青春を追いかける。





「中庭でおべんと食べたい」




 数学の自習中、ノートにペンを走らせながら、山口が突然言い放った。

 僕は何も言わず、ノートにペンを走らせる音でそれに答えた。

 無視だ。

「おぉい、ないわ、それはないわー」

 触れるような肩パンを受けて、仕方なく彼女のほうを向く。美人がにらむと怖いって言うけどなるほど、事実だったみたいだ。ビクリと肩を震わせて縮こまる僕に、彼女は再び肩パンを放った。

「いや、だって」

「あーまったまった。聞きたくない」

「えぇ……」

 なんて勝手な。

 とはいえ、僕が言わんとすることくらい、彼女だってわかってるんだろう。

 騒ぎになる。授業の邪魔になる。

 怒られるかもしれないし、下手したらトイレ以外の外出を禁止されるかもしれない。山口が、氷室冷夏が校内に現れればみんな授業をほっぽってでも会いたいだろうし、何なら見るだけだっていい。そうして学校中が彼女に夢中になって、収集がつかなくなる。

 僕は確かに彼女に呼ばれて学校に来た。でも、自習をしにきたんだ。それから、会いに来た。

「……すねてるの?」

「や、ちが」

「んん~? みんなの冷夏ちゃんは、やぁなのかなぁ~?」

 ああ、くそ、この女……。

 図星だってんだからもう、本当にたちが悪い。

 例の・・笑い声で、山口は実に面白そうだ。

 何しろ彼女は自分の魅力に自覚的で、一緒にいられることの価値に自覚的で、からかうような冗談だって、半分くらいは本気であろうことがなんとなくわかってしまう。

 でもまぁ、そりゃあ、そうか。彼女の一挙手一投足をカメラが追いかける。人の視線が追いかける。彼女の一言一言で世間が、社会が、世界が動く。

 それを自覚せずに生きるほうが、むしろ難しい。

 それがどうしたことか、こんなところでこんな男と語らっている。それこそ冗談みたいだ。

「さて、ひとしきり楽しんだところで」

 うつむいているうちに満足したようで、うぅんとうめきながら背筋を伸ばす山口。横目で伺えば、ブレザーを慎ましく押し上げるアレ・・が。再びうつむいてしまう僕である。

「中庭いこっか」

「……嘘だろ」



 静まり返った特別教室棟を歩くことさえ恐る恐るだ。僕だけ。

 時折響く音楽室からの歌声に、ビクリと肩を震わせてしまう。僕だけ。

 笑い声なんて聞こえてきた日には、辺りを見渡して正体を探してしまう。僕だけ。

「堂々としすぎ……」

「バレたって構わんからねぇ。先生だってほら、止めなかったでしょ」

 出かける前に、一応備え付けの電話で確認を取った。勝手に出かけて騒ぎを起こせば、それこそ大問題だと思ったから。けれど驚くほどあっさりと許可は下り、まさに拍子抜けの気分ではあったのだ。出かける、前までは。

 出かけてみれば、やはり怖い。生徒の一人にでも見つかれば、そこからはもう連鎖反応だ。爆発的に騒ぎは広がって、あっという間に囲まれてしまう。ただでさえ人が怖いっていうのに、そんなことになれば……

 ブルブルと震えながらゆっくりと歩く僕の隣を、山口はのんびりとした調子で歩いていた。弁当を入れたスクールバッグを肩にかけ、その持ち手にゆるく手を添え、ふんふんと鼻歌交じりだ。

 頼むから静かにしてくれ、と抗議の意を込めて彼女を見れば、にこっと笑い返してくれる。

 違う、そうじゃない。

「肝が座ってるというか、なんというか」

「何万人の前に立ったこともあるからね! ま、ステージの上だけど」

「学校で囲まれたら、めんどくさい……んじゃない?」

「まーめんどくさいねー。そんなときは、これ」

 そうして黙り込むこと十数秒。

 彼女がしゃくりあげるように喉を鳴らした。

「ど、うして」

「え……」

 震える、絞るようなか細い声。

「静かに、休……っ……休みたい、だけ……なのに」

 つっかえながら必死の訴え。彼女は涙を流していた。

 喉が締め付けられるのを感じる。目の奥に熱がたまる。胸に重いものが落ちてきたみたいだ。

 わかってる。これは演技だ。こうしたら周りを囲む人たちも大人しくなるという、ただの対策だ。

 ……なのに、僕まで泣きそうになる。

 これが、これこそが氷室冷夏。見る者を引き込み、心を堕とす怪物。人形に貼り付けられた表情は、人間のそれよりも精巧に美しく、思いどおりを描き出すんだ。

 そしてまた数秒後、彼女は「はーっ」とため息をついてまたニッコリと笑う。

「ほら、おとなしくなった」

「……こわ」

「お、なんだー?」

 女の涙は怖い、っていうけど、これはまた別の話だろうか。

「どう、やるの、とか」

「こればっかりは体質と訓練としか言えないかなー。私はほら、演技をするために生まれてきた女、だからね」

「……なるほど」

「ツッコめよー」

 だって事実だ。ボケもないのにツッコミも何も無いだろう。

 そんなふうに会話を重ねて、気づけば職員用玄関だ。今日から山口の好意で、僕もこっちから出入りすることになった。スリッパから靴に履き替え、特別教室棟をぐるりと回って中庭へ。

 一般教室棟と特別教室棟の間にある、十五メートルほどの幅の空間が中庭だ。花壇があり、中央には噴水までついている。それを見守るように点々と設置されているベンチの、そのうち一つに僕らは腰掛けた。特別教室棟を背に、僕らは深々とため息をこぼした。

 静かな場所だ。音楽室からの音も、もうほとんど聞こえない。さらさらと落ちる噴水が、かえってその静けさを助長する。

「いやー、青春のかほり」

「なにそれ」

「私結構憧れてるんだよねー、青春」

「……へぇ」

 青春真っ盛り、みたいなドラマに出ていても、やっぱりそれは青春ではない、ということらしい。

 五歳からずっと芸能界。厳しい競争社会。まぁ、理解は、できる。

 何より、青春に憧れるというその気持ちそのものが、うん、実によくわかる。

「ほら、中庭で男の子とお弁当をつっつく。どう?」

「……確かに」

 中庭で女の子とお弁当をつっつく。まさに青春だ。

「おかずの交換とか、しちゃったりー。んん~」

 ぱかりと弁当のフタを開ければ、たまご鶏肉ブロッコリー、タンパク質の宝庫である。もちろんおいしそうに調理されているから、食事管理に興味のない人間からしたらごく普通の弁当なんだろうけど。

 ぱかりと弁当のフタを開ける僕。たまご鶏肉ブロッコリー、タンパク質の、宝庫である。

「……笑えるわ」

「うん。ごめん」

「いや、可能性はあると思ってた。昨日の時点ですでに」

 お互い食事管理に余念のない高校生である。

「おかず交換、しようぜっ」

「お、おう」

 無理矢理に上げるテンションが少しばかり物悲しい、青春の一ページであった。


「はー。くったー」

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまぁ」

 だらーんと足を伸ばし、背もたれに上半身を預けた山口は、実にご満悦の様子だ。

 弁当の中身こそアレではあったが、食事の時間はそれなりに楽しいものだった。食材こそ同じだけど、調理法の違いとか、味付けの違いとか、あるいはだからこそ、とも言えるかもしれない。

 中庭に置いてある自販機で買ったミルクティー。プルタブを引くと、カシュッと小気味の良い音が鳴る。

「勉強後は甘いものよねー」

 山口も同じものを飲み、背もたれから離れて僕を見た。口元はわずかに緩んで、食後のわずかな倦怠感を受け入れたような心地よさ。日差しは弱く、だから、眠くなる。

 ぐいっとミルクティーをあおると、甘みが脳に染み渡った。

「なんかもう、帰りたくなってきたなぁ」

「三日間、小テスト受けてない、けど?」

「……言うなよぉ。単位はバーチャル授業のほうでとろうかなぁ」

「まぁ、それもあり、かな」

 バーチャル授業なら、出席するだけで単位が取れる。テストはあるけど、実のところ、ネット環境だからカンニングし放題だ。大学のテストなんかはテキストの持ち込みが可能なものもあって、それと似たようなものだ、と先生が言ってたのを思い出す。

「心身の休養、でしょ?」

 彼女の休養の理由だ。ストレス溜めてまで、学校に通う必要はない。

 山口は何度か目をしばたかせて、「そだね」と笑った。

 弁当箱をしまいしまい、スクールバッグを傍らに置き、山口はおもむろに立ち上がる。噴水まで進み、中の水を覗き込み、今度は僕に手招きをした。僕はそれに従う。

 よくよく手入れのされた噴水の池は、不自然なほどにきれいな水であふれそうなほどだった。近くまで来ると時折水滴が飛んで顔にかかるけど、山口は避けようともせず、ただじっと、じ……っと、その中を覗き込んでいる。

「みてみて、コイン沈んでる」

「あ、ほんと」

 見れば確かに、十円だらけだけど、硬貨がいくつか沈んでいる。有名どころだとトレビの泉だろうか。願掛けのためだって言うけど、これもその一つなのかな。受験生だとか、あるいは恋愛の成就だとか、高校生が願うことなんて山ほどあるから。

 がさがさと音がするから見てみれば、いつの間にかベンチに戻った山口が、財布片手に噴水に戻るところだった。

「まさか」

「せっかくだから」

 十円玉を二枚、取り出す。一枚を僕に。

 なんだか素直に受け取ってしまったけど、よかったんだろうか。

「投げ入れるんだよ。落とすんじゃなくて」

「うん」

 せーの――

 山口の声に合わせて十円玉を噴水の真ん中に向かって投げた。噴水装置にかつんと当たって落ちた硬貨は、飛沫に白む水面に溶けて消える。

 ぼんやりとそれを眺めていた僕は、なんだか妙な充足感を覚えて笑みがこぼれた。


 あ、願い事……。

 忘れて落胆する僕の横で、

「私の勝ちぃ」

 噴水の反対側まで投げた山口が、なぜだか腹の立つドヤ顔で勝ち誇っていた。




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