山口透子は案外。




 氷室冷夏が隣に座っている。

 突然長期休養を発表した有名女優が、手を伸ばせば届く距離に。

 ケタケタ笑っている。


 いや、なんでだよ。





 新聞、テレビ、ネット、名だたる主要メディアがメインに据えた『氷室冷夏・突然の長期休養』のニュースは、瞬く間に日本中に広まった。

 事務所からの発表はといえば、「心身の休養、遅れた学業の挽回のため」と無難なものだった。高校生としてはまったく妥当な理由ではあるけれど、ネームバリューがそれを許さない。憶測に次ぐ憶測。尾ひれが尾ひれを生む事態。

 折りたたみ式のスマホスタンドを立て、スマホを乗っけた彼女が見ているのは、そんな大手メディアの配信チャンネル。まさに現在、氷室冷夏の休養理由についてコメンテーターが色々と語っていた。

『ええ、ただ学業というのは少し考えられませんよ。彼女の人気を鑑みれば、空白期間を作るのはあまりにもったいないでしょう。よほどの事情があると思います』

 無難なコメントだ。無難を超えて無味だ。気持ちはわかる……彼女に関し、下手なことを言えば燃える。

 言葉を選ぶコメンテーター。下世話な妄想を語るコメンテーター。まぁ色々いるけれど、その見解を聞くたびに、彼女は――とーこさんは、大きな声であっはっはと笑った。

 目尻に涙を浮かべ大笑いするとーこさんは、くしゃくしゃの顔で、それでも美しい。

 あ、まつ毛長い。

「あーおもしろ。笑うわー」

「……えぇ」

「あ、ドン引きしてる。おもろ」

 酔っ払ってんのかこの女。

 ……とは言えず。

 人差し指で涙を拭ったとーこさんは、動画を止めて顔だけでこちらを向いた。

「ぜーんぶ、不正解!」

「へえ」

「正解は、心身の休養及び遅れた学業の挽回、でしたぁ」

「えぇ」

 公式の発表通り。それ以上でも以下でもない。確かに、出演コメンテーター四人、全員が不正解だ。

 なおCM等の契約企業とか、関係各所との調整はすでに終わっていて、『恋ほら』の収録も実はもう終わっているらしい。父さんからは仕事の話をあまり聞かないから、知らなかった。

「父さんは、……知ってた?」

「うん。色々相談に乗ってもらったよ。その節はどうもお世話に」

「僕じゃ、ない」

 けれどやっぱり、父さんはこんな有名女優にも頼りにされるんだな。誇らしく、痛い。

「そういえば」

 せっかく楽しそうなんだ、水を差すこともないだろう。いたずらっぽく微笑むとーこさんは、今日は小悪魔モードらしい。

「なんて、呼んだら」

 なんとなく胸の中では『とーこさん』と呼んでいるけど、考えてみれば下の名前だ。初対面の男に呼ばせるようなものじゃない、気がする。

「なんでもいい、じゃ、困るんだよね」

「……ごめん」

「じゃあ、透子で」

「え」

「ジョーク」

 ぎくりと跳ねた胸を笑うかのようなとーこさん。歯が真っ白だ。

「普通に、山口でいいよ。さん付けかどうかは、まぁ、任せる」

「じゃあ、山口、で」

「……いいね」

 やっぱり、小悪魔だ。

 彼女とリアルで対面してからずっと感じている、瞳の奥の、探るような色。

 いいね、のたった一言に、すべて見透かされているような響きを感じた。さん・・を抜くという、僕にとって大きな一歩。少しだけ距離を詰めてみたいという、ほんの少しの勇気。

 よくがんばった、と、褒めてくれたような気がしたんだ。だから、少し怖かった。

「じゃあ、私は?」

「桜庭、かな……」

「直樹?」

「……でも、別に」

「じゃあ桜庭で」

 何なんだよマジで!

 こちらの感情を乱高下させて楽しんでいる。つい先日まで不登校で、精神的に不安定かも――なんて心配を、彼女はまったくしていないようだった。それなのにこっちもまったく不快感はなくて、むしろそれが心地よかったりもして――山口・・は、強い。

 ひとしきり笑った山口は、スタンドとスマホをいそいそとバッグにしまい込んだ。代わりにテキストを取り出し、今日の自習はドラマの場面転換みたいに唐突に始まった。

 今日は現国。彼女の得意分野らしい。

「ほらやっぱり女優だから。作品の文脈とか行間とか、読み込むんだよ。じゃなきゃ、演じられないからね」

 胸を張って誇らしげな様子だ。しかしなぜだろう、フラグにしか見えないんだ。


 結果はまぁ、推して知るべしってことで。

 少しずつ、二人きりの空間に慣れてくる。会話が少しずつ続くようになってくる。楽しい、と感じるようになってきた。学校に来ることさえできなかった僕が、たったの二日で。

 ちょろいと思われてるだろうか。実は大した事情もないんだろうと思われてるだろうか。

 もちろん、まだうまく言葉もでてこないし、どもるし、目を見て話すこともできないけれど。

 すごいのは山口なんだ。僕が一歩を踏み出すより早く、彼女にその手を引かれている。気づかないほど自然に、気づかないほど緩やかに、そして気づけばその手は離れているんだ。

 自習を終えた山口は、テーブルに置いたチョコレートを少しずつつまみながらスマホを触っている。整った髪がサラリと頬にかかると、なんともいえない色気がでてくる。

 ごまかすように僕も、自分のスマホに視線を移した。

 ニュースサイトを見れば、氷室冷夏の話題で溢れかえっている。まとめサイトも、動画サイトも、日本中が彼女のことでもちきりのようだ。

 使われる写真は、だいたい二枚か三枚だ。

 恋ほらの主役姿のもの。

 あるいは何か授賞式のドレス姿。

 自然体で過ごす私服姿。

 そのどれもが、無表情。氷室冷夏のトレードマーク。人形のように、無機質な美。

 知る人ぞ知る、というか、まあ大体の人が知ってはいるけれど、氷室冷夏という芸名は、実はデビューからそうだったわけじゃない。今にして思えば山口透子をもじったであろう、遠山ロコというのが五歳当時の彼女の芸名だ。

 たったの一年で彼女はそれを捨て、氷室冷夏となった。あえて、冷感を強調するような名前。

 何があったんだろう。彼女の行動は突飛で不思議で、見る者の目を耳を、惹きつける。

「実物はどう?」

 ニュースサイトの写真に見入っていると、ふと右隣から声。山口が僕を見て微笑んでいた。

「……どう?」

「ほら。かわいいとかきれいとか」

 ぱっと手を広げて、彼女は表情を消す。写真と同じ、ぞっとするほどにきれいな顔。

「すごい」

「なんだよー」

 拳を作って、触れるような肩パン・・・

 かわいいだとかきれいだとか、会って二日目の女子に言えるような男に見えているんだろうか。心の中でならいくらでも言ってやれるのに。

「桜庭はお母さん似?」

「……どっちにも似てない、気がする」

「そっかぁ」

 父さんは言わずと知れたイケオジ・・・・だし、そんな彼を射止めた母さんも相応の美人だ。実の息子がそう言えるくらいには、二人ともが美形のカテゴリに入っているはずだ。

 僕はどうだろう。よく見積もってフツメン・・・・がせいぜいだ。両親の顔のパーツの、少しばかり微妙なところだけを集めたような。

 不幸中の幸いといえば、両親ともにが実に子煩悩で、鷹が生んだトンビを心からかわいがってくれているのを感じられること。でも、だからこそ、嘆くことさえ許されない気はしていて――

 複雑、なんだ。

「……帰ろか」

「あ、うん」

 諸々の荷物をカバンにしまいながら、山口はつまらなさそうに立ち上がった。

 がっかりしたかな。父さんや母さんの話になると、どうしても卑屈になってしまう。でも、二人に対して僕が劣っているのは確かで、客観的に話せばどうしてもこう、ごにょごにょと。

 カバンを持って立ち上がり、メタクラから出ると僕らは揃って歩き出す。

 つまらなさそうな横顔は、やっぱりきれいだ。

 それでも彼女は僕が隣を歩くことを厭わないし、一人で帰ろうともしない。昨日だってそうだった。

 正門から出入りすると騒ぎになるだろうと、彼女は裏門――職員用の門から出入りしている。「特例ってやつよ」と見せたドヤ顔も、彼女がするとなんともサマになってた。ちょっとイラッとする辺りが本当に、もう。

 無言のまま職員玄関までを歩き、山口が靴を履き替えるのを見守って、僕はスリッパのまま立ち尽くす。外へ出ようとした背中は、でも、すっと流れるように逸らされた。

 無防備な所作。日陰に佇む彼女の顔は、僕のほうを見ていない。

「知ってる?」

「え」

「姫崎さん、本番前に五分くらい、身動きもせずにじーーーーって、スマホ見てるの」

「そ、なんだ」

 仕事の話を、あまりしない。

 だから僕は、俳優・姫崎真吾のことを、あまり知らない。だから――

「何を見てるのかって聞いたら、照れ臭そうに笑ってね、『ほら』って」

 姫崎真吾が見せる、父・桜庭和樹に、僕は、少しだけ驚いてしまうんだ。



「かわいい寝顔だね、直樹くん」



 僕は呻くことしかできなかった。

 山口透子は案外、温かな顔をするんだ。




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