夜更けに僕らは。
そのあと、僕らは透子の部屋を出てリビングに戻った。せっかくのお泊りなんだから、三人でもっと遊んでいたい、と透子が言うから。
午後八時、普段なら自室にこもって勉強をしたりパソコンで動画を見たり、一人の時間だ。
美女二人と遊んでいられる幸運に感謝しつつ、テーブルにつけば、芹音さんから突然にウェットティッシュが差し出された。
とんとん、と指差すのは、彼女の左頬。唇からわずか一センチ。
ぎくり、と跳ねた心臓に知らんぷりをして、受け取ったウェットティッシュで自分のその場所を拭ってみれば案の定。薄く淡く、色づく赤。バラの赤だ。
隣を見れば、にっこりと笑顔の透子がサムズアップをしている。歯みがきはまだしていない、から、その唇は赤く色づいたまま。
「透子、おまえ」
「唾つけとく、かっこダブルミーニングってやつだね」
「……はぁ」
芹音さんの盛大なため息にも悪びれず、透子はますます笑みを深めるのみだ。
「おまえら、付き合ってないんだよな」
「うん、まだだね」
「予定があるみたいな言い分だな」
「そりゃあ、まぁ。最終局面ってとこじゃないかな」
「……ならまぁ、あれこれ言うつもりもないけどな。でも、大丈夫なんだよな?」
「大丈夫、大丈夫。軽い炎上くらいはするかも、というかすでにしてるけど」
「……大丈夫、なのかぁ?」
軽い炎上、については僕も把握してる。当たり前だろう、あれだけ好き放題二人で出歩いてるんだから。
休養と言いながら男と遊ぶ。その男は特段有名というわけでもなく、顔も十人並み。一体何をしてるんだか、などなど。僕についても透子についても、言われ放題している。
そりゃあ、多少堪えはした。でも、隣に透子がいれば関係のない話だ。そんな幾千幾万の声なき声よりも、目の前にいる僕のほうを優先してくれているのだから、僕だって。
多少、堪えはしたけど、ね。
「直樹のことは責任もって守るから、大丈夫」
「……みたいです」
「そうか。まぁ、結局困るのも透子だしな。いいか」
「いいんだ」
「おまえがいいって言ってるだろ」
少しだけ、ほんの少しだけ不満そうな声色の透子。当然芹音さんはそれに気づいただろうに、素知らぬ振りで断ち切った。これもまた信頼関係、責任は自分で取れという言外の通告。
とはいえ、透子が困れば芹音さんも困る、というのが彼女らの関係でもあり。複雑な表情の芹音さんの苦労が偲ばれる。
「それにしても炎上するって結構言われたい放題だろ? 桜庭くん、案外図太いんだな」
「……いえ、まぁ」
ちらりと横目で透子を見れば、にっこりと変わらぬ笑顔。
「心強いので」
「……素直な子だなぁ」
「ねー。辛くなったらいつでも言ってね。なぐさめてあげよう」
「それを言うなら透子だって」
「なぐさめてくれるの?」
「……必要なら?」
「じゃあ、辛くなったら言うね」
必要、なのかなぁ。
面白がるような笑顔は変わらないけど、でもまぁ、透子だって人間だ。悪口を言われれば傷つくだろうし、小さな傷も重なれば大きく深くなるものだ。
だから僕は、せめて彼女がそばにいる間だけでも、そばにいよう。
「というわけで遊ぼう。トランプもってきた」
切り替えるような楽しげな笑みで、透子はポケットからトランプケースを取り出す。僕は手元に淹れられた紅茶を一口含んで、その香りに思考を切り替える。
何の変哲もないトランプも、この三人ならきっと楽しい。
「三人でできるってなると、限られてくるなぁ」
「とりあえずポーカーとか?」
「いいねぇ。大女優のポーカーフェイスを見せてやるぜ」
「芹音さんのほうが
「いやいや、めちゃくちゃ表情出るじゃん」
「……うるさいな」
賑やかなバレンタインパーティは終わり、午後十時。さぁ皆就寝だ、ということで透子が客間に案内してくれた、わけだけど。
「……なんで一緒に入ってくるの?」
「え? お泊り、といえば、夜更かし、でしょ」
「お肌とかに悪いよ」
「たまにはいいんだよ。もっとお話しようよ」
その瞳が、なんとなく訴えてくる――「物足りない」。何が、というのはわからないけど、でも、断れる雰囲気じゃないな。頑固になった透子には、僕はどうやったって勝てないんだ。
ただ、問題はまだ他にもあって。
「なんで布団、二つ敷いてあるの?」
「なんでって……」
僕を指差し、
「直樹のと」
自分を指差し、
「私の」
うん、わかってる。でもそういうことじゃないってのもわかるよね。
もちろんわかってる。透子は全部わかってて言ってるんだ。
「芹音さん、怒るよ」
「芹ねぇが敷いたんだよ」
「嘘でしょ……」
「聞いてみる?」
「……いや、もうなんか、いいや」
客間は当然ながら透子の部屋以上にものがなく、簡易な収納がいくつかある程度。真ん中に二つ敷かれた布団のうち、僕はドアに近いほうを陣取った。何かあったとき、すぐに逃げられるように。
「お、逃がさないよという意思を感じるなぁ」
「……えぇ」
そんな僕の意図を意図的に曲解して、透子はけたけたと笑う。なんだかもう、楽しそうでよかったよ、としか思えなくなってきて、僕もまた笑みをこぼしてしまうのだ。
透子が隣の布団に脚だけつっこんで、上半身を起こして枕を胸に抱く。
「お泊り、って感じだぁ」
「そうだね。正直、今も夢なんじゃないかと思うよ」
「だってまだ、会って半年たってないもんね」
「そう、だね」
子供のころの話はまだしていない。透子は間違いなく覚えているだろうけど、僕はクリスマスあとのあの日まで忘れていて……思い出したことも、話せていない。
なんとなくバツが悪いんだ。僕がしたことと、僕がもらったものの釣り合いが、あまりにも取れていないことも。そんなふうに比較してしまうことそのものも。全身全霊で僕を
だから話せていない。そんなことを話せばきっと、透子は失望してしまう。
口ぶりから察するに、透子は僕が忘れていたことをわかっていて、それを受け入れてくれている。きっとがっかりしただろうに、そんなことを露ほどにも見せず。
さっきの感触を思い出す。透子の華奢な背に腕を回して、恐る恐ると抱き包んだあの。
笑いながら、楽しそうに話す透子を見てると無性にさっきみたいに、抱きしめたくなってくる。いいやもっと強く、もっと優しく。
もちろんそんなこと、できやしないけど。
「聞いてる?」
気づけば身を乗り出してきた透子が、僕を上目遣いににらんでいた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「もー。あのね、明日小テスト全部取れそうじゃん? ちょっと遅れたけど……まぁ、それはいいとして、打ち上げしようよ」
「お、いいね」
「メタクラの打ち上げだから、二人だけでね」
「なんか思い出すなぁ。小テスト、初合格」
「ねー。あのとき、すっごい浮かれちゃって。『うち、くる?』って」
「や、あれは……そういう透子だって、『いく』って」
「あはは。ねー」
あのとき芹音さんが止めてくれなかったら、僕らはどうなっていたんだろう。今よりもっと近づいてたかな。あるいはぎこちなくなって、離れてしまったかもしれない。
わからないけど、それでもあの日があって、今日がある。だからたぶん、あれでよかったんだと思う。
積み重ね、信頼関係。透子だけじゃなく、芹音さんや僕の両親とも。だから今日僕は、ここにいるんだ。
「……そっち、行っていい?」
「だめ」
「わかった。行くね」
「……うん」
ごそごそと移動してくる透子を、僕は布団の端に移動して迎え入れた。いよいよ近い距離、そして二人きり閉ざされた空間。熱を共有するようで、僕の身体がなおも熱を持った。
透子が身じろぐたび、それが掛け布団を通して僕に伝わる。触れ合う肩からも、もちろん。
「でも結局、お泊り、しちゃったね」
「うん」
顔が近くて、声まで近い。
変わりのないきれいな顔。透明感のある、聞き取りやすい声。ああ、本当、好きだなぁ。
この近すぎる距離感だって、相変わらず慣れたなんて言えないけど、でも、心地いい。うるさいくらいに脈打つ心臓も含めて、透子と一緒にいる実感の一つなんだ。
「平気そうな顔してるけど、ほんとは私だって、ドキドキしてるよ」
「……そうなの?」
「失礼な。でも、ドキドキするの、好きなのかも」
「ちょっと、わかる」
ちょうど同じことを考えていたから。
「さっきの粉砂糖が、まだ舌の先に残ってるみたい。なんだかずーっと、甘いの」
「……いや、ちょっと」
それは反則だろう。ドキドキを超えて、破裂しそうだ。
ついつい目が向いてしまう唇が薄く開かれて、舌先が覗く。僕は慌てて目をそらして掛け布団にそれを落とした。
「ドキドキさせるのは、もっと好き」
なんてことを耳元でささやくから、僕はとうとう根負けして透子の肩に手を添えて、押し退けてしまった。
「あ、もう。いい加減慣れようよ」
「透子は、……かわいいから、自覚しようよ」
「してるよぉ。してるから、こうしてるんでしょ?」
「たちが悪い」
さすがにこれ以上はまずいと思ってくれたのか、まっすぐ座って少し不満げに。
「慣れとかないと、困るよ」
「え、なんで」
「さぁ。なんでだろーね?」
不満げなまま、笑顔で。器用な複雑な表情で透子は、ぱたんと後ろに倒れ込む。枕を後頭部にぐいぐいと入れ込んで、ふはぁと盛大にため息だ。
「寝ないでよ」
「だいじょーぶ」
答えになっていない。しかたないなと笑い、僕も彼女にならって仰向けになった。掛け布団を肩まで掛けて、肩を少しだけ、触れ合わせたまま。
「臆病なのか大胆なのかよくわかんないなぁ、直樹は」
「僕もよくわかんない」
「えー。……ま、いっか」
「いいよ、あったかいし」
「あったかいねー」
言いながら、彼女は照明のリモコンを操作する。ぱちりと明かりが消えると、もう何も見えない。黒い視界の中、隣に寝る透子の顔さえも。
このまま眠ってしまえば、僕も透子の距離感に慣れてしまえるんだろうか。例えば触れ合う肩の先、ためらうように動いてしまうこの手を、彼女の手に絡ませることだって。
だって透子なら、当たり前のようにその動きを察して、当たり前のようにその手を絡めてくれるんだから。
「あったかい、ね」
「うん……あったかい」
このまま眠ってしまえば、僕も彼女のように、
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