鬼才・氷室冷夏←→山口透子
秘密を知られた。とーこさんが
二重の衝撃から立ち直るのに、実に二分の時間を要した。
だってそうだろう、あの、氷室冷夏だ。
でもそれなら辻褄は合うんだ。今まさに放送中のドラマ、両親も見ている『恋ほら』で、僕の父と彼女は共演している。何かの拍子に本名を知ることだって、もちろんあり得る話だ。
先生は来ない。基本的に、備え付けの電話で呼ぶまでは来ないことになっている。
つまりは二人きり。超有名女優にして超のつく美少女と、狭い教室で。
そんな衝撃に再び黙りこくる僕を、とーこさんは微笑みながら眺めている。
「っていうか、遠くない?」
「や、でも」
「誰も見てないよ? 誰もいないし。四階だし」
「や、ちがくて」
緊張してんだよわかれよ。
もしかして自分の持つ影響力っていうものをわかっていないんだろうか。あるいはわかってて?
ああ、わからない。
廊下側一番前の彼女。窓際一番前の僕。微妙な距離。 僕はとーこさんに呼ばれたんだから、遠すぎるのはどうかと思って、でも近すぎてもなんだか気まずい。だからここだったんだ。わかれよ。
距離にして約四メートル。彼女にしてみれば遠く、僕にしてみれば少しだけ近い。
「恋ほら、どうだった? 昨日、最新話」
「すご、かった」
あの日、途中で抜け出したドラマ。『恋はほら、今』。とーこさんに言われてから、ちょっとずつ見るようになった。
とーこさん、つまり氷室冷夏扮する主人公の少女が、転校先で出会う少年と不器用な恋をする、恋愛小説原作のドラマだ。人気原作に人気女優、約束された覇権ドラマ。実力派の集うドラマで、それでも氷室冷夏は圧倒的だ。
今こうして目の前で話していても信じられない。
ニンマリと笑うとーこさんは、とても朗らかな少女だ。けれど表情を直して真顔になると、途端にそこから”温度感”が消え失せる。
彼女のその美貌を一言で表すのなら、『均整』。
とにかく、バランスがいい。整っている。一つ一つのパーツの美しさもさることながら、それが配置された顔は、どこをどう動かしてもそれはもう、
奇跡のバランス。顔も、身体も、彼女を構成するあらゆる要素が、触れがたい調和をとって存在している。
それを自らの意思で、自在に操り感情表現をしている。誰も、勝てるはずがない。
一言で言えば、うん、すごかった。
「……雑ぅ」
ジト目も、きれい。
言ってる場合か。
「いつも、思う」
「うん? うん、うん」
語りだす僕のほうに、とーこさんは身を乗り出して興味津々だ。とはいえ、僕の言うことなんて月並みなものばかりだ。
「本当に、その
「うんうん。よく言われる」
「……人形みたいだ」
やっぱり、ドラマの外で見る彼女は、完璧に過ぎて冷ややかにすら思える。確かに微笑んでいるのに、しっかりと僕を見ている。面白がりながら、深く深く、探られている。
「よく、言われる」
いっそう深い笑み。いっそう深い笑み声。
――言うつもりはなかった。人間に向かって人形のようだなんて、あんまりにもデリカシーに欠けるから。けれど、覗き込むような彼女の瞳に、言葉を引きずり出されたみたいに、口をついて出た。
「……ごめん」
「何が?」
「いや、人形、なんて」
けれど彼女は何も気にしていないようだった。んん~と笑って、実に面白そうだ。
「言われ慣れてるとかじゃなくてね、本当に気に入ってるんだよ、”役者人形”。まさに私、この上ない褒め言葉だと思ってる」
「……そ、か」
「だからむしろ、謝らないでほしいかな。私は人形だから、何にでもなれるんだよ」
「なる、ほど?」
わかるようなわからないような。首を傾げる僕を笑い。とーこさんは「この話はおしまい」とでも言うように向き直り、傍らのスクールバッグからテキストを取り出した。
そりゃそうだ。ここは学校で、勉強をする場所だ。
このメタクラは、単位の習得も可能になっている。
あらかじめ科目を考えておいて、登校したら納得の行くまで自習に勤しむ。そうしたら電話一本、先生に科目を伝えると、認定のための小テストを持ってきてくれるのだ。合格点を取ることができれば、晴れて授業一時間を受けたことになる。
下校時間までなら何度でも受けられるので、学力に自信のある生徒なら一日で一科目の単位を取り切ることも可能……らしい。いくら小テストとはいえ、三十五はめんどくさいよね。
「ねえ」
「え?」
「勉強はできるほう?」
開始から五分。古文のテキストを読み込んでいる様子のとーこさんが、下を向いたまま僕を呼んだ。
「まぁ、まあまあ……かなぁ?」
何しろ僕といえば、まだ高校のテストを受けたことがない。ただ勉強はきちんとやっていたから、決してできないというわけではないはずだ。
そんな自己評価を、僕は曖昧な言葉でごまかした。
するとどうだろう、テキストとカバンを持ったとーこさんが立ち上がり、こちらに寄ってくるじゃないか。
「そう言う人はだいたいできる人」
言いながら、僕のとなりにストンと腰を下ろす。思わず腰が引ける僕。
「おしえて」
と、テキストを開いてとーこさん。
「ど、どこ?」
「さあ?」
えぇ……
しかして頼まれた以上はと今授業で進んでいるであろう範囲を絞り、テキストのページを直す。さぁこの辺りだろう始めようかというとき、問題が発覚した。
とーこさんは。氷室冷夏は。山口透子は。
バカだ。結構、どうしようもないほどに。
このビジュアルで。
バーチャル授業は、ログインした日はきちんと受けているように見えた。困っているようにも見えなかったけど、どうやら僕の勘違いだったらしい。何しろ『とーこさん』はアバターで、いくらヘッドセットで精巧に動くとはいっても、操作しなきゃ表情一つ変わらないんだ。
つまりそう、真面目に勉強しているように見えた彼女は、ただ考えることを放棄していただけだった、ということらしい。
「……じゃあ、もっと、……中学校の、範囲から」
「いいの?」
「まぁ」
ともあれ頼まれた以上、だ。
誰かに頼られることなんてなかった。調子に乗って自分が自分がと、自分が中心に在ろうとして、できなかった。自分のことばかりの人間がグループの中心に立つとすれば、それは卓越した何かを持っている人間だけだ。何も持たない僕は失敗して、だから誰にも期待されずに全部を諦めた。
そんな僕をここに連れてきた彼女を、僕は裏切ることができない。
「っし、じゃあ、よろしくね」
気合一つ。にかっと笑うとーこさんは、今度は青春系爽やか美少女の顔で僕を
あからさまな『演技』なのに、それを感じさせないものが、氷室冷夏にはある。
僕はすっかりその気になって、記憶の中の知識を引っ張り出すのだ。
結局、僕たちは小テストを一つも終えることなく、昼休みまでを迎えた。
考えてみれば当たり前のことだったんだ。
氷室冷夏、とーこさんは、五歳で芸能界に入って、飛ぶ鳥を落とす勢いを十年間保ち続けた『怪物』だ。ドラマ・CM・その他諸々。仕事に隙間がなく学校にも通えないほど。だからバーチャル授業への参加が認められた。
そもそも勉強なんてしてる暇がない。その必要すらない。
学校で一番成績の良い生徒が、彼女よりも立派だと言えるだろうか? 誰も頷かない。
勉強は生きていくための手段であって、それが別に確立されているなら、まったく問題はないのだ。
――じゃあ、なぜ?
頭をもたげた疑問は、胸を圧迫するように僕を支配した。
そりゃあ確かに、芸能界なんて明日どうなるかわからない不確かな世界かもしれない。いざというときのために選択肢を増やしたい、と言われれば、僕はそれで納得できてしまうだろう。
でも、彼女がそうだとは思えなかった。
彼女は役者人形。演じるために生まれてきたような、女優の中の女優。
他の選択肢なんて、いるか? いらないだろう。
僕の中に妙な確信があって、彼女にはなにか別の理由あって、そうして僕らはここにいる――そんな気がする。
スクールバッグからお弁当を取り出し、お上品にぱくついているとーこさん。盗み見る僕の視線に、彼女は当然気づいている。
「たべる?」
「いあ、大丈夫」
「ふぅん」
メニューは当然、栄養管理バッチリの良質な弁当。こんなところにも役者としての意識の高さがうかがえる。
栄養管理なら負けないけどね。
「……おいしそうだね」
「……たべる?」
「たべる」
母さんが父さんのために作ったメニューの、僕向きアレンジ。
彼女がとったサラダチキン一つとってもそうだ。オリーブオイルとハーブ、その他下味を一晩かけて染み込ませ、低温調理器で仕上げると、なんともぷりっぷりの美味しいサラダチキンが出来上がる。
「うまぁ」
ご満悦のとーこさんを見て、誇らしい気持ちになる。
――すごいのは母さんで、僕じゃない。
浮かれそうになる心をそっと沈め、僕はお弁当を手元に戻した。
目の前にいる一人の少女。
見るたび、氷室冷夏を感じさせる。話すたび、とーこさんを感じさせる。
そのどちらもが山口透子なのだから。
ゆらゆら、ふらふら、つかみどころがない。彼女をつかめない。
――それもまた、彼女の『演技』なのだろうか。
そんなことをふと思う。
ならばきっと、ここにいるのは……
『次のニュースです。女優・氷室冷夏が長期休養を発表しました。詳細については所属事務所から追って報せるとのことで――』
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