『人形を愛した女』
私は生まれつき人を愛するということができない。
誰かに同情したり、誰かに共感したり、人の想いに寄り添うことができない。
私は、人として当たり前のことができない子供だった。
ピンスポットライト・女
私の人生は、人間の観察から始まった。
知らなければ、それは未知の怪物でしかなかった。
なぜ怒り、なぜ悲しみ、なぜ喜び、なぜ笑うのか。
幸運なことに周囲の人間たちは、どうやら
優しい人間の観察は、私の
フォロースポット・歩き出す女・舞台右へ
観察から始めた私の人生は、それなりに順調だったように思う。
人と関わるのに大きな失敗はなく、理解の及ばない人間には近づかないことを徹底した。
すぐに怒る人間。すぐに泣く人間。笑いっぱなしの人間。
私の人間関係は、ひたすらに良好であるように思えた。
フォロースポット・歩く女・舞台左へ
あるとき気付いた。
人間というのはどうやら感情的な生き物で、それを理性でコートすることで社会を形作っている。
私もまた人間のはずだ。
ならば私にも感情があって、私もそれを理性でコートしているはず。
コートが分厚すぎるのだろうか?
生じた疑問を、私は理性でコートした。
フォロースポット・歩く女・舞台中央へ・立ち止まる女
社会生活を送るのに、そんな自己啓発は必要ない。
人をよく見て、社会に、組織に、そして私に、都合の良いように動けばいい。動かせばいい。
幼いころから人を観察していた私には、その人間がどういう動機でどう動くのかが手に取るようにわかった。
私の社会生活は、ひたすらに良好であるように思えた。
カットアウト
人の喜びを語る人間は多く、そしてその答えはそれぞれに違う。
けれど人をよく見ていればわかる。十人十色くらいならそれはそう。だけど、百人もいればせいぜいが三十色程度。千差万別だなんてとんでもない。
愛だの金だの、あるいは他人の不幸だの。
自分が普通だとか特殊だとか、そんな自覚すらも、周りをよく見てみれば無意味なことに気付けるはずだ。
なぁんにも、珍しいことなんてないんだ。
それならばあるいは、私のこの
暗転・小道具・テーブル・椅子・座る女・舞台中央
カットイン
女「私の人生に不足はなく、何もかも順風満帆、できる人だ幸せだとみんなは言う。幸せを比べる必要はないと人は言う。けれど私にはわからない。誰とも比較せず、人はそれを幸せだと判断できるのだろうか。私はたくさんの人を見てたくさんの人を理解してきた。それなのに私は、そのどれもを幸せだと認識していない。不幸だとも思っていない。なんとも思っていない。ああ――ああ……幸も不幸もないのなら、その人生に意味はあるのだろうか」
効果音一・紙を潰す音
暗転
けれど私はわかっている。人生に意味を求めることこそ、無意味だ。
ピンスポットライト・女・舞台左
それでも人生は続く。死んでいないから生きている。
生きていればいつの日か、理解の果てに
フォロースポット・歩く女・舞台左から中央やや左
そして私は出会った。私の信じた、愛の形に。
ピンスポットライト・人形ウィッグつき・舞台中央
立ち止まる女・崩れ落ちる
雷に打たれたような衝撃。世界に光が満ちるような。お腹の疼くような。胸の高鳴る。
およそそれを形容するあらゆる感覚は、まさに正しかったのだと理解した。得心した。
あまりに美しく、あまりに尊い。
路地裏に打ち捨てられたその
美しく微笑み、その立ち姿は凛としたまま、あまりにも尊く。
私の細胞のすべてが叫んでいた。これは、私のものだ。
私のすべてを捧げ、私はこれを愛するべきだ。
カットアウト
暗転・小道具・衣装一
カットイン
女「ああ、今日もきれいだね。今日は君に服を買ってきたんだ。よく似合うと思って。君は脚が長いから、こういう細身のシルエットが映える。さあ、着替える前に身体を拭こう。早く着せてあげたいけれど、私はそんな時間も愛おしいんだ」
カットアウト
暗転・小道具・はさみ・椅子
人形の背後・椅子の上に立つ女
カットイン
女「今日は髪を切ろう。その長い髪もよく似合うけれど、君にはやっぱり爽やかな短髪が素敵だと思うんだ」
効果音二・はさみの音
人形のウィッグを切る女
女「人の髪を切るのは初めてだから、失敗したらごめんよ。手先は器用なほうだけど、なんだか緊張してしまうんだ。こんなに緊張したのは、人生で初めてかも知れない。君といると、自分が自分でなくなってしまったみたいなんだ。意外な自分が、毎日顔を出してね」
効果音二・止
人形の頬を撫でる女
女「こうして鏡越しに見る君の顔も、素敵だね。手を止めて、触れたくなるよ」
効果音二・始
人形のウィッグを切る女
女「私の話をゆっくり聞いてくれるのは君くらいだ。どうにも、簡潔に過ぎるらしくてね。まぁそもそも、君以外のヒトに聞いて欲しい話も特にないんだけど」
カットアウト
暗転・ウィッグを取った人形
カットイン
女「さぁできた。ああやっぱり、よく似合ってる。とてもかっこいいよ。惚れ直した。ヒトの見かけなんてどうでもいいと思っていたけど、なかなかどうして、私にもそういう常識的な感性が備わっていたみたいだ」
人形の髪を撫でる女
女「何気ない日常が一番の幸せ……なんてよく聞く話だけど」
カットアウト
何気ない日常が一番の幸せ、なんてよく聞く話だけど、きっとそれは事実なんだろう。
私がそれを一番実感するのは、食事をするとき。
私がごはんを頬張る横で、彼は立ったまま微笑んでいる。
私がお肉を噛みちぎる横で、彼は立ったまま微笑んでいる。
私が野菜を咀嚼する横で、彼は立ったまま微笑んでいる。
私がスープをすする横で、彼は立ったまま微笑んでいる。
彼は立ったまま微笑んでいる。彼は立ったまま微笑んでいる。彼は立ったまま微笑んでいる。君は。
彼が人形であり、彼が人形でしかないことを、一番実感するのが食事時だった。
だから私は、日常の幸せというものがそこにないことを、心の底から、ああ心底、恨むのだ。
暗転・小道具・人形・ハケ
ピンスポットライト・女・舞台中央
女「ああ、そうか簡単なことだ。一緒に食べる幸せを味わえないのなら」
カットアウト
一緒に食べない幸せを、味わえば良い。
カットイン
歩き回る女
私は完全な幸福を手に入れた。
私には分厚いコートがあるから、一緒に出かけたりはできなかったけれど、それでもこの部屋は彼のおかげで無限に近く広い。
共に話せば、それは同じ経験となった。
手を取り合えば、それは心の繋がりとなった。
一緒にごはんを食べない。ああ、私と彼は、同じだ。
これが共感。これが愛。なんて尊い。なんて美しい。
人間がこれに耽溺するのは当然だ。こんなにも深い陶酔を呼ぶ美酒を、飲まずにいられるものか。
私は文字通りに夢中になって愛し合った。
カットアウト
ピンスポットライト・女と人形・舞台中央
女「今日は、とっておきのプレゼントがあるんだ」
ポケットから指輪を取り出す女
女「つけてあげる」
人形の左手・薬指に指輪を通す女
自分の左手を人形に見せる女
女「おそろいだ。人はね、これをした人と一生を添い遂げるんだよ」
指輪同士を合わせる女
効果音三・金属音
女「私の人生は、君のものだ」
効果音三
女「君の人生も、私のもの」
人形に抱きつく女
女「幸せになろう」
カットアウト
笑う女・駆け回る音
弱まっていく笑い声
ピンスポットライト・女・舞台中央
よろめき倒れ伏す女
わかりきった結末。
私は病に伏した。
どうやら私は思っていた以上に衰弱していたらしい。
ついには連絡もせず欠勤した私の様子を見に来た友人が、倒れ伏す私を見つけて救急車を呼んでくれた。
目が覚めると、白いベッドの上、寝ている私の胸元に母がすがりつくようにして眠っていた。
私は母を起こし、ごめんなさいと口にした。
よかった、よかったと泣く母は、
そして、
気味の悪い人形を処分すると言い放った。
私はベッドから転げ落ちるように出て、彼のもとへ急ぐ。――けれど、衰弱した私の脚は、病室すら出られることなく崩折れた。
何をしてるのと悲鳴を上げる母。私の愛を処分すると言う母。
ああ、気持ちが悪い。私の心配をしながら、私の愛を否定している。
言葉すら出てこない私を押さえつけ、必死に伸ばされた母の手は、至極あっさりとナースコールにまで届いてしまった。
私は、病床に伏した。
カットアウト
世界が暗闇に満ちている。
失われた幸福は、愛は、絶望を呼ぶのだと知った。
思えば断崖を歩くようなものなのだ。いつ失われるとも知れないそれを人生の至高と思えば、失うことに耐えられるはずもない。
よくよく観察し、見極め、知れぬものには近づかないこと。
私の生き方は、正しかったのだ。
けれど今更にそれを知ったところでもう遅い。
もう、知ってしまったのだ。
至高のものを。
私は反省したふりをして身体の回復を待ち、そして病院を抜け出した。
まだ、時間はある。
走る女の足音・息遣い
効果音四・ドアを開く音
スポットライト・女と人形・舞台中央
女「ああ、よかった」
人形にすがりつく女
女「恐ろしかった。もし、いてくれなかったらと思うと」
涙を流す女
女「恐ろしかった。もうこれから一生、独りなのかと思った」
ポケットから『何か』を取り出す女(観客に見えないよう)
女「恐ろしい。私はもう、二度と失うことができない」
『何か』で首をなぞる女
血糊に穴
女「あは、は……思ったより、派手だな」
崩れ落ちる・人形の脚にしがみつく女
女「ああ……今更だ。母さん、こういう、こと、だったん……」
腕に力を込める女
女「でも、かん、じ、るよ」
効果音五・水音
女「こん、なに、あたたかい」
力尽きる女
ピンスポットライト・人形
二秒ごと・効果音五・五回
三秒ごと・効果音五・三回
四秒・効果音五
指先を動かす女
崩れ落ちる人形
効果音五
効果音三
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