風立ち、浮き立ち。
二月に入ると、コンビニやスーパーなんかが一斉に準備を始める。
以前までの僕なら、きっと入りづらいくらいの空気感。今でもたぶん、一人でそれを買うには度胸がいるだろう。
バレンタイン商戦の幕開けである。
関係ないイベントだった。調子に乗っていた僕は決してモテる男ではなかったし、引きこもっていた半年間は意識すらしたことがない。
けれど、イベント好きの透子がいる。青春を追いかける彼女がいる。
となれば、意識せずにいられるだろうかいやいられるはずがない。一日二日とその日が近づくにつれ、そわそわと彼女の様子をうかがってしまう。そして当然のように、透子はそれに気づくんだ。
「……楽しみ、だねぇ」
なんて笑うんだからもう、ハイ楽しみですと元気よく答えそうになってしまった。キャラじゃない、と思い直して、僕は「うん」とだけ答えた。
キャラってなんだ、とまた恥ずかしくなったところで、透子は追い打ちをかける。
「がんばって作る、からね」
バレンタインデー、手作りチョコ。
このワードに、ときめかない男がいるのか? 僕はやっぱり「うん」とだけしか答えることができなくて、彼女はやっぱりがっかりもせずに面白がって笑うんだ。
「甘いもの、大丈夫?」
「うん。カロリーも、調整しとくから」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっとはりきっちゃおうかなぁ」
「期待、しとく」
「んん~」
あの笑い声。大好きな声。
二月の冬空は暗く、吹く風は冷たく重く、コートもマフラーも貫くようだ。けれど透子と一緒にいれば寒くない……なんてことは、もちろんなくて。しっかり寒い僕らは、寄り添うように風を凌ぐ。
透子の家近くの林は、土が枯れ葉に埋もれて見えないほど。学校帰り、午後四時。僕は彼女の家で、夕飯をご相伴に与ることになった。今日はブロッコリーと鶏肉のグラタンだそうで、なんとも、冬の寒さがかえって期待感を高めてくれる。
バレンタインの話題になったのは、通り道のコンビニ前に立ったのぼりが、まさにそれの広告だったから。そこかしこが甘い色に染まって、町がにわかに浮き立っているようだ。
「ところで、作ったことはあるの?」
「ない。だから、芹ねぇに教わりながら、だね」
「そっか。ぜいたくな話だね」
「ほんとだよ。……何しろ作るの、ひとつだけ、だもん」
ぐぅ、と喉が鳴った。
美女二人のコラボチョコが、僕だけのために。ああ本当に、なんてぜいたくな。僕を喜ばせるために、動揺させて笑うために、わざわざそんなことを言ってくれる透子のことも含めて。
やがて着いた透子の家。門扉を開けて庭を通り、玄関をくぐる。
「ただいまぁ」
「おかえり」
リビングから出てきたエプロン姿の芹音さんが出迎えてくれる。温かな空気は廊下まで漏れ出て、ほっとため息がこぼれた。
「お邪魔します」
「うん、いらっしゃい。まだご飯まで時間あるから、二人でゆっくりしてて」
「ありがとうございます」
靴を脱ぎ上がり框を上がると、僕は透子の背を追いかけた。
いつもはコートを脱いで部屋に上がり、シャツにスカート姿でリビングに降りてくる。けれど今日は階段前で手招きをするものだから、「ついにこの日がきたか」なんて、どきりと跳ねた胸を抑えながらそれに続いた。
初めて家に上がったのはずいぶん前の雨の日。あのときは緊急事態で仕方なく、ではあったけど、そのおかげでその後のハードルが下がったんだった。それから数ヶ月、今日この日まで、彼女の私室に入ったことはない。
階段を上がり、右に折れて少し。玄関側の、ちょうど道路が見える部屋。あの日はそこから僕を見つけたそうだ。
部屋に入ると電気が自動で灯って、やっぱりというかなんというか、物の少ないシンプルな部屋が明るく照らされた。。ベッド、タンス、クローゼットに姿見、PCとそのデスク、それからローテーブルにクッションふたつ。カーペットはふわふわの白で、柄はない。
ふわりといい香りがする、なんて定番はなくて、ほぼほぼ無臭の清潔な部屋だった。
「コート、かけるから貸して」
「あ、うん」
慌てて脱いだコートを透子に渡すと、クローゼットからハンガーを二つ取り出して、壁に取り付けられたフックに重ねて掛けてくれた。
「エアコンつけるから、ブレザーも脱ぐ?」
「ああ、そっちはいいや」
「そか。じゃ、クッションのとこにでも座って」
「ありがと」
ああ、なんかこう、月並みだけど、ドキドキする。
今まで以上に透子がわかる。生活感が見える。手入れの行き届いているせいか、ベッドのちょっとした乱れとか、テーブルに乗ったティッシュの広がりとか、なんかちょっとキモいと思われそうなくらい細かいところに目が行ってしまう。
……あ、ベッドの下にタオルが落ちてる。
「おっとぉ、たまたま今朝使ってそのままのタオルがこんなところに」
「説明くさいなぁ」
「めったにないんだよ、こんなこと。なんで今日に限って」
ぶつくさ言いながら丸めたタオルをベッドの上に放り投げ、透子はクッションを持って僕の隣に。
めったにないであろうことは、この部屋を見ればよくわかる。本当に清潔で、おそらくここにも芹音さんの掃除の手が及んでいるんだろう。
あるいはこれは、晒し上げというやつかもしれない。もちろん僕が部屋に入ることを芹音さんが予期しているわけもなく、本当に偶然。
「それで」
「ん? なに?」
「今日はどうして急に、部屋に?」
「あぁ、ね」
いつものようにクッションを胸に抱いて、テーブルの下に足を伸ばして。いつもと違うところといえば、ソファに座っていないことと、少しだけ歯切れが悪いこと。
むぅ、と唇を尖らせて、横目でちらりとこちらを見て、今度はため息を一つ。
「と、にかく」
「うん」
「ここで、話したい、だけ。だめ?」
「え、いや、全然……うれしい、けど」
「うん。じゃあ、話そ」
変な透子。
頬を赤らめて、みたいな
なんとなく気恥ずかしいような。それをごまかすように部屋を見渡せば、やっぱりだけど、物が少ない。機能的に必要なものだけ、家具も最低限。でもそれ以上に……
「……透子はあんまり、趣味的な小物は、買わないの?」
「うん。趣味なんてないから」
「え。そうなの?」
「漫画も小説も読まないし、テレビもあんまり見ないし、
「そうなんだ」
娯楽を楽しむ暇さえない、といえば納得はできるけど、それにしても飾り気のない。飾り気のない部屋、飾り気のない家、飾り気のない庭――でも、どこまでもきれいな。透子そのものだな、この家は。
そんなふうに思えば、一瞬頭をよぎった「寂しい」なんて感想もたちまちに消えてなくなる。
……けれどやっぱり、どこか、「寂しい」。
「撮った写真でも、飾ってみるとか?」
「ほぉ。いつも僕を感じて、ってことかい?」
「いやっ、……べつに、そんなんじゃなくて。というか別に、僕の写真とは誰も」
「そ、……うん、でも、悪くないかも」
「そっか。じゃあ僕も、部屋に飾ってみようかな」
「そうだよ、考えてみれば直樹の部屋だって似たようなものだったよ」
「……そうだったっけ?」
……思い返してみればまったくその通り。アニメだのゲームだの、趣味といえるほど手を付けていない。だからPCだけで事足りて、グッズだのなんだのはまったく興味がわかなかった。
機能的に必要なものだけ、僕の部屋もまた、透子のそれと似たようなもの。
「じゃあ、写真用のプリンター、買おうかな」
「……写真屋さんとかでいいんじゃ?」
「これからたくさん撮るかも、じゃない? あったほうが、いいかも」
「……僕もちょっと」
「出さなくていいよ。ね」
「はい」
お金のことに関しては、やっぱり僕には何も言えない。僕と彼女の差は、文字通りの『桁違い』だ。たぶん、一つ二つの桁違いじゃ済まないくらいの。
でも、この部屋に僕と一緒に撮った写真が飾られているところを想像すると、なんだか笑みがこぼれてくる。なんとなく、思い出を、大切にしてくれているような気がする。……僕から提案しておいて、なんだけど。
「じゃあいっそ、デジカメとか、買っちゃおうかな」
「そこまで?」
「これから私たち、イベントをたくさんこなすんだから。たくさん、撮りたい……かも」
「……いいと思うよ」
「じゃあ、買う」
言いながらもうスマホを操作し始める透子。あんまりに早い決断に目を白黒させてしまう。
僕の不用意な一言で、おそらく数万円が飛んでいく。恐ろしい事実に、そんな彼女のほうに手を伸ばし……伸ばしかけて、止まった。
ああ、そんな顔されたら、もう止められないじゃないか。
いつも僕が参ってしまったとき、辛いとき、一歩進もうとするとき、こんな顔をする。優しくて温かい、あの笑顔を、僕の不用意な一言で。
自分のために。
「どんなのがいいのかなぁ?」
「僕も詳しくないから。あ、父さんとか母さんに聞いてみる?」
「いいかも。詳しそう」
笑いながら、僕もスマホを取り出して『連絡先』を呼び出した。
結局僕が部屋に招かれた理由はよくわからなかったけれど、なんとなく、来てよかったなと思う。
次に来るときにはたぶん、透子の
――あの姿見の横とか? ベッドの脇? PCの横から見えるあの壁かも。
想像して、ああ、楽しみだなぁと笑う。だから、来てよかった。
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