おかえしは、あまい。
芹音さんがお風呂から上がると、皆でリビングに集まってちょっとしたお茶会になった。
彼女が作ってくれたのは、チョコレート味のパンケーキ。驚いたのはその中身だ。
「チョコ系のプロテインに卵と低脂肪乳だな。ダイエットにピッタリだ」
「すげー。ちゃんとおいしーし」
「ほんと、母さんに教えよう」
「はは。調べれば作り方もすぐ出てくるからね」
自身もそれを頬張りながらご満悦の様子で。
プロテインって結構味の好みが分かれるものだけど、こうして他の材料と一緒にお菓子にしてしまうと、案外普通に食べられるものなんだな。卵と低脂肪乳って、ほんと、ダイエットのためのお菓子といっても過言じゃないくらいだ。
これなら夜のお菓子も罪悪感にならない。大きさも控えめにしてくれていて、ちょっとした気遣いに大人を感じる。
何しろこのあと、透子が作ってくれたものも待ってる。芹音さんには悪いけど、僕にとってはそれが本番。あるいは芹音さんも、それがわかってるからこのメニューなんだろうな。
「……そういえば家族以外だと、初めてかも」
「なにぃ!? 芹ねぇに初めてを奪われた!」
「その言い方はやめろ」
噴き出しそうになったパンケーキを強引に飲み込み、弾みで咳き込んでしまう。
なんてことを言うんだこの女は。
「ああ、ごめんごめん、よしよーし」
背中を擦ってくれるのはありがたいけど、母親か。
「いやだって、ちょっと本気で悔しいんだけど」
「悪かったよ。でもおまえがあとで渡すって言ったんだろ」
「そーだけどさー。ぐぬぅ」
僕の初めてなんてどうだっていい……この言い方はよくないな。
それに、その価値を決めるのはいつだって透子だ。それに価値を見出したんなら、僕はそれを否定しない。――心底どうでもいいとは、思っているけど。
「じゃあ、あーん」
ナイフで切った一口大のパンケーキを、透子はフォークに刺して突き出してくる。
これは間違いなく、断れない流れだ。
「あー」
「んん~。悪くないなぁ」
そろそろと口の中に入ってきたそれを頬張って、照れ臭いながらも咀嚼を始める。にこにことそれを見守る透子は、僕が飲み込むのを待ってから、テーブルに手をついて身を乗り出してきた。
そりゃあそうだ、透子ならそうなる。目を閉じ、口を開けて待っている。
「いくよ」
「あーん」
僕にくれたより少しだけ小さめに、そして唇には触れないように。慎重に口へ運んだパンケーキは、フォークごとぱくりと口の中に閉じ込められてしまった。
「いや、全部いかないでよ」
「むぐんむ、むー」
フォークだけを強引に引き抜けば、つるんと輝きながら口からでてくるものだから。
……これ、どうしたらいい?
「すみません、あの、芹音さん」
「替え、持ってくるよ。まったくこのばか」
「むふーん」
何をドヤ顔してやがるんだか。
お茶会は和やかに賑やかに、呆れながらも笑いながらに過ぎていく。芹音さんの義理チョコを楽しく食べたなら、透子は少しだけ惚けたようにお茶を飲みながら、ちらりと僕を横目に見るんだ。
あ、
意味ありげな流し目。立ち上がりリビングを出た透子を見送り、僕は食器を持ってキッチンへ。
「手伝います」
すでに洗い物に入ろうとしていた芹音さんの横に、僕は布巾を持って立った。居ても立ってもいられないというか、今の気持ちをごまかしていたかった。そんな僕の動揺を見透かしたように、芹音さんは「ありがとう」なんて言ってくれる。
「ああいうときの透子、ちょっと怖いだろ?」
「……実は、少し」
洗った皿を受け取り、拭きながら白状すれば、芹音さんは笑いながら「だろう」とこぼす。
「入り込むというか、なんというか。底知れない感じがして、圧倒されるよ」
「わかります。……演じてる、んですかね」
少し気になったことを問うてみれば、芹音さんは少しだけ手を止めて、また洗い始める。笑みを消して、真面目な顔で。
「本気だから、演じてる……かな」
「……本気だから」
「あいつにとって本気って、そういうことだろ?」
「そ、う、ですね……確かに」
なんとなく、腑に落ちた。
演じること、イコール嘘、じゃない。ああ僕は、どうしてそんな簡単にことにも気づかなかったんだろう。
僕だって多かれ少なかれ、演じることがあるじゃないか。気丈な自分、恥ずかしいことを言うキザな自分、どれも僕の
だから透子から感じる嘘だの本気だの、演技だの違うだの、そんな僕の主観に頼りすぎるな。
何より彼女が言っていたじゃないか。目先のことを楽しもうよ、シンプルに考えようよ、って。
再び笑みを浮かべた芹音さんが、僕を見て言う。
「私は透子の味方だから。だから、頼むよ」
「はい。僕も、演じてきます」
透子の本気を受け止める、僕を。
洗い物を終えていつものソファにくつろぐ僕の、目の前に現れた透子。いつもの部屋着とは違う、かわいらしい黒猫モチーフのパジャマを着て、いたずら顔のその唇は、大人っぽいバラの赤。メイクはそれだけ、けれどその赤は決して浮いてはおらず、むしろ彼女の顔を引き立てる脇役でしかない。
無言のまま僕の手を取り、後ろ手にそれを引っ張るんだ。ぐいぐい、ぐいぐいと強引に、振り回すように。いつもの透子みたいに。
予想通り、というと少し違うけど、僕らは透子の私室になだれ込むように入った。自動で点く電気が早いか、透子はすぐに僕をベッドに押さえつけて、隣に座る。
「……あの」
突然過ぎて、さっきの気構えもどこへやら。あるいはそれが狙い?
「……あれ、なんか違うな」
「えぇ……」
「いやね、段取り考えてたんだけど」
「段取りって」
「ベッドに座らせて、隣に座ったらなんか、違うなぁって」
どうやら僕も考えすぎていたようで。
気が抜けてしまって、僕はベッドに後ろ手をついてため息を一つ。
「あはは。直樹、めっちゃ緊張してた」
「そりゃするよ、あんな、手を引かれて」
「なんか作りすぎちゃった。クリスマスのときくらいがちょうどいいな、やっぱり」
「……なにするつもりだったの」
「え、聞きたい?」
にやにやと面白がっているから、僕は「聞きたくない」と答えた。口をとがらせる透子は、次には笑ってポケットをごそごそ、小さな箱を取り出した。白い箱に赤いリボンの映える、ほんの三、四センチ程度の。
そっとそれを受け取って、くるくると無意味に回してみる。
「開けてよ」
リボンはふたに巻いてあるだけのようで、解かなくても箱だけを開けられた。
中には小さなチョコブラウニー。シンプルな形で、薄っすらと粉砂糖が振られている。
「初めてだから、あんまり凝ったことしてないけど」
「ううん、すごく、おいしそう」
「味は保証するよ。芹ねぇも太鼓判を押す出来だからねー」
そりゃあ確かだ。
僕はそっと指でつまんで、小さく一口、かじってみる。
少しだけビターな、カカオの存在感がしっかりとした、濃いブラウニー。そこに粉砂糖の薄っすらとした甘みが効いてきて、舌に少しだけの優しさを残してくれる。
「……おいしい」
「よかったぁ」
ふんわりとした透子の安心した笑顔を見て、僕もなんだか安心してしまう。
本当においしい。小さいものだから、もう一口で全部なくなってしまったけれど、それが少し惜しいくらいに。少しのほろ苦さと少しの甘さが、混じり合って口に残る。鼻に抜ける。
香るようなバレンタインチョコレート。
「やばいなんか、めっちゃ嬉しい」
「お、なんだどした」
「作ってくれたんだなぁって、思って」
「うんうん、がんばったよ。直樹のこと考えて、おいしいって言って欲しくって」
「おいしいよ、本当に」
「疑ってないよぉ」
笑う透子。なんだか泣きそうになる。
これがどれだけ手間のかかるお菓子かはわからないけれど、「おいしい」というただそれだけで、真心は感じられるものなんだ。
箱を閉じて、僕はそれを大事にてのひらに乗せて包みこんだ。
「これ、とっといていいかな」
「えぇ、ごみだよそれ」
「いやなんか、こう、ね?」
「ね? って。かわいいか」
まぁ、でも、
「これの価値は、僕が決める、から」
「……おお、こりゃあ一本とられたね」
そうとも、それを否定することは誰にもできない。透子にも。
ベッドから一歩進んで、ローテーブルに置いて、一歩下がってまたベッドに座り込む。
「ありがとう、透子」
「へへ、どういたしまして」
満面の笑みの透子は、そのまま僕の手に自分のそれを重ねる。少し余ったパジャマの袖が、手の甲にかかってくすぐったい。
じぃと僕の顔を見る透子の瞳が、いたずらっぽく揺れる。身構える僕の肩を抑えて、重ねた手をそのままに。
僕の頬、唇の左、わずか一センチ。
小さく口づけを。
……した上に、舌を。
「ぇ?」
ガチリと身を固くする僕の首に腕を回して、ぎゅうと抱きしめる透子。
僕はどうすることもできず、彼女の身体に腕を回そうとして、逡巡して、結局そのまま下ろしてしまった。
「……こなざとう、ついてたよ」
「……そ……っか」
「あまぁい、ね」
肩に乗った透子の顔。耳元でささやくような甘い声。部屋の電気が明滅したような錯覚に、めまいがする。
耳の裏に心臓があるみたいだ。ずくずくとうるさい。透子の穏やかな呼吸が、それを落ち着かせるみたいにゆっくりと聞こえてくる。その温もりを確かに感じるのに、僕の身体の芯がそれよりも熱くて、脳みそが誤作動を起こしてるんだ。
赤く咲いたあの唇は、その奥にしまわれたあの舌は、感情を紡ぐ透子の宝。だから僕は。
だから――
「もう少し、このまま」
「うん」
「ちょっと大胆、だったかな?」
「ちょっと、ね」
「背中、手」
「うん」
「はぁ……あったかい」
「あったかい、ね」
「がっちりしてる」
「透子は、やわらかい」
「私たち、ちゃんと男と女、だね」
「……そうだね」
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