僕が変わろうと。




「まずは形から、だね」


 変わりたい、と言った僕に、父さんは指を立ててそう強調した。

 なんとなく、『形から入る』という言葉に軽薄さというか、続けられない人間の意志の弱さを感じてしまう。そんな僕に笑いかけ、父さんは言う。

「形から入ることが悪いんじゃない。形だけで終わってしまうのが悪いんだ。そこを勘違いしちゃだめだよ」

「……でもさ」

「まぁ、そうなりがちなのは否定しない。でもね、形だけで終わる人は、どこから始めても同じものなんだ」

 つまるところ、続けられない人間の意志の弱さが問題だと。

「何をするにしても、重要なのは環境とイメージだ」

「環境と、イメージ」

「形から入るっていうのは、その両方をある程度そろえることを言うんだよ」

 例えば、と父さんが挙げたのは、最近始めたというゴルフの話だった。

 例えばある人は、初心者用のセットを買って、スイングの練習から始めた。

 例えばある人は、高級セットを買って、最初からボールを打ちに行った。

 結果どうなったかといえば、前者は早々に辞め、後者はとりあえず形になる・・・・まで成長した。今も続けている。

「いい道具がもたらす効果は大きく二つ。単純な機能の高さ。そして、せっかく高い道具を買ったのだから、続けよう・それに見合う自分になろうという、モチベーションの大きさ」

「あー、確かに。安いのだと、じゃあいいかってなりそう」

「そうだろ? 直樹の場合だと、単純に外見から整えることになるか。そうすると、どうなると思う?」

「えっと……あ、でも、身体作りはずっと続けられてて」

「そう、それだ。せっかく整えたんだから、維持しようとする。継続は、習慣になる」

 確かに。

 憧れや尊敬が下地にあったとしても、実際効果が出てなければ続けられたかはわからない。食事管理をして、筋トレをして、そこそこ筋肉質な身体になれたから、今もそれを続けていられる。

 ああ、そうか。僕はもうすでに、形から入っていた・・・・・・・・んだ。

「そうだね、じゃあまずは母さんを呼ぼう」

「わかった」

 僕の髪を切ってくれたのは母さん。その道のプロ。正確に言えば、元がつくけれど。

 父さんの専属スタイリストだったのが母さんだ。髪型からメイク、それから衣装の都合まで、父さんの外見を一括にコーディネートしていた。それが縁で、家族になったってわけだ。

「使えるものは何でも使いなさい。だから父さんは、あのとき・・・・だって止めなかった」

「……うん」

「後悔がないわけじゃないけどね。……よくなかったのは、父さんのことを使おうとしたことじゃなく、使い方を誤ったこと。わかるね」

「うん」

「すまなかったね、直樹」

「……僕のほうこそ。あのとき……ううん、今までごめん。ありがとう」

 ああ――やっと、やっと言えた。

 本当はずっとずっと、謝りたかったんだ。父さんを、父さんの名前を散々利用しておきながら、それを原因にして引きこもってしまったこと。閉じこもってしまったこと。

 お礼を言いたかったんだ。見放さずいてくれたこと。愛してくれたこと。それでもなお、姫崎真吾であることを誇り続けてくれたことを。



「男の子のセットは、ブローがほとんどって言われてるくらいでね」

「うん」

 僕の髪をタオルで丁寧に拭きながら、母さんは優しい声色で教えてくれる。

 洗面所の大きな鏡の前に椅子を置き、僕はそこに座る。母さんはその後ろだ。

「なんでかっていうと、髪の毛って、乾くときに形が決まるから」

「……そうなんだ」

「ここを適当にしてワックスで整えようとしても、なーんかこう、違うのよね」

 あらかた乾いたところでタオルを傍らに置いて、今度はドライヤーを手に取った。

「直樹はあんまりクセがないから、まぁ、どこからでも大丈夫。ベリショの場合は、トップにボリュームが鍵だね」

「わかった」

 こういうことはほとんど学んでこなかったから、新鮮だ。

 なんだかいつもよりキリッとした母さんに新鮮味を感じながら、その滑らかな手つきに身を委ねる。

 僕は彼女のこれが好きで、美容院にも床屋にも行ったことがなかったんだ。でも僕は、この手から何も学んでこなかった――すごく、もったいないことをしていた。

「トップの毛を持ち上げながら、下から風」

 ドライヤーの音の中、母さんの声はかすかだけれど、わかる。

 それから流れを作りながら全体をざっくり乾かして、冷風だ。

「オーバードライはよくないからね。ここはまぁ……慣れで」

「はは、うん」

 そうしてドライヤーを置いて、ワックスだ。

 僕はこれが結構苦手なんだけど、それもまた慣れ、だったりするんだろうか。ベタベタして、あとから触れない。いや、触る必要をなくすためのワックスなのかもしれないけど。

「手のひらによくなじませる。ダマになってると、髪の毛についたときにもダマになるから」

 それにしても、当たり前のことなんだけど、慣れた手つき。どれだけの数をこなせば、こんなふうにできるんだろう。

 継続は習慣になる。ついさっき聞いたばかりの父さんの言葉。母さんの手つきから、それを感じる。

 そのまま髪全体になじませて、流れを作り、シルエットを整える。

 簡単に言えばそれだけのことを、僕は今までしてこなかった。

「シルエットはとっても大事。ひし形をイメージしておくといいよ」

「ひし形、だね」

「そうそう。あぁ、たのし」

「……楽しいの?」

「息子の髪を触ってるときが、一番幸せ」

 にこにこと、母さんは本当に、心底楽しそうな笑顔でそんなことを言う。

 なんだか恥ずかしくなって、僕はうつむいてしまった。

「私の全部を教えてあげる、なんて言うつもりはないけど、こんな日がいつかは、とは思ってたもの」

「母さんの全部は無理だよ」

 元とはいえ、プロじゃないか。

 ふてくされるような僕の言葉に、母さんはまた笑う。

「別に、美容院に行ってもいいからね。私だとほら、どうしても色眼鏡がかかっちゃうから」

「……考えとく」

 たぶん、当分はないだろうけど。

 そんなことを見透かしたように、母さんは苦笑いだ。

「さ、できた。服装のことはまた、お休みの日にでもね」

「うん。ありがとう」

「いえいえ。あ、あとひとつ」

 そう言って母さんは、立ち上がる僕の横に立った。

 山口とちょうど同じくらいだろうか。いつの間にか追い越していた身長も、もう板についてきたように思う。

「頭頂を天井から糸で釣られているようなイメージで」

「……姿勢?」

「そう。肩を引いて。顎も。腰は前に。S字を描くようにね」

 言われた通りこなしていくと、確かに、しゃんと背筋が伸びているのを感じた。同時に思う。思っていたよりずっと、僕は背を丸めていたらしい。肩を丸め、縮こまっていたんだ。

 だから縮こまってしまう。そうだ、形から入るってこういうことだ。

「最初はちょっとつらいと思うから、気づいたら直す、くらいの気持ちでね」

「わかった」

「がんばれ、直樹」

 軽い調子で、母さんは僕の背中をとんと叩く。

 ああ――がんばれって言われるのも、久しぶりだ。

 がんばらなくていいって、言われてきたから。ゆっくりでいいよって、言われてきたから。

 期待してくれているんだ。前に進めると、思ってくれてる。

「……ありがとう。母さん」

「……当たり前じゃない、お母さんなんだもの」

 深く優しい笑み。

 僕はしゃんとしたまま、荷物を持って家を出た。




 背筋を伸ばすと、不思議と光が強く見える。世界が明るく見える。

 確かに姿勢の維持は少し、いや意外と疲れる。けどもまぁ、しばらくは続けてみようかなと思うほどには、なんだか新鮮な気分だ。

 姿勢に意識を割いていたせいか、学校に着くのがずいぶん早く感じた。

 他の生徒に混じり、けれどいつものようにキョロキョロもせず、うつむかずに昇降口に向かう。

 階段を登る。心なしか身体が軽い。

 ああ、山口はもう来ているだろうか。いつも、人目を避けて早めに登校してるんだ。初日は廊下側、それ以降は僕の隣の、窓際から一つ隣の席に、背中を向けて座ってる。

 その顔が、扉の音にふわっと向けられるのが、好きなんだ。

 ひとまずは形から、変わった僕は、どう映るだろうか。さした変化でもないから、気づかないかもしれないな。それもいい。変わると決めた、僕自身の問題だ。

 さしあたっては、挨拶くらいははっきりしてみよう。

 僕は扉を開いた。



「……え」



「あ、おはよー桜庭」

 いつもの笑顔。

「あ、うん。おはよう、山口」

 変わらない。振り返る顔の、その探るような瞳も。薄く笑んだ唇も。きちっとしたショートボブが軽くなびいて、ふわりと香りそうなところまで。


 だから――気のせいだ。

 ……気のせいだろうか。その瞳が一瞬、黒く沈んだのは。





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