多少のミスはしかたない。
初日は、てんやわんやになることはない。
なぜなら、ほぼ桔梗さんについて回るだけだからだ。
そりゃあ、四時間ずっとそれというわけでもないだろうけど、任されるにしても一つずつ、確実に……ということらしかった。たった六日ばかりのバイトで、そんな具合でいいんだろうかと心配もするけれど、現状の僕にはちょうどよかった。忘れたい記憶だけれど、バイト当日に泣くような僕には。
というわけで桔梗さんの後ろで仕事ぶりを見ているけれど、一番の若手とはいってももう慣れたものみたいだ。やり取りはスムーズに、仕事は早く、決して笑顔を絶やさない。
笑顔を絶やさないのは、必死さをごまかす効果もあるそうだ。見る相手に対して、ではなく、自分の内心を。
必死になっているとき、必死な顔をしている。それはつまり、目の前の物事に集中しすぎているということ。表情を作る余裕すらないということ。笑顔を作る、ということに意識を割くことで、心に隙間を作ってあげるんだそうだ。
というわけで僕も精一杯の笑みを浮かべてみるんだけど。
「……うん、まぁ、慣れ、だね」
という、なんとも微妙な反応が返ってきた。凹むわ。
でもまぁ、そりゃあそうか。引きこもっていると、表情を変えることがほとんどない。そうしているうちに表情筋が衰えて、作ることさえ難しくなる。
ここ最近は、表情豊かにしているつもりだったけど。
「でも、やらないより断然いいよ。しばらくそれでいいから、キープキープ」
「はい」
そのうち慣れるだろう、と楽観することにした。
とはいえ、マスクをしている僕らの笑顔は、多少ぎこちなくても問題はない。
僕が最初に任されたのは、掃除だった。
お客様の周りに落ちた髪だとか、使ったシャンプー台だとか、その他小道具だとかを、隙を見て掃除する。
ある意味ではこれが一番大事だ、と桔梗さんは強く念を押した。
美容室において、清潔感は何よりも大事。汚い美容室になんて、誰も来ない。これを適当にするような店に未来はないのだ――と、強い瞳で熱弁をしてくれた。
至極真っ当、まったくその通り。僕は、とりあえず時間を掛けても丁寧にやることにした。
遅くて注意されることは、もちろんあったけれど。それでもスタッフの皆も、それからお客様も優しくて、とりあえず掃除だけは少しずつ、様になってきたような気がする。
次に覚えたのが洗濯。あまり溜めすぎると洗浄力が落ちるので、多少回数が増えてもこまめにすること。多い日で大体三、四回くらいは回すそうだ。あとは天気次第で干すか乾燥機か、というわけで。これくらいは、まぁ、母さんの手伝いでしないこともない。
掃除も洗濯も、それ自体が難しいわけじゃない。誰でもできる仕事なんだけれど、難しかったのはタイミング。いつ掃除したらお客様を不快にしないか、スタッフの邪魔をしないか。いつ洗濯を回せば、ちょうどいい量、ちょうどいいタイミングなのか。初日は結局、多少指をかける、くらいの手応えで終わってしまった。不器用な自分が嫌だ。
受付だのなんだの、お客さんの相手をすることになる仕事は、また後日ということになった。
何しろこれから忙しくなる。
氷室冷夏の、ご来店である。
カランカランとドアベルが鳴り、店内をにわかに緊張が走る。
「え、うそ」
お客様の誰かがつぶやく。
そこから伝播するように、少しずつざわめきに。
五席ばかりいっぱいになったお客様の視線が、入り口のほうに向けられている。
……思えば、こういう静かな場所で身近に、というシチュエーションは、今までになかったかな。電車がそうかもしれないけど、あのときはクロスシートだったしなぁ。
「予約の山口でーす」
しかしてそんなものには一切動じないのが彼女である。なんなら聞こえてない、見えてないと言わんばかりだ。
「いらっしゃいませ。こちらのお席にどうぞ」
もちろん対応するのは店長、向坂さん。芸能人の対応なら、一番慣れているであろう人だ。
しかしなんでだろう、僕まで緊張してしまう。なにか余計なことを、口走ったりしないだろうか。
とはいえ彼女が来たからとて、業務が止まるわけではない。言っていた通り、他の方と同じように、だ。
というわけでこれまで通り仕事をするんだけど――
「チラッチラ見てますね」
「いや見るよ、見るでしょ。わーなにあれ髪きれー。腰も脚もほそー。顔面整いすぎかよー」
「細いってほど細いですかね? 結構鍛えてる感じの」
「引き締まってるって意味だよッ」
「ええ……」
この人も一応、『プロフェッショナル』なんだよなぁ。
「なんか君はアレだね、もう見慣れてるみたいな」
「まぁ、まだ三ヶ月もいかない程度の付き合いですけど」
「すげぇ。そういえばお父さんも芸能人なんだっけ」
「ですね。姫崎真吾っていう」
「ビッグネームだなぁ。感覚麻痺ってるんじゃない?」
「……なんですかねぇ」
僕だって、初めて山口に会ったときは驚いたよ。腰を抜かした、のはまぁ、別の意味でだけど。
さすがの店長さんは、二言三言交わせばもういつも通り。「昔の感覚が戻った」、くらいの感じなんだろうか。母さんの後輩、ということは、芸能人だかなんだかのヘアメイクを担当していたことだろうから。
店内のざわめきは少しずつ落ち着き、けれど聞こえてくる話題は『氷室冷夏』のものばかり。
当人はといえば、落ち着き払った様子でカウンセリングを受けている。とはいってももうヘアスタイルは決まっているらしく、いつものショートボブをと写真を見せていた。
「トレードマーク、みたいなものだよね。氷室冷夏といえば、みたいな」
「あの襟足揃った感じの?」
「そうそう、ぱっつんボブとか切りっぱなしボブとか」
「似合ってますよね」
「なにかこだわりでもあるのかなぁ……っと、仕事仕事」
「あ、はい」
慌てて仕事に戻る僕と桔梗さん。
横目にチラチラと、気にはなるけど、気にはせず。
僕は桔梗さんについて仕事をこなした。結局氷室冷夏は、山口は大人しく施術を受け、大人しく退店していった。ざわめきはもう、ない。
初めてのバイト――四時間は、あっという間だった。
「じゃあお疲れ様。はい、今日の分」
クリスマスのための短期バイト、ということで、日給制をとってもらうことになった。
今時珍しい手渡し。茶封筒に包まれた中身は、まだ見ない。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて、「お疲れさまでした」と続けた。
「次は金、それから土曜日ね。来週も同じ、水金土。疲れたでしょ、早く休んでね」
「ありがとうございます。それじゃあ」
「またねー」
手を振る向坂さんに再度頭を下げ、僕は裏口から外に出た。パタンと閉まるドアに、思わずため息が漏れる。
裏口から表に向かう途中、店の影といったところに背を預けていた山口を見つけて、声を掛けた。
「おまたせ」
「お、おつかれぇ」
疲れも吹き飛ぶような、清々しい笑顔で迎えてくれた。白む息が、ふわりと舞う。
冬の日は短くて、午後五時ともなればもう遠くの建物が影のよう。薄暗がりの僕らは、見失ってしまわないよう、肩の触れるような距離で歩き始めた。
「どうだった?」
「疲れた。でも、ほら」
手に持った茶封筒を見せれば、「おぉ」とそれをひったくられる。
「初給料かー。こいつが私のプレゼントに変わるんだなぁ」
「……なんかあんまりハードル上げられても困るけど」
「楽しみすぎて夜しか眠れない」
「……そう」
茶封筒を返してもらって、コートのポケットに。
寒いねぇとつぶやけば、寒いねぇと返ってくる。でも、なんだか妙に気分が高揚していて、本当はあんまり寒くないんだ。胸の奥のほうから頭まで、熱がこもってるみたいな。
たぶん、この茶封筒の中身なんて、山口からしてみれば、稼ぐのに『分』もかからない。なのに、僕が買うと約束したプレゼントを楽しみに、笑ってくれるから。
だからこれは、最初の一歩なんだ。僕が彼女に、
「……午後は小テスト、受けたの?」
「二つ三つくらいかな? もしかしたら、一歩リードしちゃったかもなぁ」
「進級できればいいんだよ」
「早く終わらせたほうが気が楽、だよ。そしたら、たくさん遊べるよ」
話題を反らせたかな、と思ったら、そんなふうに笑うものだから、ああ、本当に。
好きだなぁと、思ってしまう。
「でもま、今言うのは野暮か。ね、晩ごはんまでちょっとあるよね」
「……少しなら」
「コーヒー飲んでこ。近くに喫茶店あるよね、個人の」
「うん」
断る理由もなく、僕らは踵を返す。
バイト上がり、入口で待つ女の子。一緒に歩く道。時折触れる肩。青春のかほり。
だから、なんとはなしに、思ったことを口にした。
「髪、似合ってる。かわいい」
いつもの、変わりない。けれど、代わりのない。
いつも思っていたのに、口には出せなかった。聞かれずに、言えた。
「……そういうの、こっち見てからのほうがいいよ」
少しだけ不満そうな声。彼女もこっちを見ていないのがわかる。
「そこはほら、初めてのことだから」
「……しょうがないなぁ」
でも、どこか笑み声とわかる。
僕らはそのまま、静かな喫茶店に入っていった。
僕ら以外に誰もいない店内。温かなコーヒーと、小さな豆菓子。
心地良い疲れの中、花咲くように、話は弾んだ。
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