現実世界でお出迎え





 両親は驚くほどに平然と、僕のお願いを聞いてくれた。

 漫画とかだと、一歩前進した息子に感動、みたいになるけど、まあ。

 ……と思っていたら、僕がリビングを出た瞬間に抱き合って泣いていた。

 僕も、少し泣いた。



 保健室登校、っていうのは言葉の通りで、教室にいなくてもいいから学校へ来なさいね、と保健室へ通うことを言うらしい。特定の授業に出たりはするけど、基本的には保健室でゆっくりと過ごす。

 とにもかくにも学校には行く。そうすることで不登校を予防したり、あるいは教室復帰の足がかりにする、というのが主目的のようだった。ゴーグルさん(検索エンジン)がそう言っていた。

 しかしながら豊開高校に限らず、県下一斉バーチャル授業が実装されてから、保健室登校は激減している。

 なぜなら、不登校生専用の鍵付き教室が、どの学校にも設置されたからだ。

 その名も『メタネクスト教室』――メタネクストクラスルームから、略してメタクラ。

 だっっっさ、とは思ったけど、声には出していない。セーフ。

 というわけで、とーこさんは保健室登校と言ったものの、僕は、僕らはメタクラに通うことになった。普通・・な彼女が僕に付き合う必要はまったくなく、昼休みや放課後にでも顔を見せてくれれば――と、提案したが、彼女は頑として譲らなかった。

 そうして僕は、約半年ぶりの制服に袖を通していた。季節は秋、もうそろそろ冬服ということで、灰色のブレザーにチェックの入ったパンツ――まだ真新しいそれは、どうにも僕の身体に、心になじまない。言うならこれは、僕がこんなにも早く・・・・・・・折れてしまったという証明。

 心と身体がこわばる。両親の教えを思い出す。

 こういうときは、深呼吸だ。

 吸う。胸を動かさず、お腹を膨らませるように。

 吐く。胸を動かさず、お腹をへこませるように。

 繰り返すこと五回。ほんの少しだけ身体が緩むのを感じ、目の前に立つ姿見に視線を上げた。

 引きこもってはいたけど、不健康な生活を送ってはいない。憧れる、尊敬する父を真似て、食事管理と週三の筋トレは欠かしたことがない。部屋の隅にあるインクラインベンチと可変式ダンベルは、よく触る部分だけ色が褪せていて――僕の努力の証だ。

 折れてしまった心と、誇れる身体。アンバランスな僕は、だから、こんなにもフラフラとしている。


「とーこ、さん」


 久しぶりに仲良くなった女の子。挙動不審な僕を受け入れてくれた。「会ってみたい」と言ってくれた。

 そりゃあ、こんな僕だから、悪意の存在について考えなかったわけじゃない。会った瞬間スマホを構えていて、とか、友達を大勢連れてあざ笑うとか、今だって可能性はゼロじゃないとは思ってる。

 でも行くと決めた。

 演技にはうるさいんだ、僕は。彼女は何も演じていなかった。間違いない。

 ――そう、信じることにした。

 部屋の灯りをこんなに明るくしたのはいつぶりだろう。

 豆球みたいな光量で、僕はいつもPCに向かっていた。誇れる僕の身体と、心を映す僕の表情かおを、見たくなかった。

 姿見に映る僕の姿は、まぁ、想像通りにひどいもんだったけど。


「まぁ、会えないほどじゃ、ないか」


 髪型だってきちんとプロに頼んで直してもらった。無難な感じの、ベリーショートだ。僕がセットするとどうしてもな感じにはなってしまうけど。


「会えないほどじゃ、ない、よね?」


 鏡と向き合えば向き合うほど、自信がなくなっていく。

 ああ、いかん、だめだ。

 僕は部屋の隅のベッドに飛び込んだ。ぐぅ、と呻いて不安を紛らせようとするけど、当然ながら、そんなもので紛れるようなものじゃない。


「あー、あー」


 とーこさんから教えてもらった、ボイトレの基礎の基礎。腹式呼吸で長く吸い、長く吐く。吐くときには声も出してみたり。

 それからリップロール。上下合わせた唇を、息でぶるぶると震わせる。

 準備したいことが多すぎて、何を準備したらいいのかわからない。とりあえず簡単なところからといろいろやってみるけど、ああ、全然だめだ。

 何事においても、ブランクというのは忌むべきものだ。父さんがいつか言っていた。仕事において、一日の遅れを取り戻すのに三日、いや一週間はかかるのだと。

 僕は半年。じゃあ取り戻すのに一年半、二年かかったり、するんだろうか。


「ああ、くそ」


 あの日の僕を殴りたい。調子に乗るなと、その心根をへし折ってやりたい。

 そうしたらきっと……




 気づけば僕は眠っていて、気づけば日は昇っていた。

 遅刻、と一瞬焦ってガバっと起き上がったけれど、登校まではまだ二時間も余裕がある。朝の六時だ。

 制服には少しばかりシワが寄って、じんわりと温かく湿っている。一晩でずいぶんくたびれてしまったな、とため息がもれた。

 でも、ちょうどいい。これくらいが僕には。

 立ち上がり、自室を出た。




 玄関の上がり框で、心配そうに見守る両親に軽く手を上げて、僕は扉を開いた。

 眩しい。それから、風が冷たい。

 久しぶりの外は、ただそれだけの刺激が、恐ろしく巨大だ。

 背後から「大丈夫?」の声。「大丈夫」と返す声。

 うん。案外、大丈夫。

 広い庭を通り、立派な門扉を開き、そして閉じ、僕は通学路へと足を踏み出した。




 学校が近づくにつれ、生徒の数が少しずつ増えていく。

 見知った顔は今のところなし。まあ、最も、そんなのはほとんどいないけどね。

 きっと僕を誰も知らないし、僕も、誰かの顔を覚えるほど学校に通えていない。

 だから、大丈夫。

 何度も言い聞かせないと大丈夫だと思えない程度には、大丈夫。




 学校までたったの十分。

 たったそれだけ歩いただけで、軽く息が上がってしまった。身体は鍛えていたけれど、やっぱり、こういう体力とは違うんだな。

 あるいは心の疲労? まだ何もしていないのに?

 いやいや、それくらいのことは覚悟してたじゃないか。だってそうだ、外に出ようとして出られないヤツだって多いって聞く。

 僕は前に進んだんだ。それでいいじゃないか。

 だからあと少し。あと少し頑張って、メタクラにさっさと入ってしまおう。

 周囲の視線が、気になる。チラチラと見回す僕を、誰も見ていないのに。




 職員室に寄る必要すらないらしく、僕は校門から真正面の一般教室棟をまっすぐ抜け、渡り廊下を通り奥の特別教室棟へ入った。朝方には誰も立ち入ることのないこの校舎の、最上階の東端が僕の目指すメタクラだ。

 他の引き戸とは違う鉄製の開き戸。横の壁に番号を入力する端末が設置してある。

 ポケットに突っ込んだスマホを取り出し、ログインIDだけを確認、八桁の番号を入力すると、扉から「かちり」と音が鳴った。

 僕は高鳴る鼓動を左手で押さえつけ、ため息を一つ、ドアノブにその手を伸ばした。

 少しばかり重い扉はそれでも意外なほどにあっさりと開き、中からは少し落ち着いた色の明かりが漏れ出てきた。

 廊下と教室の境界線上で中の様子を伺うと、普通の教室の半分ほどの広さの部屋に、長机がいくらか並んで設置されているのが見えた。誰も見えない。

 一歩だけ、前に。

 廊下側の一番前、女子生徒の後ろ姿が見えた。

 毛先の揃った、恐ろしいほどまっすぐに美しいショートボブ。

 そして後ろ姿だけでわかる、超然とも言えるほどに均整の取れた身体。机の下にしまわれた脚が長いことまでわかるほど、彼女のすべては、想像通りに想像以上、だ。

 つ、と見惚れるような滑らかな動作で、彼女は上半身だけで振り返る。


 時が止まる。

 音が消える。

 あるいは物理的な衝撃が心臓を叩くほどに。


「な、」


 なんでここに、と、僕は声に出したつもりだったのに。

 彼女はゆっくり、表情を変えた。唇をほんの少し、ほんの少しだけ歪めただけの。

 凄絶なまでにきれいな笑顔。


「おはよう」


 その音を、僕は知っている。

 淀みなくよく通る。透明感、清涼感――そういう言葉のふさわしい、聞き取りやすい声。


「と、こ、さん」

「うん。よろしくね、ひめざくら、くん」


 挙動不審な僕を受け入れてくれる、懐の大きな普通・・の女の子。

 いいや、何を言っているんだ僕は。何を言っていたんだ、僕は。

 普通? 普通なワケがない。

 普通じゃない。これは、特別スペシャルっていうんだ。


 僕は彼女を知っている。

 いいや、この日本に知らない人間がいるだろうか。


 五歳にしてゴールデンタイムでドラマデビュー。たった数分の出番で『天才子役』としてテレビの話題を独占した異才。

 成長の読めない子役は生き残るのが難しい、っていうのは一般人のイメージだろうか。それでも彼女は、今日この日に至るまで、その人気を落としたことは一度もない。

 まさに異才。まさに鬼才。特別・・の集まりである芸能界においてもなお、異彩を放つのが、目の前に座る彼女――


 ――氷室冷夏。


「なるほどね」

「え?」


 そんな彼女の顔が、いたずらに歪む。


「おそろい、だったんだね」

「え、は?」


 何言ってんだこいつ、と、立場も忘れてツッコミを入れそうになるのをなんとかこらえる。


「芸名と本名のハイブリッド。違う?」


 二度目の衝撃。

 だってそれは、誰も知らない僕の誇りひみつ

 姫崎。桜庭。合わせて縮めて、ひめざくら。

 尊敬する父の芸名と本名の、ハイブリッドだ。


「私は山口透子。よろしくね、さくらばくん?」



 僕は、膝から崩れ落ちた。





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