで」
「私のちょっとした仕草というか、表情というか、なんか、ときどき……探られてるみたいな目、してるから」
「……そんなことは」
僕に自覚はないにしろ、探るような目はお互い様だろう――これもまた、飲み込む。
「あ、嫌とかじゃないよ。ただ、なんとなく演技についてわかってるなぁって、気がしてるから。やりたかったのかなぁーって」
「……というか、父さんに、憧れ……っていうか、尊敬、というか」
「そっかぁ」
少しだけ残念そうな山口には悪いけど、これについては、本当にその通りなんだ。父さんに憧れて、父さんを尊敬して、彼の何気ない仕草とかを観察してるうちに、なんとなく
でもそれだって、たまに「あれ?」って思うくらいで、精度もなにもあったもんじゃない。現に彼女の言う『愛想笑い』だって、どこからどこまでがそうなのか、わからないんだ。
演技にはうるさいほうだ、と思っていたのになぁ。
「でも興味あったら言ってね。教えてあげる」
「それはまた、ぜいたくだね」
「使えるものは何でも使えばいいの」
「……父さんと同じこと言ってる」
「だって姫崎さんの言葉だもん」
……なんだか、二人揃って父さんの言葉に影響されて、きょうだいみたいだ、なんて。
妙な想像に熱くなった頬を冷ますように、ペットボトルの水を一口含んだ。
「使えるものがあったなら、それに報いる気持ちで使いなさい、ってね」
「そこまでは、聞いたことないな」
「聞けば教えてくれるよ。いわく、親だろうが兄弟だろうが友達だろうが、自己啓発本だろうがネットのコメント欄だろうが、子供の頃聞いたなんてことない一言だろうが、君がそうと決めたなら、かけがえのない宝物だ」
「……なるほど」
思い出すのは、鳥居さんに怒ったときの山口の言葉。
私の友達を決める権利って、りぃにあるんだっけ?
ああ、これか。これこそ彼女の怒った理由。気に入らなかった理由。
山口の決めた『友達』という価値を、鳥居さんは否定してしまったんだ。だったらさっき、「僕なんて」という言葉を飲み込んだ判断も、正解だったな。
「でも、ネットのコメント欄に報いるのは難しそうだなぁ」
「そこ?」
冗談めかして、僕は話題を終わらせた。怖かったんだ。彼女の中に住まう父さんを、掘り下げるのが。
ずいぶん根深いところまで、彼の言葉が染み入ってるみたい、だったから。
「ぃやったぁー!」
狭い教室に大音量が響き渡る。ボイトレと実践によって培われた声量は大変なもので、とてもきれいな声ではあるんだけれど、いやぶっちゃけうるさい。
昼からのテストを含め、午後四時頃になって答案を返却し、「よくがんばったな」と一言だけ残して先生は出ていった。その直後のことである。
「やった、やったぁ。全部合格だって、合計八つ、全部だよ全部」
「うん、うん。すごい、すごいから」ちょっと静かに。
いくら防音とはいえ、こうまで大きいと廊下まで響いていそうだ。
とはいえ、僕だって嬉しい。今日までずっと山口の勉強に付き合ってきたし、彼女の成長を一番近くで見守ってたんだ。これだけ喜んでくれるなら、ああ、本当によかったと思う。
なんというか本当に、年相応というか……もっと幼いくらいの、無邪気な笑顔だ。胸をぎゅぅと締めつけられるような、愛くるしい。
「桜庭も、よかったねぇ。同じ八つ、全部」
「山口に教えたのが、いい復習になったんだよ」
「そっか、そっかぁ」
出るドラマはことごとく高視聴率、CMに出れば大ヒット商品を生み出し、舞台に出れば連日満員。結果を常に出し続ける少女が、学校の小テストでこの喜びようだ。ちょっとよくわからなくはある。
笑みを浮かべながら内心首を傾げる僕を、山口は笑った。
「うれしいよ。本当に。嘘じゃないよ」
「う、うん。わかるよ」
「本当かなぁ。わかってない、感じだったけどなぁ」
ほら、やっぱり山口だって、探るような目をして。
……なんて、僕がわかりやすいだけか。
「苦手だけどがんばった、みたいなこと、そういえばあんまりなかったな、って」
「……あぁ」
彼女は自称するほどの天才で、女優はまさに天職。やればやるだけ伸びる、それはあるいは線路の上を走る列車のようなもので。もちろん、僕なんかより、いや想像もできないくらいの努力はしたんだろうけど。
それでもこの一ヶ月、本当に一歩一歩、地道にやったもんなぁ。中学校の範囲から、少しずつ確実に。
「なんかいけそうな気がしてきた」
「その意気だ」
「でも今日はもう帰ろうね」
「その意気だ」
「……え?」
うん。
僕なりの冗談を「もー」と笑い、山口は荷物をスクールバッグにしまい立ち上がる。緩んだ表情の締まらないまま、僕らはメタクラをあとにした。
それから、山口の提案で打ち上げをすることにした。初めての小テスト、合格記念だ。
いつも通りリトルカブを押して行く、町の小さなカラオケ店の、小さな一室。L字型のソファで、僕らはどうしてか隣同士。
「なにか頼む?」
「打ち上げらしく、いろいろ頼も。お母さんに連絡した?」
「うん。そっちは」
「だいじょぶ。芹ねぇ、デート楽しんでこい、だって」
「……うん」
距離の近さも、ちょっとしたからかいも、少しだけ慣れた。うまくは返せないけど、きっと前みたいに頬を赤くしたりは、ないだろう。少しだけ、顔がぽかぽかはするけど。
僕はドリンクバーで入れてきたカルピスソーダをあおる。
「あ、乾杯はぁ?」
「あ、ごめ」
「じゃ、ほら」
山口の掲げるカルピスソーダの入ったグラスに、僕のそれを近づける。
山口は僕を見つめて、僕はその瞳に魅入られる。
「小テスト初合格に」
「進級への第一歩に」
乾杯。
僕らの夜は、こうして始まった。
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