バーチャル授業で知り合った女の子が超のつく有名女優だった上、狭い教室で二人きり。
楠くすり
メタバースでお出迎え
僕が途中で抜け出したリビングで、両親は今もドラマに見入っているだろうか。
自宅二階の薄暗い自室で、こうこうと光るPCの画面に照らされた僕は、自分の輪郭すら捉えられない。
見ていたドラマの特設サイトを表示していたブラウザを閉じ、別のソフトを立ち上げる。簡易なランチャーのテキストボックスにログインIDとパスワードを入力して、いつも通りの画面を開く。
そこは3Dで描画された、学校の正門だ。
愛知県で実施されている、(基本的には)不登校生向けのバーチャル授業。いわゆるメタバースというもので、自分のアバターとハンドルネームで参加が可能な、学習と単位修得の仮想空間だ。
僕のアバターは、何の変哲もない黒髪の少年。アニメ調ながらもこれといって特徴のない、ゲームのキャラメイクで言うなら「プリセット」みたいなヤツで――僕に、ぴったりだと思った。
愛知県内の高校全てが参加している、とはいっても、不登校になるような連中がこぞってそれを利用するはずもない。数千人はいるであろう不登校生のうち、ここに通っているのはわずかに二百人程度だそうだ。
そんな、いうなれば"不適合者"たちの集まりでも、アバターにはそれぞれ個性が見られる。別に人間型ばっかりじゃなくて、動物のマスコットのようなものまで用意されていたりして……
プリセットくんは、片手で数えるほどもいない。ゲームだってそうだ。プリセットそのままでプレイしてるヤツなんて、見たこともない。
一緒に登校するような仲間のいない僕は、流れに混じるように『W』キーを押して前に進んだ。
メタバースというからには
アバターの動きも精細で、ヘッドセットの動きに合わせて頭が動くから、VRで参加しているヤツらは見ればすぐわかる。
見慣れない、何の変哲もない黒髪の少女。プリセットさん。
きょろきょろと辺りを見渡しながら、正門から昇降口までの道のりを……僕の前を歩いている。
トラッキングはどういう形式なんだろう。手や腕の動きが、なんだか妙にリアルだ。
物珍しさとその妙な
そうしてプリセットさんの後ろを歩いて、昇降口に差し掛かろうというとき、彼女はひらりと振り向いた。
びたり、と僕の中の時間が止まる。
「おはよう」
耳につけたカナル型のイヤホンから、涼やかな音が脳に溶け入った。
画面の中のプリセットさんは表情を変えないままに立ち尽くし、そして僕もまた同じように彼女を見る。
頭の中が真っ白になって、それでも何かを返さなくては――と、キーボード奥に立てたマイクに向けて発された音は、
「お、うん」
無意味なものだった。
何を言ってるんだ、僕は。
焦るばかりで言葉の出ない僕に、しかし彼女は焦れたりはしなかった。
「ひめざくら、さん」
呼ばれた名前が僕のものであることに気づいたのは、その声が頭に入っておよそ五秒後。
「うん」
「かわいい名前だね」
「あ、うん。ども」
たどたどしい言葉に、プリセットさんの表情が変わる。
エモート機能『笑顔』だ。
「私は『れーとー子』。れーこって呼んでね」
「あ、うん……」
知ってる。
頭上に浮かぶ
そして僕の頭上にももちろん、『ひめざくら』という文字が浮かんでいる。
……それにしても、変な名前だ。
「あ、そだ。職員室って、どっち?」
「あ、……えっと、昇降口、入って、左。二つ目」
「そ。ありがとね」
再びの『笑顔』。
プリセットさんの笑顔は、思っていたよりずいぶんと可愛らしい。悪くないな、と思う。
器用に手足を動かして、れーこさんは昇降口に吸い込まれていった。
ちなみに、だが。
リアルな校舎が再現されてはいるけれど、数千人規模を想定すれば、一部の学生は動かせないほどのマシンスペックが必要になってしまう。かといってチープなグラフィックでは、『リアルな学生生活』という体験が損なわれる。
というわけで、一般教室は各階一つずつで、そこにログインIDを入力することで自分の教室に入ることができる。学校全体と教室は別のサーバーで、負荷を軽くしているらしい。人の多い日はそこそこの列ができてしまうけれど、まあ、大した手間でもない。
そうして入った教室には、すでに数人の学生が思い思いに過ごしていた。
本物の学校じゃあ、いくつものグループが賑やかに話していた……気がするけれど、この学校じゃそうもならない。せいぜい二人、多くて三人、小さな声で遠慮がちだ。
一人で過ごす人間のほうが多数派。安心する。
僕の席は窓際の一番後ろ。リアルじゃ人気の高いこの席も、ゲーム画面のようなこの場所じゃ、他の席と大差ない。ふと脳裏に浮かぶプリセットさん。窓から見えるごくごく平凡な町の風景もVRユーザーならまた違って見えるのかな。
もうずいぶん、家の外に出ていない。コンビニさえも行っていない。
人との会話の仕方。人の顔。声の出し方すら。
いくら両親と話すとは言ったって、他人との関わり方を思っていたよりずっと多く、忘れていた。
ここに来てからずいぶん苦労した。異性との関わりなんてなおさらで、ああまさに、さっきの通りだ。
羞恥心に熱くなる顔を冷ますように、画面の外、本物の自分がため息をこぼす。
基本的に、普通の学校と変わりない。
先生が入ってきて、各自席に付けば
壮年の、スーツ姿の男性――の、アバターを使った先生は、まさに見た目通りの声をしている。ここに通い始めて二ヶ月ほど。最初は少しばかり厳つい声にビビったりもしたけど、もう慣れた。優しい先生なんだ。
さてさて今朝の連絡事項はといえば、見慣れない女子生徒が隣に立っていることから、新入りの紹介ということらしい。
「
プリセットさんことれーこさん。実に早い再会である。
学校の性質上、同じクラスには同じ地域・同じ地区の学生が集められる。彼女の入った高校名を聞いて今更ながらに実感した――何しろ、僕と同じ学校なのだから。
そんなわけで、僕とれーこさんは、隣の席に配置されることになった。
学校の性質……要するに学校に行けない子どもたちの教育のためで、次のステップに進むための場所である。次のステップとはつまり、
らしい、が、れーこさんに限って言えば、そんな心配はまるで無用であるように思えた。
どもりまくりの黙りまくりの僕に対して、彼女は常におおらかだ。
「同じ高校なんだ。今年はあんまり行けてないから、忘れられてるかも」
「あ、そ、なんだ。ぼ、僕も、もう……」
「そっか。そうだよね、そういうとこだもんね。私はね、いわゆる家庭の事情というやつでー」
なによりも、きれいな声だった。
淀みなく、よく通る。清涼感、透明感、そういう言葉のふさわしい、聞き取りやすい声だ。
……僕だから、というと、少し誤解を招くけど……僕だからわかる。
これは、演技をやっている人間の発声だ。いや、今まさに演技をしている、という意味でなく、部活なのか劇団なのか、とにかくそういうことをやっている人間の。
「……聞かないの?」
でも、聞かなかった。あえて。
「こ、この学校で、そういうの、……いないと思う」
そうだ。この学校で、個々人の事情に首を突っ込んだり、深く踏み込もうとする人間はいない。その痛みをみんなが知ってる。
臆病だし、こんなのは傷の舐めあいだ。でも、仕方ない。
「そっか」
ちょっとの笑み声。嬉しそう、でもないし、楽しそう、でもないし、ただ、笑った感じの。
「……私はちょっと、気になってるけどね」
「え」
「……なんてね」
んん~、と、口ごもるようなちょっと変わった笑い声。楽しそうだ。
女の子と話すなんて、いつぶりだろう。ここに来てから、そりゃあ挨拶くらいは交わしたけど、こんなに会話が続くなんてもう、奇跡的だ。
一度どもったりかんだり、失敗すると、次がない。みんな理解があって、ありすぎて、立ち去った人間を追ったりしない。そうやって、みんな適度に距離を保って生活してるんだ。
こんなふうに踏み込んでくるやつは、いない。特に異性ならなおさら。
「ひめざくら、って、そういうお花があるの?」
「……さくらひめ、って、いうのが。でも、それだと」
「女の子みたいだねぇ」
んん、とまた笑う。
ちなみに、嘘だ。さくらひめは本当にあるかもしれないけど、由来が。
「れーとー子、は?」
「私はー……うん、ひみつ」
「……そ」
ほら、言わないじゃないか。
なら僕が嘘を教えたって問題ない。……問題ないよね?
ちなみにひめざくらも十分女の子っぽい、というのは自覚している。お気に入りなんだ。どんなゲームでも、どんなサイトでも、だいたいこのニックネームを使ってる。
僕の、大好きな名前、なんだ。
「……とーこ、でも、いいよ」
「え?」
「うん、どっちでも、いいから」
「え、う、うん……わか、った」
「あ、あはは」
嘘笑いがわかりやすい子だ。演技畑の子だろうに。
ごまかすような笑いを最後に、れーこだかとーこさんは、黒板の方に向き直ってしまった。
その日から、僕たちは少しずつ、少しずつ、仲良くなった。
――おそばうまぁ
――昨日の『恋ほら』見た?
――やっぱりお風呂上がりは”夕立”に限るね
――ね、ボイトレ教えたげよっか
――ディスコやってる? やろうよー
その度僕は、少しずつ少しずつ、彼女を知っていく。
危うく恋しちゃいそうになるくらい、
あるいはこれくらい
わからないけれど、とにかく、悪い気分じゃなかった。
彼女の事情がなんなのかわからないけど、毎日ここに来られる様子でもなかった。だからこうして普通に会話できるまでに一ヶ月くらいはかかってしまったけど……彼女は結局、僕の挙動不審を一度たりとも咎めるようなこともしなかった。彼女は、普通なのに。
「なんで、かな?」
こんなこと、聞くもんじゃない。わかってはいるけど、つい口からこぼれてしまった。
こぼれてしまったものはもう取り戻せなくて、僕はマウスから手を離した。その震えを、僕の視線が伝えてしまわないように。
「……じゃあ」
しかしとーこさんはそれに答えず、代わりに手を差し伸べた。
お誘い、だった。
「保健室登校、っていうの? ……してみない?」
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