打ち上げる、何かを。




「うぉわぁ!」


 朝の静寂を破る驚愕の叫び。何を隠そう、僕の声だ。

 なにしろ目が覚めたら目の前に女の子の顔があるんだ。目を開いた瞬間に視界に入る、穏やかな寝顔。緊張感の欠片もない、安心しきった。あぁ、きれいな子は、目を閉じててもきれいなんだなぁ……と、寝ぼけた頭で思うこと数秒。

 少しずつ目が覚めて、現実を受け入れてくると、頭の中は驚愕一色だ。

 その大声にビクリと身を震わせたきれいな子、透子がぼんやりと目を開く。

「うぅ……なにぃ、もう」

 目をこすりこすり、しぱしぱと何度か瞬かせて、ぱちりと開くと、驚愕に染まる僕の視線とばっちりと交わった。

「おはよぉ」

 そうしていつもとは違う緩みきった顔でふにゃぁと笑うものだから、胸のあたりがぎゅうとなってしまって、僕はすっかりやられて・・・・しまうんだ。

「おは、よう透子……あの」

「細かいことはいいから、ちょっとこのまま、目が覚めるまで」

「……いやもう覚めてるでしょ」

 めちゃくちゃ寝起きがいいんだな。透子に関する新たな情報を得てなんとなく嬉しい気持ちを、表情には出さずに上体を起こそうとする、けれど。

 がちりと肩をつかまれ断念。

「なにするのさ」

「聞こえなかったの? ちょっと、このまま」

「ごめん」

 やっぱりまだちょっと寝ぼけてるみたいだ。さすがの透子も、このくらいのことでこんなに怒ることないんだから。

 小さく身じろぎをした透子が、僕の胸元に手を添えるようにして潜り込んでくる。聞こえてくるのは穏やかな吐息――寝息だった。

「……なんなのもう」

 とりあえず、透子の新情報は書き換えておこう――朝に弱い、と。


 朝食はもちろん三人揃って。

 朝はパン派だという山口家では、他に目玉焼きとサラダ、トーストにはオリーブオイルに塩コショウ。なんというか、トースト一つとってもおしゃれだな、と。

「珍しいな。朝は強いと思ってたけど」

「うぅ……めっちゃ寝た。寝すぎたぁ」

「起きたときからこんなでしたけど」

「……なんだ透子、人恋しかったのか」

「かもしれない。芹ねぇ、一緒に寝てくれる?」

「たまになら、別に構わんけど」

「え、ほんとに? 言ってみるもんだなぁ」

 僕も少し意外だ、とはいうものの、透子に対する甘さはもうわかりきったことでもある。ぐっすり寝て眠気眼の彼女が珍しいというのなら、そうしてやりたいという気持ちが勝ったんだろう。

 ちなみに。布団を二つ並べて敷いたのが芹音さんでないことは、起きて早々に判明した。僕の叫びを聞いて何事かと客間のドアを叩いた彼女に、同じ布団で眠る二人を発見されたからだ。

 少しばかり説教を受けたものの、結局のところやっぱり透子に甘い芹音さんは、眠たげな彼女を「しかたないな」と笑うのだった。

「じゃあ早速今夜から」

「た、ま、に。な?」

「はぁい」

 

 食後の歯みがきは二人並んで。透子のリクエストだった。

「お泊りイベントでさ、こういうシーンよくあるよね」

「あるある」

 しゃくしゃくと小気味の良い音を立てて歯を磨きつつ、器用に話す透子に、僕は言葉少なに返事をする。鏡に映った僕と透子は部屋着姿パジャマ姿のまま、ぼんやりとした表情のまま。

「お互いの寝癖いじったり」

「透子はサラッサラだね」

「まぁねぇ」

 首を小さく振れば、それだけで髪が流れるようについてくる。

「今更だけど、うちのと同じシャンプーなんだよね」

「そりゃそうだ。だって直さんから教えてもらったやつだもん」

「えっ……道理で」

 驚愕の真実。いやまぁ、聞いてみれば何の不思議もない、むしろ考えなかったのが不思議なくらいのつながりではあったけれど。

 会話しながらの歯みがきはなかなか進まないけれど、新鮮で楽しい。いつもなら気にしないのに、垂れてくる薬剤混じりの唾液を気にしてみたり、大きな口を開けないようにしてみたり。

 隣を見れば、やっぱりきれいに歯みがきをする透子がいる。

 終わってしまえば歯ブラシを洗いうがいをして、無意味にため息をこぼす。

 ぐちぐちと口の中をすすいで吐き出して。がらがらと喉を鳴らして吐き出して。僕のあとに続いた透子も、また無意味にため息をこぼした。

「ふぁー、すっきり」

「目、覚めた?」

「うん。ちょっとこのあとランニングするけど、ついてくる?」

「へー。じゃあちょっと、走ってみようかな」

 運動着は持ってきてないけど、なんとかなるだろう――


 ――と思っていた僕が愚かだった。

 透子の軽く・・は、一流の芸能人のそれだった。軽く五キロ、という文言にひどい矛盾を感じてしまうのは、僕が凡人だからだろうか。いくら筋トレをしているとはいっても、持久走に求められる体力とはまるで種類が違うんだ。それをまざまざと実感させられる時間だった。

 透子ときたらそれなのに、軽く息が上がる程度ですんでるんだから。普段から走ってるんだなぁ、努力してるんだなぁと、感心してしまった。

 そのあとへとへとの僕を連れて、透子は家の奥の部屋に入った。初めて入る部屋はそこそこに広く、壁が一面鏡になっている奇妙な部屋だった。あえていうならそう、テレビで見たことのある『ダンススタジオ』のような。

 いろいろと機材が置いてあって、どうやら防音にもなっているらしい。

 つまりここは、透子専用のレッスンスタジオ。毎日のレッスンのために作ったという。

「すっご」

「ねー。時間が空いたら、ここで軽く一時間くらい柔軟とボイトレするんだ」

「……ハード過ぎない?」

「でも習慣だから。サボると、取り戻すのに時間かかるしね」

「って、言うよね。やっぱりそうなんだ」

「まぁ、泊まりの仕事とか、クリスマスみたいなときとかはどうしてもね。そういうときは、翌日以降ちょっとずつ増やしたりするし」

 やっぱり透子はすごい。本当に、かっこいい。

 続けるだけでも偉いのに、見ていればわかるほどに、妥協を許さないんだ。ランニングも、柔軟も、ボイストレーニングも、全部本気で取り組んでる。

 じゃあ明日から付き合おう、みたいなことにはならないけど、僕はこのままでいいんだろうか、とは思う。僕がやっていることといえば筋トレくらいのもので、それだってムキムキのマッチョを目指すようなストイックなものじゃない。

「……深刻な」

「うん、ごめん。わかってるんだけど」

「人生のテンポは人それぞれだから、急いでもしょうがないよ。それでズレ・・ちゃったら、私悲しい」

「……テンポ」

「タイミング、だね」

 ああ、そうか。

 ゆっくりな僕と、走る透子。けれどどこか大事なところでかみ合って、それが僕と彼女の一緒にいる理由。

 ――それが彼女の考え方。人生観。

 もちろんそれにならうかどうかは僕次第。そんなテンポだとかタイミングだとか、本当にあるのかどうかはわからない。ズレる、みたいなことだって。でも。

「うん。じゃあ、僕はこのままゆっくり」

「のんびり笑ったり悲しんだり、そういう直樹が一番いいよ」

「……のんびりしてるかなぁ」

「あはは。……じゃあ、学校行こうか」

 頷いて、僕は透子に続いてレッスンスタジオをあとにした。着替えて、芹音さんに「行ってきます」を言って、スポーツバッグを客間に置いて。



「静粛に」


 僕らの最後の小テストが終わり、先生が退室したあとのこと。もう心配ないだろうとのお墨付きももらい、一安心の空気を破る、厳かな発声。

 先生が来たときにしか使われない、申し訳程度の小さな教壇に立つのは、何を隠そう透子である。

 静粛に、もなにも、僕はそもそも何もしゃべっていない。

「はい。静かになるまで先生、一分待ちました」

「あー、いたいた、中学時代そんな先生」

「だよね。なんなんだろあれ……じゃなくて」

「あはい」

 学校の先生あるあるに話が花咲きそうな気配を、透子は真面目ぶった顔で断ち切った。ちっ、このまま有耶無耶にできるかと思ったけど。

「今日は皆に重要なお知らせがあります」

「……皆」

 教室を見渡す。当然ながら誰もいない。

「はい、ざわざわしない」

「……楽しい?」

「割と」

 じゃあ、いいか。続けてもらおう。

「修了式、えー皆には、舞台に立ってもらいます」

「はい?」

「全員参加で、もう演目も役柄も決まっています」

「え、ちょっと透子」

「先生と……は、まぁ呼ばなくていいや。はい桜庭くん、何ですか?」

「急に言われても、冗談だよね?」

「本気だよ。もう先生に話して、決定事項」

「……えぇ」

 思ったより『重要なお知らせ』すぎて愕然としてしまう。

 舞台? 僕が? 役柄? 演目? なにそれわかんない。

「まぁ、急で悪いとは思ってるよ。でも、煮詰めるより先に決めちゃったほうが、直樹にはいいような気がしたんだよね」

「そりゃあ、まぁ、逃げられないならやるしかないけど」

 急にいつもの透子に戻って真面目に話すものだから、僕も面食らってしまって。気勢を削がれた、というのだろうか。抗議する気持ちも失せてしまった。

「大丈夫。直樹の役は、セリフは一切なし。アクション一個だけ」

「……木の役みたいな?」

「人形の役、だよ」

 ……あぁ、ずるい。

 そんなことを言われたら、もうやるしかないじゃないか。

 僕と透子を語る上で、「人形」というワードは切っても切れない関係にある。彼女の役者としての呼び名然り、彼女の思うままに生きる僕の在り方然り。

 だからその舞台というのはたぶん、彼女の「大事な話」に関わるものだ。

 断るという選択肢は、消えてしまった。やるしかない、じゃないか。

「でも、アクションはあるんだ」

「うん。詳しくは台本を詰めてからで、まぁ基本立ちっぱなしだね」

「あれ、台本透子?」

「そうそう。動画サイトにも上げようかなと思ってるんだけど」

「……え?」

 脚本・主演氷室冷夏の、ほぼほぼ一人舞台。

 話題になる、どころの騒ぎじゃない。老若男女、日本中の人が釘付けになる――そんな確信。

 僕だけがただひたすらに場違いだ。それならいっそ、いないほうが映える。きっと彼女の表現力なら、虚空に人形を表現するくらい、ワケ・・ない。

 けれど決定事項、つまり透子の意思は堅い。

「よし、じゃあ打ち上げだ! 気分を上げよう!」

「……おー」

「ごめんてぇ。動画は最悪、なくていいから」

「……うん、いや、やるならやりきらないと」

「……そういうとこ、ずるいね」





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