足元にも遠く及ばない、大きな一歩。




 時間が経つのが遅く感じる。なのに、気づけば時間が経っている。

 早送りとスローモーションを繰り返す、バグった動画を見ているような、地に足のつかない時間。

 山口が何か話しかけてくれているけど、頭に入ってこない。

 ああ、僕、思った以上に緊張しているらしい。

 母さんに話を持っていったときも、山口にそれを報告したときも、それから今日までの間も、僕はきっとハイ・・になってただけだったんだ。

 いよいよ今日、帰ったらすぐに、と思うと、動悸が止まらない。呼吸が浅くなっているのが、自覚できるほどだ。

 落ち着け、落ち着けと思うほど、落ち着かない。

 深呼吸をしようとするけど、胸がつっかえるんだ。

「さくらばー」

 ……ぐわし、と、僕の頬が温かに包まれた。

 黒いビードロに、輝く星。宇宙のような、山口の瞳。

「ちゅーしてやろうか」

「……やめて」

「冗談。つかやめてってなんだ」

「いや止めるよ普通に」

「泣きそうな顔でなに言ってるんだか」

「……泣いてないもん」

「ガキかよ!」

 元気づけようと茶化して、けれどその瞳は、どこまでも深くて恐ろしい。

 僕の瞳がどうやら本当に潤んでいたらしく、目を閉じた拍子に少し、溢れてしまう。それを拭う指は、優しく、撫でるような。

「ちょっと、ステップを飛ばしすぎたねぇ」

「……大丈夫」

「少しずつ、すこぉしずつでいいのに。なにを焦っちゃって」

 頬に添えていた手を頭に移して、わしゃ、わしゃとゆっくりと、髪を梳くように。

 そりゃあ、焦るよ。好きな女の子とクリスマスデートって、一大イベントじゃないか。もちろん、どれだけ背伸びしたって追いつけるような差ではなのはわかってる。でも、少しくらいはいいところを見せたい。……がんばっているところを、見せたいよ。

 それが結局こんなことになってるんだから、ああ、本当に泣きそうになる。

「少し、落ち着いた」

「うん。でももう少しこうしてようねぇ」

「……恥ずかしいんだけど」

「うんうん、よしよし」

 何も言うまい。情けないのは今更だ。

 それに、温かくて、気持ちがいい。柔らかな手、優しげな微笑み、視界の中にはそれ・・しかない。

 情けないくらいで、離れられるようなものじゃないから。

「……こういう性癖なのかな」

「そういうのを僕の前で言わないでくれるかな」

「いや、なんかこう、くるものが」

「おしまい、おしまい」

 山口の手首をつかんで、僕は自分から温もりを手放した。

 失敗失敗、大失敗だ。よりにもよって山口好きな子の前で、一番情けない姿を見せてしまった。見せた上、慰められて、挙げ句には「そういう性癖」とフォローまで。

 ……いや、実際どうなのか知らないけど。彼女が「かわい」と口にするのが、いつもそういう、情けないときなものだから。

 ともあれ、気づけば落ち着いている。鼓動も、呼吸も、涙も。もう、いつも通りだ。

「山口は、すごいな」

「桜庭はわかりやすいから」

「……悪かったね」

「褒めてるのに」

 褒めてるのか?

 首を傾げる僕を、山口はやっぱり面白がって笑う。

 隣に座る僕のほうへ、椅子ごと向き直った彼女の、膝が近い。

「今まで順調だったからね、ちょっと、油断しちゃったのかな」

「……そうかも」

 外へ出て、学校へ行って、女の子と一緒に遊んだり、家に行ったり。僕は元引きこもりとは思えないくらい、アクティブに動いてきた。気が大きくなってきたんだ。もうまとも・・・に近づいているんだって、勘違いを。

 バイト一つであんなことになる、ただのビビり・・・なのに。

「できる?」

「やるよ。おかげでもう、落ち着いてるから」

「そっか。じゃあ、がんばってね」

 そう言って山口は、ちょっと顔を傾けて、上目遣いで、しなを作る。少しだけ意地悪な笑顔。こういうときの彼女には、何をどうしたって敵わない。

「私の、ために」

「……うん」

 だから諸手を上げて降参するんだ。「仰せのままに」っていう、従僕の気分で。



 おしゃれな外装に少し気後れしてしまう。店の前でうろうろ、したい気持ちを抑えて、僕は約束の十分前に扉を開けた。

「いら……あっなお先輩の」

「はい。桜庭直樹です。お世話になります」

 対応してくれたのは、母さんと同じ年頃の女性で、やっぱりおしゃれな人だった。緩やかにカールのかかったセミロングがつややかで、大人っぽい。

 直先輩、というのが母さん。桜庭直、三十九歳。

「じゃあちょっと説明するから、奥行こうか。皆、よろしくー」

 はぁい、と揃った声は、全部女性のもの。

 なんか、緊張が増した気がする。

 店内に空席はなく、場所柄か忙しなさは感じないけれど、それでも忙しそうだと思う。

 店内奥の『STAFF ONLY』と書かれた扉を開くと、意外と広い部屋があった。真ん中に小さなテーブルと、椅子が三つ。おそらく母さんの後輩であろう店長さんと、僕はテーブルを挟んで向かい合う。

「どうぞ」

「失礼します」

 椅子に座って、居住まいを正す。ああ、緊張する。

「そう堅くならなくても大丈夫だよ。お母さんのお友達の、お手伝いに来たくらいの感じで」

「……と、言われても」

「難しいかぁ。まぁ、それならそれで」

 何がだろう、と思う間もなく、店長さんは名刺を一枚、ポケットから取り出した。

向坂むこうざか陽子、です。よろしくね」

「はい。……あ、桜庭直樹です」

「うん。お母さんとお父さんの名前から、一字ずつ、ね」

「そう、なります、ね」

 普段あんまり意識しないけど、母さんの『直』と、父さんの『樹』。合わせて直樹だ。いかにも二人の子だ、と強調されている気がして、なんだか照れ臭い。

「お母さんには本当、お世話になりっぱなしで。こんな形で恩を返せる日が来るなんて、思ってもみなかった」

「……すみません、わがままを聞いてもらって」

「そんなそんな。だってほら、直先輩、本人に返すよりかえって嬉しそうじゃない」

 それはまぁ、確かに、そうかも知れないけど。

「電話口でもそりゃあもう、惚気話かと思うくらいで」

「……あの」

「ああ、ごめんなさい。お仕事の話ね」

 ぺらり、と店長さん――向坂さんは二枚綴りの紙をテーブルの上に置く。

「これ、マニュアルね。一通り説明するけど、帰ったらまた読んでおいて」

「はい」

「じゃあまず――」

 まず、無資格のバイトである僕が、客に触れる機会は一切ない。

 その言葉に少しだけ安堵してしまう僕は、やっぱりビビりなのだろう。

 なので必然、僕の仕事は大きく分けて二つ。受付と、掃除だ。掃除には洗濯も含まれるものとする。

 電話を受け、予約を入れたり断ったり、来店者を迎え席に案内し、ちょうどいいタイミングで髪を掃いたりしつつ、お客様がお帰りの際には会計を。使ったタオルがある程度溜まったら洗濯して、裏手に干すか乾燥機にかけること。天候次第とのことだ。

 端的にわかりやすく言えば、それだけ。詳しく言えばもっとあるけど、それはおいおい。

「最初は、うちの一番の若手について、見ててもらおうかな」

「わかりました」

「大丈夫よ、優しい子しか雇ってないから」

 どういう選考基準なんだろう。という疑問は、胸のあたりに抑えておいた。

「なにか質問ある?」

「えぇーっと……」

 何かないかと考えれば、ふと浮かぶ彼女・・の笑顔。

「……このお店って、芸能人とか、来たりしますか?」

「やだなぁ、こんな片田舎の小さな美容室に。開店祝いに、昔一緒に仕事した人が来てくれたくらい」

「あの、もしかしたら来るかもってことで」

「あら。そんなに深刻な顔して、もしかしたら有名な方?」

「はい。氷室冷夏っていう」

 すん、と降りる沈黙。笑顔のまま固まる向坂さん。

 ……そっか、そうだよな。氷室冷夏って、本来そのくらいの名前なんだよな。忘れたことはなかったはずなのに、意識しなかったこともないのに、どうしてかこの反応が意外に思えてしまう。

 気安すぎるんだ。距離が近い。僕にとってもう、氷室冷夏よりも、山口透子が大きくなってしまっている。

「……冗談よね?」

「いえ。山口っていう名前で予約が入ってれば、たぶんそれじゃないかなと」

「……ちょっと、待ってて」

 スタッフルームから慌てて出ていく向坂さんを見送り、なんとなく手持ち無沙汰の僕は、周りを見回してみる。

 洗濯乾燥機に、流し台、ロッカーがいくつかに、電子レンジと、よく見ると壁はかなりの割合で壁内収納になっているようだ。スペースはその分狭くなってるけど、十分過ぎるほどに機能的な部屋のようで、何より普段立ち入らないようなスペースになんだかテンションが上がってしまう。

 そんなふうにそわそわしていると、店長さんが若い女性を伴って戻ってきた。ベリーショートの似合う、少しボーイッシュな感じの。

「やばいやばい、入ってますって店長」

「聞いてない聞いてない。どうしたらそうなるの」

「わかんねーっす。店長芸能人相手慣れてるんすよね、さすが頼りになります」

「おいこら」

 コントのようなやり取りを経て空いた席に腰掛けると、女性がぺこり。

桔梗ききょう木更きさらです。よろしくね」

「よろしくお願いします」

「……で、ガチのマジで、来るの?」

「確認してみますか?」

「うん。お願い」

 スマホを取り出し、ディスコの通話をつなげる。今の時間なら、まだ学校にいるはずだ。

 小テスト中でないことを祈りつつも、呼び出し音はほんの数秒、僕はすぐにスピーカーモードにしてスマホをテーブルに置いた。

「スピーカーね」

「あ、うん。なぁに?」

「今日、予約入れてる?」

「入れてるよー。桜庭の終わりに合わせて、四時半に」

「……だそうです」

「あ、お店の人ですか? すみません、先に言っておいたほうがよかったですね」

「……いえいえ、お客様はお客様、ですから」

 おぉ、さすがプロフェッショナル。感心する僕に、桔梗さんがにやりと笑い指を指す。先には向坂さんの脚があって……がっくがくですやん。

「失礼ながら、本当に……」

「はい、氷室です。……予約名もそっちがよかったですね」

「いえいえ、大丈夫ですよ。ただ、他のお客様もいらっしゃいますので」

「もちろん! 他の方と、同じようにしてくだされば」

 それにしても、山口まで、なんというかこう、ちゃんとしてる。

 目上の人であっても、基本いつも通りなのが彼女であって、なんだか新鮮だ。

 あとの問題は「騒ぎにならないか」というところだけど、そこは他の客の良識に任せる他ない。今までだって、カラオケだの個室レストランだの、マックだのなんだのといろいろと行ってきた。多少の視線だのざわめきだの、今思えばあったかもしれないけど、騒ぎになったことはなかったはずだ。

 つまり今回も、大丈夫。信じる他ない僕は、向坂さんに内心謝るのである。




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