僕と私の一区切り。





 僕らは春の日差しを避けるように、メタクラの窓際、背の低い壁にもたれて座っていた。

 だらんと伸ばされた透子の長い脚と、僕の普通の脚。その間で、指を絡めるように手を繋いで。

 もう十分近くこのままだ。何も話さず、目も合わせず、絡めた指に熱を感じて。

 尾を引くように、いまだ興奮が冷めやらない。

 飲まれた――っていうのはああいうことを言うんだと思う。

 舞台が終わり、壇上に並び立つ僕らを見て、彼ら・・のうち誰一人言葉を発しようとしなかった。静まり返る体育館は広く、壇上とその下で、まるで空気そのものが切り離されたようだった。

 ただ一人、正気・・を保っていた透子がマイクを手に取る。

 あっけらかんと飄々と、いつもの透子のまま。

「『人形を愛した女』いかがでしたでしょうか?」

 第一声は淀みなく、その声色は高らかに。

「素人台本に素人演出、それから実際の照明も音響も素人です」

 舞台袖からツッコミの声。先生二人の他に、実はもう二人手伝いがいたんだ。

「それでも主演はプロの中のプロ。私、氷室冷夏がお送りしました」

 誇るように手を挙げる。が、いまだ場内はその空気を切り離されたまま。

「……あれー? ここでワッと盛り上がるはずだったんだけど」

「透子、一旦区切ろう」

「そっか。じゃあ――」


 ご覧いただき、ありがとうございました!


 その言葉が区切り。

 空気の隔たりを切り裂くような拍手、歓声。観客である生徒たち、だけじゃなく教師たちまで、総立ちだ。

 体育館を揺るがすような音の奔流。振動そのものを身体全体で感じるような。

 こんなものを浴びたことはない。当たり前だ、僕は半年前までただの引きこもりで、ただの、調子者の愚か者、だったのだから。

 ああ――これは、確かに、気持ちがいい。

 両の手を上げ、ぶんぶんと振ってそれに応える透子は、実に堂々としていて慣れたものだ。

 これを、浴び続けてきたんだな。本当に、住む世界が違うのだと実感してしまう。

 もちろんこれだって、僕に浴びせるためのものじゃない。僕が浴びるためのものじゃない。このすべてが、透子、いや氷室冷夏に向けられている。僕なんて眼中にない。

 わかってるけど、でも、音が質量に変わったようなこの衝撃は、ちょっと、すごい。

 鳴り止まない拍手、歓声。いつまで続くんだろう、きっと透子がここにいる限り、いつまでも。

 途切れるとしたら、それは彼女自身をそれを止めたときだけ。

「はーい、ストップすとっぷぅー」

 頭の上、両腕でバッテンを作り制止すれば、あっという間だ。これも彼女の持てるカリスマの成せる技――たとえ人望の厚い先生でも、こうはいかない。

「では舞台で活躍してくれたスタッフとキャストを紹介します」

 舞台袖から出てくる四人。少しばかり気恥ずかしそうに、けれど、誇らしげに。

「照明担当、日比谷先生、鳥居さんです」

 拍手と歓声。さっきほどじゃないけど、温かな。

「音響担当、田代先生」

 続く。

「小道具担当、新谷くん」

 そして、

「人形役、桜庭くん」

 正直、不安だった。誰コイツ、みたいな、しーんとした空気になってしまったらと思うと。

 けれど、出来上がった雰囲気はそう簡単に崩れたりしないんだな。他のスタッフ・・・・と同じように、温かな拍手と声で祝福してくれた。

 突っ立ってただけの僕にも。涙が出そうだ。

 そして真打ち。

「最後に私、女役、やま……氷室冷夏でした!」

 ああ、やっぱり、圧倒的だ。ちょっとした言い間違いは御愛嬌、ということで。

 再びの音の濁流に、僕らは全員で応えた。

 いつだったかテレビで見たことあるように、上げた両の手を、スタッフ・キャスト全員でつなぎ合わせて。

 こうして僕らの舞台は、終わった。

 後の祭り、という言葉にもあるように。過ぎ去ったものはもはや手遅れ、取り返しのつかないもので。

 そういう寂寞感が、僕らを床に縫い付けていた。

 繋いだ手が、指が、少しだけ汗ばんでくる。しっとりと濡れた手指を、僕らはなおも深くつなぎ直した。

「楽しかったねぇ」

 長い時間、黙って過ごした僕と透子。沈黙を破ったのは透子だった。

「うん。立ってただけなのに、すごいやりきった感」

「良い倒れ方だったよ。人形に、ちょっとだけ人格が宿った、みたいな」

「言い過ぎだよ。それを言うなら、透子だって」

「私がすごいのは当たり前だから」

「……たしかに」

「へへ。でも、もうずいぶん久々だったけど、鈍ってなかった」

 そういえば、確かに。

 いいや、むしろ磨きがかかっていたような。……あの日、柏木さんが言っていたのは、これかな。

 あの日、すでに彼にはわかってしまうほど、透子は。

「誰かになるって、やっぱり楽しい」

「うん。……楽しそうだったよ」

「私は……ねえ、直樹」

「うん」

 少しだけ上体を倒して、透子は僕を覗き込む。

 探られている。いつもの通りに、けれど、もっともっと、深く。

 サラリと流れた髪が頬にかかると、どこか妖しささえまとって。

「人形を愛した女……どう思った?」

 感想を聞いている、けれど、それだけじゃないことはよくわかる。

 どう思ったか? 決まってる。

「よかったと思う」

「……えー」

 不満そうな透子に、僕は「だろうな」と微笑む。

 でも違う、そうじゃない。

「なんとなくだけど、透子のことを書いてるんだろうなって思って」

「うんうん、じゃあ……どっちが、私だと思った?」

 人形を愛した女と、そして愛され朽ちた人形。混じり合い一つになった、彼女と彼。

 僕は少しだけ考えるふり・・をして、微笑んだままそれに答えた。

「どっちも、透子だなって」

 瞳が揺れる。濡れて、揺れる。

 倒れ込むように、すがるように、透子は僕の胸元に抱きついてきた。

 強く、強く、より深く。僕は今度こそ躊躇せず、その髪に指を通した。

 空気の束を、濡れない水を、僕は愛おしむように撫でて梳いた。

「折り合いをつける、ううん、つけた、っていうお話だったのかなって」

「うん、うん」

「だから、よかったと思う」

「うん……やっぱり、直樹だ」

 顔を上げ、僕を覗く透子の瞳。

「私には、直樹なんだ」

 ああ、これが、そうなんだ。

 僕自身、恋愛経験の一つもこれまでになかったけれど。

 わかるものなんだな。そういうときがくると、自然に。求められていて、そして求めていて。

 僕は、斜めになった透子を支えるようにその体に腕を回した。僕の首にすがるような透子の腕に、柔らかく力がこもる。

 僕らはどちらともなく、唇を合わせた。

 甘く熱を持ったまま、しびれるような。ただ唇を合わせるだけの、稚拙なキス。

 息がかかる。ああそっか、止めなくていいんだ、なんて頭の中をよぎったりもしたけれど。

 熱としびれが脳にまで達して、どうにかなりそうだ。

 一度だけ唇でかむようにして、透子は僕から離れていった。尾を引くように、その唇に目が行ってしまう――清楚なベージュ。

「かわいいピンクはここ」

 僕の首筋を指して。

「きれいな赤いバラはここ」

 唇の左、わずか一センチ。

「これで、さいご」

 そしてまた、透子は僕に口づけた。

 ついばむように何度も。何度しても何度されても、一向に慣れない。甘くしびれて、焼けるようだ。

「私の全部、あげたよ」

 僕が透子にプレゼントした、僕が欲しいもの――ああ、この三つで、確かに全部。

 おかえし・・・・をもらうたび、鼓動で全身が跳ねるようだった。そのたび僕はどぎまぎして、前後不覚になって、ああやっぱり敵わないなと笑ったものだったけど。

 不思議と今は、それを受け入れている。鼓動も、熱も、しびれも、これまでの比じゃないくらいに暴れ狂っているけれど。

「僕のあげるものが、思いつかないな」

「もうもらってる」

 そう言って、透子は最後の口づけをした。



 ――ある日突然、気づいてしまった。

 透子は、人をよく見ている。見すぎている。

 わかってしまう。何をすればどう動き、どう動けばどう応えるのか。

 それは、自分の思うままに動かすただの人形で――そういうふうにしか、人間を捉えられなくなっていることに、ある日突然気づいたのだ。

 それに気づくと、それに応じて動く自分もまた、人形に過ぎないのだと気づく。

 例えば僕が「変わりたい」と髪を切った日。あの日、失望したような暗く沈んだ顔をしたのは、僕もまた人形に過ぎないのだと気づいたから。そして、それを理解してもなお、自らを改められない自身に気づいたから。

 スタッフにも評判のいい、いい子なのだと言っていた。僕の知る透子は違う。

 だからきっと、彼女は変わりに・・・・来たのだ。それが彼女にとっての休養だった。

 そして変わらぬ現実に、それでも少しずつ順応していって――

 透子は答えを見出した。

 特別な人形・・・・・にしてしまえばいいんだ。特別な人形・・・・・になればいい。

 透子は僕の脚の間に座って、僕はその細い腰から腕を回して、その小さな重みに温もりを感じる。

「桜庭直樹育成計画、ここに成る、って感じかなぁ」

「あはは。でも確かに、育てられた感はあるよね」

「ねー。直樹ったら、私に動かされてるって気づいてるのに、文句の一つも言わずに」

「……楽しいから、しかたないよ」

「んん~、そっかそっかぁ」

 僕の胸に後ろ頭をこすりつけて、いつものように面白がる。

「なんで僕なの? とか、もっと聞かれると思ってた。そこは予想外かも」

「……そこは鳥居さんに感謝かな」

「あー、そっか、あのときか。それが、『私の直樹』否定になると思って」

「そうそう。ずっと、思ってはいたよ」

「でもそれもわかったでしょ?」

「……うん」

「あのね、直樹には悪いんだけど」

「言って」

「私が不調……というか、そう・・なって、姫崎さんから『息子が不登校』って聞いたとき」

 運命だ、って思った。そうつぶやく透子の顔は見えないけれど。

「誰も彼も思い通りにしかならないとき、あのときの男の子が、何者でもなくなっていた――奇跡だと思った。この人なんだと思った。人生はタイミングなんだ――そう思ったの」

「そっか。僕の、不登校で」

「ごめんねぇ。でも、本当に、……こう言っちゃだめなんだろうけど、うれしくて」

「ううん。それがもし透子の助けになって、こうして透子と一緒になれるきっかけになったなら……僕も、うれしい」

 不登校になってよかった――なんて、父さんと母さんには口が裂けても言えないな。透子に見えないよう苦笑いをすると、それを察したように首を逸らして見上げようとしてくるんだ。僕は肩から抱きすくめてそれを封じた。

「大胆だ」

「察するの禁止」

「無茶言うなぁ」

 くすくすと笑う透子。僕もつられる。

 ひとしきり笑って、ひとしきり黙って、透子はぽつりとつぶやいた。

「直樹」

「あ、うん」

 なんとなく、その声色に察した。切なくなるような幼い声。何かを欲しがる、透子の声。

 だから大丈夫だよと僕は応えた。

「せーの、でいく?」

「じゃあ、それで」

 距離感が近くて、クリスマス以降はもう、明け透けではあったけれど。

 言葉にしなくちゃ。大人の駆け引きなんてものは、きっと僕らにはふさわしくない。

 だから、せーので。




「好きだよ」「好きだよ」

「透子」「直樹」




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