時、過ぎ行き。




 穏やかに日々は過ぎ去っていく。

 迫る『大事な話』に時折焦る気持ちも浮かぶけれど、透子と話せば露と消えるんだ。

 舞台の話も少しずつ進んで、けれどそのほとんどは透子が決めた。僕は当日の流れを教わる程度で、なんなら台本すら最後の一ページしか読んでいない。いや正確には、渡されていない。

 最後の一ページ。物語のオチ。そして僕がするべき唯一のアクション。それだけだ。

 合図は当日その場で透子が出す。僕が動いて、物語が閉じる。

 プレッシャーはもちろん。動画サイトにも投稿される、氷室冷夏の舞台。本来人間がやる必要すらないであろうその役をあえて演じる、ずぶ・・の素人――下手を打てば、どれだけ叩かれることか。

 けれど透子は気にしない。打つ下手なんてないから、大丈夫――そう言い切って。

 単位を取りきった今、登校の必要はない。けれど、僕らは不思議とメタクラに通って、テキストを開いて、肩の触れ合う距離で勉強を続けていた。


「もう、二年生かぁ」

 シャープペンシルを持ったまま、透子がつぶやく。

「早かったね」

「ねー。楽しかったなぁ」

「いろいろやったもんね。なんなら小中全部合わせても、この半年ほど濃くないかも」

「あはは、言い過ぎ」

 いや、本当に。

 たった半年、いろいろありすぎて思い返すのも大変なくらいだ。でもどれも明確に思い出せるほど鮮烈な記憶で、僕はこの思い出だけでこの先を生きていけるような気がする。

「来年はもっと、濃くしようね」

「うん。できるといいね」

「クラスメイトと仲良くなるのはいいことだけど」

「うん」

「二人の時間は、絶対取るんだよ」

「うん、わかってる」

 当たり前だ。鳥居さんや新谷くんがどんなにいい人でも、透子とずっと一緒にいたように。僕はきっと、二年生になっても彼女のことばかり見てしまう。

 むしろ心配なのは透子のほうだけど、きっと言わぬが花というやつだ。

「あ、そういえば今日って」

「卒業式だね」

「今何時?」

「えっと……十時過ぎくらい」

「終わり際に呼ばれてるんだよね。なんか、送辞的なのが欲しいんだって」

「へー。受けたんだ。珍しいね」

「田代先生からのご依頼だからね」

「ああ、なるほど」

 田代先生、というのは、このメタクラの担当で、壮年の優しい先生だ。たくさんの小テストに文句一つ言わずに付き合ってくれて、適切な距離感で僕らを見守ってくれていた。

 そんな先生からの要請なら、そりゃあ受けたっておかしくはない。

「タダで?」

「そりゃそうさ。私は現在休養中の身で、ただの学生だからね」

「今年の卒業生はラッキーだなぁ」

「そんな大した話は……っていうか、直樹、見に来てよ」

「え、そんな、もう途中でしょ?」

「舞台袖から二階の観覧席に上がれるから、そこでさ。父兄の人が見に来てると思うけど」

「制服で行ったら目立ちそうだなぁ」

「見たくないの?」

「見たいです」

「よろしい」

 そんなこんなで今日の予定に変更が入り、僕らは卒業式に参加することになった。


 しめやかに、厳かな雰囲気で、卒業式はつつがなく進行していた。時刻は十時半、在校生代表が送辞を読んでいるところだった。

 透子も在校生で、送辞を送るんだけど……まぁ、別枠なんだろう。それに結構な騒ぎになりそうだから、式の最後にということになったのかもしれない。

 在校生が、先輩から世話になったこと、教わったこと、受け継ぐこと、そんなことを真剣に話している。どれも僕にないもので、まったく響かないけれど……彼らには当たり前にそれがある。こういう関係を築くことが、僕にはできるんだろうか。

 明るいステージ上とは対照的に、座席側は一階も二階も薄暗く、隣の人の表情がやっと見えるくらい。二階に上がってきた学生服姿の僕を、誰も気にしてはいなかった。

 そりゃ、そうか。ここにいるのは卒業生の父兄で、子供の門出を見守りに来てるんだ。どこの誰とも知れない在校生に、興味なんてあるはずがない。透子に語った杞憂に苦笑いが漏れた。

 下を見ればたくさんの頭、顔、制服。そのほとんどを僕は知らなくて、ついつい知ってる顔を、知ってる頭を探してしまう。

 シルバーアッシュのバレイヤージュカラー。黒のマッシュパーマ。

 鳥居さんはすぐに見つかった。やっぱり目立つな。うつらうつらと船を漕いでるみたいだ。

 黒のマッシュパーマは、正直、ちょこちょこ見かける。でも鳥居さんの近くにいて、思ったより早く見つけることができた。それに背も高くて垢抜けてるから、やっぱり他とは少し違うんだ。

 場違いにも浮かんでしまう笑みを、僕は慌てて隠して辺りを見渡す。やっぱり誰も興味がない。

 そうこうしているうちに送辞が終わり、卒業生の答辞が始まる。

 思い出、楽しかったこと苦しかったこと悲しかったこと嬉しかったこと。学んだこと、それから学ぶこと。やっぱり在校生に比べると堂々としていて、その内容は唸らせられるものばかりだ。

 こんなふうに話せるようなことを、僕も経験できるんだろうか。

 淡い何かが胸に灯るのを感じながら、僕は静かにそのときを待った。

 記念品の贈呈、そして校歌斉唱。さぁ式も終わり、閉会の辞だ――というところに、壇上に立ったのが我らメタクラの担当、田代先生。

 一般生徒には馴染みのないであろう先生だけれど、それでも、知らない顔ではないみたいだ。困惑の声はなく、あるいはまだ式が続くのかとうんざりする顔がちらほら見える程度。

 さあ、そんな表情もすぐに驚愕に変わる。次は歓喜か、あるいは驚愕のまま立ち直れずに終わるのか。

 今日ご卒業の皆様にプレゼントです、と舞台袖から迎えるように手を広げれば。

 たん。

 足音一つで、その空気が変わる。

 厳かな、しめやかなそれが、にわかに興奮を帯びる。卒業式、にも関わらず、叫び出したい衝動が僕のいる二階にまで伝わってくるようだ。

 と、と、と。スリッパの間の抜けた音すら彼女のまとう雰囲気が怜悧に変える。

 ふわりと真正面に向き直るその顔。恐ろしいほどに美しく均整の取れた、人形の無表情。

 ごくり――唾を飲む音が聞こえたのは、気のせいか。

 そんな冷ややかな無を、破顔一笑、突然温かな微笑みに変える。誰かの漏らしたため息も致し方ない。

「皆様、ご卒業おめでとうございます」

 透き通る、澄み渡る声。今日この場で話した誰のそれより、すんなりと耳に入る。

 時候の挨拶すら飛ばしたたった一言が、すべての感動を塗り替える――残酷なほどに。

 ああ、あれだけの送辞を、答辞を考えるのにどれだけの時間をかけただろう。淀みなく読み上げるに、どれだけの努力を重ねただろう。

 そのたった一言の衝撃に、『お前とは違うのだ』と突きつけられる。

「私が承ったのは『送辞的』なもの、ということで、原稿も用意しておりません」

 身振り手振りを交え、少しだけおちゃらけて笑いを誘い、もはや卒業式はそれ・・ではなくなってしまった。

「ここは一つ私の人生訓をお話しましょう」

 とん、と軽く演台に手をついて、曰く――


 ――人生はタイミングです。

 取り返しのつかない失敗などない、などとはよく聞く話ですが、それは半分本当で半分は嘘。

 失敗から立ち直ることはできても、失敗そのものを取り消すことはできません。

 故に取り返しようのない失敗を、取り返すことはできないのです。

 例えば私の仕事上であれば、病気や事故、その他諸々の事情から急遽代役を求められることがあります。

 難しい役かも知れません。監督がとても厳しい人かもしれません。共演者が誰も彼も超一流かも知れません。

 ではこれを諦めて拒否しますか?

 これは取り返しがつきません。なにしろそこにいる全員に知れ渡ってしまったのです。チャンスを棒に振る、行動力のない人間だ、というふうに。

 もちろんそのあとの努力次第で、いくらでも有名人に成り上がるチャンスはあるでしょう。

 その失敗があったからこそ、と言える日がくるかも知れません。

 もったいない。本当に、もったいない。それまでの時間は決して返ってはきません。取り返しがつかない。

 絶好球にバットを振らない。こぼれ球に慌てて蹴り損じる。甲子園の、国体の決勝で?

 皆様、備えてください。

 明日にでも訪れるかも知れない人生の岐路。それは思いがけない突然のラッキーでしかないかもしれない。瞬きの間に消えてしまうかもしれない。

 それでも演じられるのは、バットを振るのは、正確にボールを蹴るのは、日々練習を欠かさなかった者だけです。そして常に幸運に備える者だけです。

 あるいはその備えあってこそ、失敗もまた取り返しのつくものとなるのです。

 皆様の岐路は想像もつかないほうから想像もつかない形で訪れます。だから学び、走り、考え、出会ってください。あらゆるものに備え、目を凝らして。




 頭がぼんやりとする。なぜだろう。

 透子の話は続いている。僕に語ったものと違う、タイミングの話。

 その表情はまだ穏やかなまま、だから厳しいことを言っていてもそれが優しさだと理解できる。それが彼女の表現力。だから皆夢中で聞き入り、こそこそと話す人間も皆無だ。

 僕を除いて。なぜだろう、入ってこない。

 だってこれは、ただの一般論だ。透子の言葉じゃない。

 もちろんそれらは紛うことなき正論で、きっとそれができる人間が成功をつかむんだろう。いや、もっと言えば、透子だってそうしてきたはずだ。

 僕にはできなかったことを透子が語っている。……ああ、僕は、なんて幼稚な。

 透子の話は時間にしてほんの数分、代表それぞれの送辞、答辞にも満たないものだった。

 けれどそれを讃える万雷の拍手は、透子の姿が舞台袖に消えても鳴り止むことはなく――

 ああ、なんて、耳に障る。



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