逃がすと思ってるの?




 頭がぼんやりとして、したまま、僕は風邪を引いてしまった。

 いつぶりだろう、もう長いこと引いていなかったのに。健康であることは、僕の数少ない誇りの一つだったはずなのに。

 あぁ、もう長いこと経験していなかった高熱が、こんなにも辛いものだったなんて。

 頭がぼんやりするのに眠れない。身体の表面は熱いのに芯のほうが冷たい。汗がダラダラと流れて、なおも熱を奪っていくようだ。力が入らない。だるいっていうのはこんな感覚だったっけ。

 でも、それだけだ。痛みがないのは不幸中の幸いというか、それでもそのせいか、かえって夢見心地というか――見えないものが、見えてしまいそうな。

 例えばそう、僕の部屋に、かわいい女の子がいる、とか。

「わぁ。つらそう」

 いや、うん、実際いるね。かわいい女の子が、というか、透子が。イコールではあるけれど。

「ど、したの」

「おみまい。直さんからお昼ご飯もらってきたよ」

「食欲、ない」

「おかゆ。たまごがゆだよ」

「……それ、なら」

 かわいい私服姿の透子は、そっと僕の背に手を差し入れて、起き上がる僕を手助けしてくれる。

 身体がだるくてうまく力が入らないけど、彼女はそれをうまく支えてくれた。ちょっと上体を起こすだけでも結構な重労働で、重くため息をついてしまう。

「……うつるよ」

「大丈夫、ただの風邪なんでしょ」

「いちおう」

 ローテーブルを指差す。検査結果のかかれた紙が無造作に置かれていて、透子はそれを手に取りうんうんと頷いた。

「インフルもコロナも陰性、じゃあいいよ」

「でもまだ、熱が出て二日目だから」

「まぁ、それはわかるけどさ。とりあえずお昼、食べてからにしよ」

「……うん」

 透子の持ったお盆には、小さな一人用の土鍋と、小さな取り皿、それからレンゲが置いてある。お盆ごと受け取ろうと伸ばした手を、彼女は微笑みながら制止した。

 ベッドの隅に浅く腰掛け、僕のほうへと上体をひねり、レンゲでおかゆをひとすくい。ふぅふぅと息を吹きかけ、差し出した。

「あーん」

「……あぁ」

 僕は素直にそれに従う。

 恥ずかしい気持ちはあるけど、これは以前経験済みだ。

「食べられそう?」

「うん。おいしい」

「そっか。じゃあもう一口、はい」

 口を開けるとそっと差し込まれるレンゲ。ほどよく冷まされたおかゆには薄っすらと醤油の味がついていて、かつおだしもよく効いている。優しい味わい、思いやりを感じる、母さんの味だ。

「おいしそうだねぇ」

「……食べたいなら」

「直樹が残したら、もらおうかな。でも、ちゃんと食べようね」

「うん」

 結局僕は、透子に残す分も忘れてすべてを平らげてしまった。けれど彼女は少しだって不満そうにはせず、むしろうれしそうに微笑んでくれる。

「はいごちそうさま。さ、お薬とお水」

「ありがとう」

 渡された薬を渡されたコップの水でぐいっと飲みきり、僕は再びベッドに……

 横になろうとしたところを、止められた。

「着替えの時間だよ。ぐしょぐしょだから」

「そっか。じゃあ」

 ちょっと出てて、と言おうとしたところをあの・・笑顔。状況を面白がる、いつもの透子の。

 ああ、嫌な予感がする。というか、確信だ。

「じゃん。ほっかほかの濡れタオルと、お湯を張った湯おけをもらってきました」

「うん、だから」

「風邪のときは無理しちゃだめ。お姉さんの言うことを素直に聞きなさい」

「いや……まぁ、うん、じゃあお願いします」

 抗弁しようとして、やめた。

 目の前にいるのは透子で、透子なんだから、そんなことをしたって無駄だ。わかりきってるじゃないか。やると決めたらやるんだ、どうしたって僕には……いや、誰にだって覆せない。

 パジャマの前ボタンを一つ一つ外していく、細くきれいな指先。ぼんやりとする頭が、なんだか空まで浮き上がっていきそうな心地。これ、熱が上がっちゃうんじゃないだろうか、なんて妙な心配が脳裏をよぎった。

「んふ、なんかえっちぃ」

 何も言うまい。僕は風邪を引いて弱っているから、これに反応してはいけないんだ。

 ボタンを外し終え、上着を脱がせると、透子はタオルを持ってそっと背中に押し当てた。電子レンジで温めたであろう濡れタオル、いやさ蒸しタオルは、時間がたったにも関わらず十分に温かい。ホッとする温度に、ため息がもれた。

「やっぱり結構、がっちりしてるね」

「うん」

「ごつごつしてて、男の子、って感じだ。さ、前も」

「うん」

 言われるがままされるがままの僕に、透子は実に楽しそうだ。

 拭いては濡らして絞り、身体がすっきりとしていくのが実感できる。思っていた以上に汗と脂で濡れていて、思っていた以上にそれが重みになっていたらしい。

 拭き終わるころには、なんだか身体が軽くなった気すらしていて、素直に「ありがとう」が口からこぼれた。

「うんうん、やっぱり……弱ってる直樹、かわいぃ……」

「……なんでそうなるかなぁ」

「おみまいに来た甲斐があったね!」

「うん、でもやっぱり、ありがとう」

「じゃあ、ゆっくり寝て早く良くなろうね」

 新しい上着を着せると、僕の背中に手を添え、もう一方の手でゆっくりと胸を押して、優しく横たえてくれる。上から掛け布団を掛けて、ぽんぽんとお腹の辺りを優しく叩いた。

「なんか、慣れてる?」

「全然? こんな感じかなーって。すっごく、楽しい」

「そっか。じゃあ、よかった」

 いつもの透子。当たり前だけど、安心する。

 優しくて、ちょっと変わってるけど楽しくて、距離感の近いかわいい女の子。

 澄み渡るその声を穏やかに揺らされると、ひどく眠気を誘う。うつらうつらとまぶたを揺らす僕を見て、透子は優しく微笑んだ。

「病は気から、っていうでしょ」

「……うん」

 ああ、やっぱりというべきかなんというべきか。

 透子は全部お見通しで、優しい口調で追い詰めてくるんだ。覚めない眠気の中、透子の声だけがはっきりと聞こえる。

「卒業式の日、だよね」

「うん」

「私、言ってること全然違ったね」

「うん……透子じゃない、みたいだった」

 ステージ上の透子は、それであってそれでない。僕の見たことのない……いや、テレビやネット、画面越しに何度も見てきたあの姿。

「……そっか。僕、初めてだったんだ」

「うん、そうだね。私を知って、私のまま、初めて見る生の・・氷室冷夏」

「そっか、僕は……それが」

 ショックだったんだ。衝撃だったんだ。

 透子の印象のまま、透子を見るつもりで、氷室冷夏を見てしまった。その齟齬・・が、ギャップが、気持ち悪くて。受け入れがたくて、受け入れられず、僕は体調まで崩してしまった。

 なんて情けない。わかっていたはずなのに――彼女が遠い世界の住人であることくらい。そんなことは百も承知で、下界・・に降りてきた彼女に恋をしたのに。

「私はこれからも、本心とは程遠い表情を貼り付けて、心にもないことを言い続けるよ」

「……そうだね」

 当然だ。それが氷室冷夏であり、それがおそらく女優というものなんだから。

「直樹はこれから私のそばで、それをたくさん見ていくの」

「……うん」

「辛かったら、離れてもいいんだよ」

「透子、そん」僕の言葉は強引に遮られた。

 ぐんと両肩を押さえ、上半身ごと僕を覗き込んでくる透子の、探るようないつもの瞳。深く深く、昏い宇宙。濡れたような、星の輝く、ああ、あらゆるものを飲み込む混沌のような。

「って、以前の私なら言ってたけど」

 僕も多分に漏れず。視界から光すら失せて消えたように、その黒だけに魅入られる。うごめく唇は肌で感じて、その濡れた声は耳を通り過ぎて脳を揺らすんだ。ゆるりゆるりと、溶け出すように。

「もうね、無理なの。だから遠慮しないの」

 何をそんなに、必死に。執着して。ちっぽけで何もない、何でもない、僕なんかに。

「ねえ直樹、本当はもう、とっくに思い出してるんでしょ」

「……え」

「子供のころのこと。ねえ」

 ぼんやりとする頭と視界。黒に埋め尽くされるそれらが、僕には夢なのかあるいは、透子の中身・・なのか、よくわからなくて――

「何にでも、なれるよ」

「……あはぁ」

 初めて見る笑顔。陶酔のような、恍惚のような。濡れた宇宙が、溢れて溶ける。

「劣等感だとか、周りの目だとか、そんな小さなことで私を突き放せるだなんて思わないでね」

 わかってるよ。そんなの無理だ。

 頑固になった透子は、どうしたって動かない。譲らないんだから。

 やがて僕のまぶたはすっかり落ちきって、視界は黒く塗れた。輝きのない、濡れていない、無味乾燥の暗がりの中、薄れゆく意識にささやく声。

「逃げないで、ね」




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