その日、思い知る。
とうとうその日がやってきた。
僕と透子の大事な日。二人の何かを決定づける日。
僕と透子の二人舞台――タイトルさえ、知っているのは透子だけ。
その日はいつもより早い登校から始まった。
チャイムは鳴らず、ディスコに届いた通知が透子の来訪を知らせてくれた。玄関のドアを開いた先、片手を上げて笑顔の彼女は、気負いの「気」の字も見えない自然体そのもの。そりゃあそうか、うん百うん千人の前で演じ、多くの大物芸能人と共演してきた透子が、学校の舞台に緊張なんて。
だからといって、当然彼女が手を抜くとも思っていない。だから早くから準備に奔走していたし、だからこそ
通学路を歩く姿もいつも通り、笑顔の絶えない素敵な、かわいい女の子。その全身で、「気負うな」と言ってくれているみたいだ。
「……とはいえ、一回くらいは練習しといたほうがいいね」
「当日に言う?」
「それだってあんまりさせたくないんだよ? 思った通り、やってほしいから」
「思った通り、ね」
「そ。とはいえ、下手したら怪我するかもしれないし」
「確かに。かといって気を遣いすぎても変になるし」
アクション一つ、けれど危険度はそれなりにある。なにしろ舞台は堅い木の床で、僕は舞台経験のない素人で、数百人の観客を前にするんだ。
だから透子が「すべき」と言うのは、演技の練習ではなく怪我をしないための動きの練習。自然で、かつ安全な。
「……難しくない?」
「大丈夫大丈夫。怪我しなきゃなんでもいい、くらいに思っておいて」
「そっか。それなら、まぁ」
緊張を緩めるため、というのももちろんあるだろうけど、透子がそれを言うならそれ以上の意味はない。本当に、怪我をしなければどんな拙いアクションであっても構わないと、そう思ってるんだ。
あるいはそれは、透子がそのすべてを受け止めるだけの器量を持っているから。
「じゃあメタクラで、ちょっとだけやろっか」
「うん。でも演技指導とか、ちょっと楽しみ」
「ふっふっふ。激甘でいくから覚悟しといてよ」
「激甘なんだ」
楽しそうな透子を見ていると、なんだか初めての舞台も楽しみに思えてくる。きっとこの気持ちだって、いざ舞台直前ともなれば緊張にかき消えてしまうんだろうけど……それもまた、いい。
結局僕の隣には透子がいて、すべてを振り回して、導いてくれるんだ。
そんなこんなで演技指導は始まり、そして終わった。
自分でも何を言ってるのかわからないけど、本当にそんな感じだった。「じゃあやってみて」から始まって、「はいおっけー」までわずか二テイク。二回やっただけだ。
激甘でいくとは言ったけど、いくらなんでも激甘すぎやしないだろうか。
「怪我しないし、割とうまいと思うよ? お世辞抜きに」
「……ありがとう」
あくまで素人としては、という大前提はあるにしても、やっぱり褒められれば嬉しい。
演技について、一般的な素人より見てきたという自負はある。けれどやっぱり演じるとなると初めてだし、わずかワンアクションにしたって不安はあったけど。
培ってきたものも、ないわけじゃないのかもしれない。
「役者はちょっと無理だけど」
「それはさすがにわかるよ」
「でも、がんばればいけなくも……?」
それはさすがに贔屓目が過ぎるよ、と僕が首を振れば、透子は苦笑いでそれに応えた。
もちろん、死にものぐるいでがんばれば可能性がゼロってわけでもないんだと思う。けれど僕にそこまでの情熱がないことはもうわかっているし、透子だってもちろん理解はしてる。まして一緒に仕事を、なんてことには間違ってもならないだろう。だからこそのこの舞台、ということだって考えられるくらいだ。
「でも、やっぱりこんなワンアクションにも良し悪しはあるんだね」
「そりゃあるよぉ。正直、見てる側はそこまで気にしてないと思うけどね」
「……確かに」
「でもやっぱり、どこか崩れると全体のバランスがこう、ね。違和感くらいにはなるかも」
「なるほどなぁ」
そんな違和感さえ抱かせないよう、演じてるわけだ。プロってやっぱり、すごい。
「私くらいになると、もう手足の指先一つ、髪の毛の動きまで計算だよ」
「……それは」
「冗談とか誇張抜きでね。私は私の身体も声も、全部知り尽くしてるの」
真面目な顔で言い切るんだから、本当に敵わない。
例えば両腕を地面と平行に、真横に上げてみろ。そう言われても、僕にはそれを正確にこなす自信はない。大きな両腕でさえそうなんだから、透子の言うような精緻な動きなんて、とてもじゃないけど可能とは言えない。
以前言っていた、深部感覚の発達、というやつだろうか。努力ももちろんだけど、やっぱり彼女は自他ともに認める天才だ。
「でも、実はこういう、ほぼ一人舞台って初めてなんだよね」
「へー。じゃあやっぱり、緊張とかしてる?」
「それは全然」
やっぱりか、なんて苦笑いを浮かべれば、透子は「へへ」と楽しげに笑う。
ともあれ舞台は修了式の終わりで、開始まではまだ三時間以上を残している。
練習も終えたしさあ何をしようか、と透子と相談した結果、僕らはやっぱり揃ってテキストを開くのだ。
肩の触れ合う距離で、軽く談笑を交えながら、二人で決めた教科をそろって。
僕らは修了式の終わりに舞台をするのであって、それに出席するわけじゃない。
二学期の終業式も出ていないし、三学期の始業式も、卒業式も。鳥居さんも新谷くんもうらやましがってたけど、実際のところ、疎外感もまったくないわけじゃないんだ。
それも含めて来年から、全部を皆と。期待半分不安半分――半分の期待だって、透子がいてこそのもの。情けないけれど、それが僕の現状。
現状を認めつつ、僕と透子の
成長ももちろん大事だけど、それよりも僕が僕のままであること。それが透子の望みなら、僕はその通りにしたい。その通りにするしかない。
ともあれこれもきっと成長の糧。皆の、数百人の見知らぬ高校生の目の前で、僕は舞台に立って演技をする。棒立ちになって、最後のたった数秒の間にワンアクションするだけの。
それだけのことだけれど、やっぱりそれでも、時間が迫るにつれ、僕の心臓は高鳴っていくんだ。
「また、やる?」
そんな僕を見て、彼女が両の掌で何かを挟むふり。私だけを見て、私だけに集中しろ――僕の
「いや、大丈夫」
「そっか」
大丈夫だ。本当に必要なら、そもそも透子はこんな確認をしてこない。
それならばきっと、まだ僕の中に小さくとも余裕が見えるってことだ。
「じゃあ、そろそろいこっか」
「うん」
荷物はそのまま、僕らは立ち上がってメタクラを出た。
廊下にもどこにも、生徒も教師も見当たらない。式当日特有の、学校のこの静けさが、実は結構気に入ってる。二人だけの足音を鳴らして、二人だけの声を響かせて、誰もいない廊下を歩くんだ。
穏やかで、それでも今日はやっぱり違う。
いざ出陣、みたいな。少しだけ気張る僕を、透子は小さく笑った。
真っ暗な舞台袖には田代先生が待機していて、僕らの到着を出迎えてくれた。
この半年間お世話になった先生。数少ない担当生徒の晴れ舞台のせいか、少しばかり彼も緊張しているようだ。いやそれだけじゃなく、彼が今日の音響担当だってことも理由の一つか。
それから照明担当に別の先生。田代先生の隣で台本の最終確認をしていた。
とはいえ、照明は一つ、オンオフと簡単なフェードイン・アウトくらいのもの。音響も、ほんの二、三種類程度を何度か使うくらいだとか。
それでも今日のために練習してくれたそうで、僕らは二人の先生に揃って頭を下げた。
「これくらいでこの舞台に関われるなら、そんなに光栄なことはないよ」
田代先生の言葉。照明の先生も同意してくれた。
「私と君たちは、これで最後だ。メタクラを卒業する君たちの門出を、精一杯祝うつもりでやらせてもらうよ」
「……半年間、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
ああ、なんというか、本当にいい先生だ。付かず離れず適度な距離感を保ち続けてくれていたのに、最後の最後にそんな言葉をかけてくれる。
「がんばってね」
照明の先生からも一言。ありがとうございますと答え、僕らは舞台袖の隅に移る。
舞台上では隅に置かれたピアノで、音楽の先生が校歌の演奏をしている。生徒たちの声が揃って大きな歌声になり、さすがに圧巻だ。
これが終わればいよいよ出番。僕の鼓動も最高潮。だから僕は、透子の手を取った。
ぎゅうと握れば、ぎゅうと握り返してくれる。
言葉はなく、目も合わせず、繋がった手だけで僕らは最後のやり取りをする。
この手を離せば、僕は彼女と対等ではなくなる。異彩を放つ鬼才、氷室冷夏と、名も知られていない一般生徒。おそらく卒業式のときなんか目じゃないくらいの、強烈な衝撃が僕を待っている。
だから、この手を離すのは僕からだ。僕は大丈夫だから、透子は――冷夏は、その異才を、知らしめて欲しい。この学校にいる数百人、あまねくすべてに。
その微笑みは、それを確信に変えるものだった。
田代先生の挨拶、舞台の紹介。
メタクラ生徒による舞台『人形を愛した女』。
タイトルだけを読み上げ壇上を辞する先生に、ざわめきが漏れる。
だるい式のあとの、よくわからない『メタクラ』なんてものの
当たり前だ。気持ちはよくわかる。だからあと一分だけ待ってて欲しい、きっと度肝を抜かれるから。
照明が暗転、体育館内が闇に包まれた。僕は舞台袖、ステージ近くでそのときを待つ。
そして僕は、彼らは思い知る。
役者人形の名の意味を。氷室冷夏という存在を。
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