僕は変わりたい。
翌日、木曜日。
少しだけ緊張しながら家を出た。
有言実行の人・山口は、「明日話をしよう」と言った僕の言葉を信じ、
あの子はきっと、僕を恨んでいる。事実として劣っている僕を、劣っていると指摘した。それだけで、大事な友達に散々に怒られたんだから。
考えるだに気が滅入る。
けど、きっと行くしかないんだろう。山口が「やる」と言った以上、やらないという選択肢は用意されていないんだ。だから彼女は女優で、だから最前線を走り続けていられた。ここで僕が逃げれば、もう、この関係も終わってしまう気がして――
だから選択肢はない。ふっ、と勢いよく息をつき、僕は門扉を押し開けた。
「大丈夫大丈夫、そんな深刻なものじゃないよ。お互いごめんなさいして、水に流そうの会だよ」
「……そんなにうまくいくかなぁ」
山口は自分の価値に自覚的だから、その友達でいられるためにどこまでできるかもたぶん、わかっている。そしておそらくあの子も、それで友達が続けられるなら「ごめんなさいする」だろう。
でもそれって、「うまくいった」んだろうか。そんな歪な関係、山口がいないと成立しない。全然水に流れていないんだ。
もともと関わりなんてないし、少なくとも僕とあの子の間にわだかまりがあったところで……。
ああ、そうか。そうだよな。そう考えればしっくりくる。
もともと関わりなんてないんだから、これからだって、関わらなくていい。山口が間にいるときだけで。
これは僕じゃなく、二人のための話し合いだ。つまり、内心で僕を許すか許さないかなんて、関係がないんだ。
じゃあ、そうだ。きっと、うまくいく。
「……何考えてるかしらないけど、たぶん勘違いだよ」
「えっ」
「そういう深刻な顔してるとき、だいたい見当外れしてるもん」
「……なんのことだか」
父さんに対するコンプレックス。山口との差。
僕が沈み込むたびに救い出してくれた彼女にとっては、僕の悩みそのものが、見当外れなんだ。
そう思うとなんだか、苦笑いが漏れる。
「私と桜庭は友達でしょ? それ以上でも以下でもないよ」
「それは、でも」
「まぁ、社会的に見たらどうか、っていうのはあるよ。それは否定しない。けど」
がっ――と、勢いよく僕の頬を両手で挟み込み、山口は強引に自分の顔に向けた。身を乗り出してきて、額のぶつかるような距離でそれを見ると、その瞳に、強制的に魅入られる。黒黒としたガラス細工に、小さな星が清輝している――宇宙のような、底なしの。
「私にとっての桜庭の評価は、私が決める。それは誰にも否定させない」
勝手で、強引で、ああそうだ、だからこそ、それを否定することなんて誰にもできない。
「それを否定するなら、私は桜庭だって許さない」
僕自身さえ。
ああ……何度も、何度でも、山口は強引に僕を救い出すんだ。簡単に沈み込んでしまう僕を、あるいはだからこそ簡単に。
彼女という
「ドンと構えてなよ。たぶんそれが一番の近道だよ」
「そう、言われてもなぁ」
ぱっと頬を離し、椅子に座り直した山口は、頬杖をついて僕を見、そして笑う。
「今くらいで十分。なんかあの子にビビってるけど、桜庭、普段誰とお話してると思ってるの?」
「……確かに」
天下の大女優・氷室冷夏と、スクールカースト上位・りぃさん。
どちらのほうがより緊張しますか? 決まってるよなぁ。
とはいえだからこそ、氷室冷夏には余裕がある。こちらの不器量を、受け入れるだけの器量がある。理由はさておき、前提が違う以上は――
「向こうも反省してるよ。だから大丈夫」
「……わかった」
ああ、でも、それ以上は考える必要もないか。
だってこれ以上は、山口が許してくれない。
メタクラは、外部の人間を勝手に招き入れるのを固く禁じている。さまざまな問題を抱えた人間が、ある日突然登校してくる可能性がある以上、問題のない『普通の人』そのものがリスクになりかねない。山口は特例中の特例であり、実のところ彼女に関しては誓約書のようなものまで書かされたらしい。つまり、
だから僕らは、特別教室棟、屋上前の踊り場を待ち合わせ場所にした。ここなら人も来ないし、そこそこの声を出しても問題になるようなこともない。
昼休み、昼食を終えて残り二十分。先に待っていた僕らの前に、恐る恐ると階段を登ってきた『りぃ』さんが現れた。
「こんー」
めっちゃ軽い。
とはいえ昨日のことを気にしてない、というのはないだろう。山口の友達、なのに、彼女のほうをあまり見ようとしない。かといって僕のほうを見るでもなく、二人の間で視線をふらふらとさまよわせているのが見て取れる。
「来てくれたね、りぃ」
笑って、山口はその肩を叩いた。
「……うん。めっちゃ怖かった」
「怖がらせたからね。ごめんね」
まったく悪びれず笑顔のまま、それでも山口はあっさりと自らの非を認め謝った。
少しだけ鼻をすすって、りぃさんは「うん」と頷いた。
「じゃあ、あたしの番」
そう言って今度は僕のほうへ向き直る。少しだけ身構えてしまう。
「えっと……」
言いづらそうに、下ろした手の指先をもじもじと絡ませながら、やがて深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! あたしは! あた、しは」
何かを言おうとする彼女を、僕は、止めようとは思わなかった。
たぶん以前の僕だったら止めただろうな。「もういいよ」なんて、調子のいいことを言って。
やがて頭を上げた彼女は、僕のほうをまっすぐに見据えて、口を開いた。
「あたしは、自分を特別だと思ってた」
ひゅ、と、自分の喉が鳴るのを感じた。
心臓が引き絞られるような感覚。
「あの、氷室冷夏と、対等に話してる。あだ名で呼び合って、楽しく笑って、一緒に遊んで……」
誰もが陥る勘違い。僕も今、そうならないよう必死に自制している。
それは、そう、前例があったからだ。
「でもあの日、……昨日か」
ちょっととぼけたように、おどけたように訂正する彼女は、まだ強い。あの日の僕より、ずっと。
「昨日、二人を見つけた。とこちゃん、すっごい楽しそうだった。イキイキしてた」
「そうかなぁ」
「そうだよ。てか、口挟まないでよ」
「あはは」
それは僕もわからなかった。山口はこれが普通だと思ってた。
少し浮かれてしまう頭を、また下げる。
「それ見て、わかった……わかったというか、思い出した。あたし、全然、特別なんかじゃないんだ」
また心臓が跳ねる。ぎゅうぎゅうと、細かく強く、呼吸までもを細めていく。
「特別なのは氷室冷夏で、とこちゃんで、あたしじゃない。そんなわかりきったことを思い知らされて、それなのに、それどころか、とこちゃんの特別ですらなかったんだ――思ったら、カッとなっちゃって」
ああ――
彼女は、僕だ。
似てる。同じだ。
でも違う。彼女は強い。
怒られて、反省して、謝って。自らの弱さを、バカにした本人にまで吐き出して見せる。あの日の僕にはできなかったことだ。
「だから、ごめんなさい」
ああ、何か、言わなきゃ。
でも、眩しいんだ。
僕と同じで、でも僕より強くて、それを乗り越えてしまった彼女が。
どうしていいかわからなくなって、ちらりと横目で、山口を見ると――笑っていた。
優しく温かい目で、僕を……僕らを見ていた。
ああ、そうだ、何か言わなきゃ。
「僕は」
「……うん」
「僕の親は、
「うん」
「家でも学校でも、親のことばかり話して、自慢して、誇って……何の努力も、して、こなかった」
「うん」
「そんなどうしようもないまま、気づけば高校生で……やっと、気づいた」
ああ止まらない。
「僕には何もない。僕が何もない。誇りも自慢も、何も」
一つ一つ、丁寧に相槌を打ってくれるりぃさんに、僕はどうしてか、自然に言葉を紡ぐことができた。溢れ出てくるようだ。
「それで、いろいろあって、殻に閉じこもって」
「うん」
「だから、君は、強いと思う……すごく」
伝わっただろうか。許すとか許さないとかじゃない。僕は彼女を、尊敬してしまったんだ。
あー、とか、うー、とか、彼女は何度か唸ったあと、手でぱたぱたと顔をあおいで、ぎこちなく笑った。
「なんか、ありがとね」
「いや、そんな」
そうして僕らは、みっともなくも、やっと笑い合うことができた。
初対面でなんだか恥ずかしいことを言い合ってしまったなと、今更ながらにうつむきながら。
「……あぁ」
僕はその日、夜食をとる父さんの前に立った。
目を瞬かせる彼に、僕は――
「父さん、僕、変わりたいんだ」
――そして父さんは、鷹揚に笑った。
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