氷の割れる音がした。




「氷室冷夏だ!!!」



 響く大声に身をすくませたその瞬間手は取られ、ワケもわからないまま僕は走り出した。

 流れるような動き、流れる景色。あっという間に特別教室棟を回り込み、僕らは職員用玄関までたどり着いていた。

 急転する事態に驚いていた僕には、何が起こったかもわからない。

 とにもかくにも僕らは――彼女は見つかり、早々に逃げてきた、ということらしい。たったの数十メートル、だけれど、驚いた身体に全力疾走はよく効いた。息を荒げる僕に対し、山口は涼しい顔で吐息一つだ。

「や、危なかった」

「バレても、構わんって」

「あれはうそだ」

 だろうね。

 続けて、「私の涙は安くない」と付け加える。

 ざわざわと、中庭のほうから少しばかりのざわめきが聞こえる。外にまでは出てこないものの、教室を出て窓を開け放ち、様子をうかがう生徒が相当数いる……と、思われるほどの。

 特別教室棟は教室が中庭に面しているため、廊下側はかえって安全だ。そんな楽観的な判断の元、僕らは堂々とメタクラを目指す。さすがの山口も、今度ばかりは鼻歌交じりとはいかないようだ。

 ところで。

「……手」

「いいから」

 引っ張るために手を取り、靴を履き替えたあとも、彼女はそれを離そうとしなかった。しっとりと汗ばむそれはけれど滑らかで、小さく、温かい。

 女の子の手を握るなんて、小学校の遠足以来だ。あのときだってドキドキしたし、その子の横顔がいつもよりも可愛く見えたりもした。それでもそのときのことはよく覚えてないし、その子の名前だって思い出せないくらいだ。

 でも、これは、ちょっと忘れられそうにない。

 僕の手を引いて前を歩く山口は、その歩き方一つとっても一流をにじませる。ぶれない体幹、揺れない頭、程よく脱力の効いた肩周り、膝の曲げ伸ばし――素人目に見ても、きれいな歩き姿。自分を見せる、という一点において、彼女は間違いなくプロフェッショナルだ。

 それでも、それよりも、繋いだ手から伝わる熱が、強烈に脳髄を揺らす。くらくらして、倒れそうだ。

 階段にさえたどり着いてしまえばあとはほとんど人通りのない場所ばかり。熱に浮かされた僕はその道順すらおぼろげなまま、山口の手に引かれるままにメタクラまでたどり着いていた。

 番号を入れ、ドアを開き、入って閉じる。がちりとオートロックの音を確認して、僕らはようやく息をついた。

 全身の脱力感に、僕は扉に背をつけてズルズルと床に座り込む。

「……あれ」

 座り込んだのに、左手が下りてこない。見上げる先、山口の面白がるような笑顔。ぐっと手を引っ張る。離れない。

「力、強いね」

「鍛えてるからね」

 ぐぐっと引っ張る。離れない。

 僕は諦めて、握り込む力だけをゼロにした。正真正銘の、されるがままだ。

 隣に座り込んだ山口は、僕の手を握ったり緩めたり、指先で手のひらをくすぐったり、やりたい放題。じっと黙り込んだまま、僕のほうを見るわけでもなく、ただ手指だけで僕をからかっている。

「楽しい?」

「楽しくはない。なんとなく、タイミング外した感」

「じゃあ」

「離したら負けかな、って」

 全然、わからん。

 いい加減、頬の熱が、限界に近いんだ。心音が、手のひらからでも伝わりそうだ。

 わかってくれないかな。くれない、だろうな。わかってるのかも。

 ああ、わからん。

 そもそも付き合ってもいない、どころか、僕らは出会って三日目の男女だ。ネット上での付き合いも含めればもう少し長くはあるけど、それでも。

 それをどうしたらこうして手を繋いで、指を絡めるような関係に発展するんだ。ましてや相手はあの大女優で……あるいは大女優、だから?

「手くらい、何度も」

「そりゃあ、まぁ。ドラマとか映画でね。私、公私ははっきりわけてるほうだから」

「そ、……っか」

「そうだよ」

 つまりはそう、青春を味わおうキャンペーンの一貫、ということなのだろう。答えの出ない僕には、そういうことにしておくしかなさそうだ。

 数分後、離した手に残る汗がどちらのものかわからないまま、僕らはいつもの席に戻った。

 窓側一番前、隣同士。


 けれど結局僕らはなんだか気もそぞろで、一時間ばかりの自習で切り上げることにした。それくらい経てば騒ぎも収まってるだろうし、授業中の時間を狙い僕らは荷物を持ってメタクラをあとにする。

 午後二時半。今の時間は音楽をやっているクラスがなく、校舎内は静寂そのものの様相だ。誰も山口を探していないことに安堵の息をこぼし、僕は彼女の横顔をうかがった。

 僕よりも、頭一つ小さな。けれど自信にあふれたそのあり方は、彼女をとても大きく見せる。白いLED照明に照らされたつややかな髪は、光を受けて『天使の輪』を作る。輝くような黒い髪に、透き通るような白い首筋がよく映えた。

 ああ、なんて、きれいな。

 僕の視線をわかってかわからずか、ふとこちらを見上げる天使やまぐち。笑顔を作るでもなく、ついと顔を逸らされた。

「女の子は視線に敏感って言うじゃない?」

「……まぁ」

 やっぱり感づかれていたのか、と思ったら。

「あれってね、数撃ちゃ当たる方式だよ」

「え、そう……なの?」

「見られてる気がする、を何回も繰り返してればそりゃ、何回かは当たるよ。で、見られてなかった、より、見られてた! のほうが覚えてるでしょ」

「なるほど」

 確かに、言われてみれば説得力のある仮説・・だ。

「面と向かって『胸を見られてる』、とかはまぁ、さすがにわかるけどね」

「……なるほど」

 見るな見るな見るな見るな。

 言われると見たくなるからやめてほしい。

「たとえばー……ちょっとこっち向いて」

 言われて山口のほうを向けば、彼女の顔もまた僕のほうを見ていた。見ている、けれど……視線が少し、下にある。

「……なるほど」

「わかるでしょ? 男が言うほどわかってないわけじゃないし、女が言うほどわかるわけじゃない……くらいが正解なんじゃないかなぁ」

 視線慣れしている、しすぎているからこその客観的な意見ってやつだろうか。

「で、結局のところ」

「気づいてたよ」

 ですよね。

 結局のところ、遠回りの回り道で、僕の下世話な視線に注意を促してくれていたってことだ。咎める意図はなくて、ただあまりよくないよと。

 でも、見ちゃうよな、これは。何度でも、いつまでも、見ていたい。

 けれどそれ以降僕は山口に目を向けることなく、無言のまま職員用玄関までたどり着いてしまった。昨日までと違い、靴を履き替えたら、僕も彼女と一緒に外へ出る。

 そのまま裏門に向かうものと思っていたら、彼女が向かったのは職員用の駐車場だった。枠外にちょこんと鎮座している、ベージュと白の可愛らしいスクーター。彼女はそれに乗って登下校しているらしい。

「十六になってすぐ免許取ってね。すぐ買っちゃった」

「……すごいなぁ」

 がぽっと、彼女はジェットヘルメットを被りシールドを下ろす。スモークの入ったそれを被ればなるほど、彼女が誰か、まるでわからなくなった。

「移動が便利」

 言いながら再びシールドを上げ、誇らしげに笑う。

「じゃ、帰ろっか」

「え?」

「え? 姫崎さんちでしょ? 方向、同じだよ」

「いや、だって」

「ああ、これ? 押して歩くよ。重くない重くない」

 ぐっぐっとスクーターを押し引きして重くないアピールの山口。かわいい。

 でもそういう問題じゃない。いくらメットをしていても、なんというかこう……外を歩くのはなんだか、致命的にまずい気がする。根拠はないけど、でも。

「いやなの?」

「いや! じゃ、ないけど」

「じゃあいこう」

 ああ、だめだ、こうなったらもう決定事項だ。勝手で強引で、そういうときの山口は、ものすごくかわいくて、魅力的なんだ。引っ張られて連れ回されて、振り回されて、それが心地良い。僕という人間の全部が把握されているような、絶妙な加減だ。

 あえて原付を挟んで反対側を歩く。そんな僕を見て、山口はどこか楽しそうだ。

「姫崎さん、元気?」

「うん。僕が学校行くって、驚いてた」

「ああ、それは、喜んだだろうねぇ」

 ああ、そりゃあもう喜んでくれた。あんな大物芸能人が、だめな息子に大騒ぎだ。

「収録ももう結構前に終わってるから、しばらく会ってないな。いい人だよね」

「まぁ、ね」

 僕は父さんが大好きだ。憧れている。尊敬している。

 だから、自慢したんだ。たくさん、たくさん。父さんも嬉しそうにしていた。

 だから誇らしくて、僕は、失敗した。

 自分のないまま、僕には、父さんしかなかった。

 いつの間にか、彼の話をするのが怖くなった。

 ――昨日の、山口の話を聞くまでは。

「僕の、自慢の父さん、なんだ」

「……へへ。そっか」

 嬉しそうな声色で、山口はブレーキレバーを小さくもてあそんだ。半分だけ下ろされたシールドのせいで、その瞳までは見えないけれど、笑っている。

 そんなとき。


「あれ、とこちゃんじゃーん」


 裏門を出ようとしたところで、声がかかった。

 僕らから見て右側、グラウンドに続くスロープから、女子生徒がひとり、登ってきたところだった。もちろん僕はその人は知らない。

「めずらしー。きてたんだ」

「あ、うん。ちょっとね」

 ぎこちない笑顔。さすがの山口も、想定外の出会いにちょっとばかり緊張しているようだった。

 親しげではあるけれど、やっぱり、僕の存在が気になっているんだろう。

「へー、原チャじゃん。いいなー。なんてーの?」

「リトルカブ。かわいいっしょ」

「かわいいかわいい。あたしも欲しいんだよなー」

 ジャージ姿の、明るい茶髪の女子生徒は、珍しい友達の登場に浮かれた様子だ。ちょっとだけギャルみを感じる……苦手だ。

「で……こっちは?」

 女の子の視線がこっちに向かうと、「う」と思わず身を引いてしまう。怪訝そうな瞳……苦手だ。

「よろ、しく」

 それでもなんとか絞り出した一言。

「よろー」

 小さくても、なんとか届いていたようだ。興味もなさそうに、けれど女の子は返事をしてくれた。

 ふ、と息をつく。

「友達。気弱な子だから、いじめないでよ」

「人聞き悪いなぁ。でもそか、友達、ねー」

 ノリの良い子なんだろう、きっと。明るくて、仲間内ではムードメーカー的な存在なのかも知れない。

 僕は今更ながらに気づいたんだ。僕と山口の今歩いている道が、薄い氷のようなものでできていることに。結構、奇跡のバランスで保たれていることに。

 僕は外が怖くて人が怖くて、山口は、休養中の今も日本の宝だ。本来なら手の届かない、あるいは見ることさえ叶わない場所にいる。

 二人だけだと気づかなかった。いや、本当は最初からわかりきっていたことなんだけど……楽しくて。

 彼女の視線が教えてくれたんだ。僕と山口の、差を。


「これと?」


 氷の割れるような、音がした。



「……はぁ」



 ため息、たった一つ。

 温度が下がった。




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