雨の日、僕は知る。
今日の天気予報は晴れで、降水確率は二十パーセント。
僕は引きこもりを脱した。そうしたらなんだか無性にスコールが飲みたくなって、買いに出かけたんだ。
あの乳酸菌の白濁がしゅわしゅわと喉を駆ける感覚に、僕は柄にもなく高揚感を抱えながら外を歩いていた。学校へ向かう道を、学校とは逆方向に歩いて五分。住宅街を外れて林を横目に、ぽつんと建った一軒家を通り過ぎ、それが小さくなった頃に見えてくるファミリーマート。学校側のコンビニより、ほんの少しだけ近いんだ。
そんな具合に、僕はスコールだけを買って、ちびちびと飲みながら帰路についていた。
今日の天気予報は晴れで、降水確率は二十パーセント。だったのに。
「コンビニ戻る……より、帰ったほうが早いか」
雨脚はそこそこ。走ればスマホの故障とまではいかないだろう。と、思っていたのに。
林の横、ぽつんと建った一軒家。広い庭に、こじんまりとした家屋がアンバランスで、それがかえって趣を感じさせる。庭は実にさっぱりとしたもので、石造りの道の周り、芝生が整然と映えているくらいだ。植木も花壇も、それ以外の装飾もない。
僕はその小さな車庫らしき建物の、シャッター前のちょっとしたスペースを借りた。家主に許可をとも思ったけど緊急事態だ、もし会うことがあれば謝ろう。
そんなことを思っていると、ガラガラとシャッターが開くじゃないか。ぎくりと体を震わせ振り返ると。
「風邪引くよ?」
「……山口?」
「うん。山口」
どうやら僕がここに入っていくのを窓から見ていたらしい。私服姿の山口を初めて見た。私服、というより部屋着なのかな? ダボッとしたシンプルなピンクのセーターに、白のワイドパンツ。気合の入ってる、とはお世辞にも言えない、けど、かわいい。
「お風呂、はいろ?」
「え、は?」
「上がっていきなよ」
「でも」
「親御さんならいないから」
なおさらまずいんじゃ、と思ったところで、ぶるりと背筋が震え、盛大なくしゃみだ。ああ、言い訳一つも許してくれない僕の身体が憎い。
「……おじゃまします」
「へいらっしゃい」
こじんまりとして見えた家屋は、表から見るよりずっと奥行きがあって、広かった。まだ建って間もないようなきれいな室内は、どこを見てもシミ一つ見当たらない。
なにより、物が少ないというのが印象的だった。
「さっきお風呂のスイッチ入れたから、先にシャワーだけ浴びちゃって。着替え、用意しとくから」
「……着替え?」
「ああ、私のじゃ小さいでしょ。ハウスキーパーの人が大きいから、そっちを」
「ハウスキーパー?」
まてまてまて、情報量に脳が追いつかない。
「お父さん? お父さんもお母さんも東京だけど?」
マジで、追いつかないんだが。
「ここ私の家。私が買ったの」
ああ、そうか、これが、考えるだけ無駄というやつ――
「お風呂そこだから。ゆっくりあったまってね」
「うん。ありがとう」
そうして僕は、思考を止めてお風呂に入った。
広い洗面所。ドラム式洗濯機。おしゃれな洗面台。全身が見られる姿見。体組成計。
なんだか、山口の私生活が見えて、鼓動を早める。
「……高そうなヤツ、ばっかだな」
浴室を見ればシャンプーとかなんとか、いろいろあるけど、ボトルからもう高級感が漂ってる。
……というか、うちで見たことあるなこれ。
ああ、そりゃあ、そうか。そうだよな、うちには芸能人がいて、その元専属ヘアメイクがいて、今でもヘアケアだのスキンケアだの、気をつけてるんだ。
まさか山口の家に来て、そんな当たり前のことに気づくなんて。僕はまだ、周りのことを何も見えていない、子供なんだな――
そして同時に気づく。
僕と山口は、同じシャンプーを使ってる、のか。
あのときもあのときも、彼女の髪からふわりと香る、さりげなくて柔らかなあの香り。あんなにも落ち着くのに、あんなにも胸に迫る。
それは、そうだ。それは両立する。家のものを、彼女が――だから。
「あー……やばい」
頬が熱い。まだお湯も張り終えていないのに、のぼせてしまいそうだ。
「お風呂、ありがとう」
「いえいえ。シャツ、きつくない?」
「ううん、ぴったり。ハウスキーパーの……人は、大丈夫?」
「ちゃんと許可とったよぉ」
「いるの?」
「住み込みで働いてくれてるの。安心してね、女の人だから」
「いや、それは、別に」
「気にしない?」
「……する」
「んん~」
案内されたリビングで、温かい紅茶を片手に、僕らは隣り合って座っていた。柔らかな白いソファには濃淡の違うピンクのクッションが二つ並んでいて、山口はその一つを胸元に抱きながら、実に楽しそうだ。
「おいしい?」
「うん。なんか、高そう」
「変な感想。ま、そこそこだけどね」
ほら、やっぱり。
ハイブランドのファッションだとか、そういうイメージは、山口にはあまりない。そりゃあもちろんそれなりのものはそろえてるんだろうけど、せいぜいが女子高生のバイトで手が届くようなもので。
十六歳で家を買うような常識外れの金銭感覚なのに、身の回りは
「でも、未成年でも家って、買えるんだ」
「親権者の同意っていうのが必要だけどね。法定代理人っていうのでもいいらしいけど、私は私の名前がよくってー」
「なんかこう、住む世界が違うなぁ」
「えー。たぶんでも、これっきりだよ」
普通、家を買うって大冒険だよ。人生の一大事だ。
「ローンは?」
「一回で払っちゃった。めんどくさいもん」
「……えぇ」
こういうの気にしちゃだめなんだろうけど、彼女の総資産はいくらほど、なんだろう。
ああ、だめだ。聞いたところでなおさら落ち込むだけだ。住む世界が違うなんて、最初からわかりきってることじゃないか。
さぁ……っと、吹いた風が、窓を雨で叩いた。強くなってきたみたいだ。
「よかったね、うち、入って」
「うん。危なかった」
「ハウスキーパーの『
「……へぇ」
からかうような調子。反応したら負けだと思うけど、やっぱりどうしたって、嬉しいものは嬉しいのだから困りものだ。
ぎゅう、とクッションを強く抱きしめた山口。たわんでいるのがクッションなのか、山口の身体なのか、混ざり合うような光景を、僕は紅茶の香りでごまかした。
もともと距離の近い山口だけど、なんか今日は、無防備だな。
「そういえば、メイクもちょっと、薄いね」
「お、気づくね。今日は出る予定もなかったし、最低限しかしてないよ」
「こっちもこっちで……いいなぁ」
「どしたどした、ぐいぐいくるなぁ」
あ、と口に出して気づく。思いの外近い距離で、マジマジと彼女の顔を見ていた。
シミも傷も荒れもない、白く柔らかな肌。いつもより薄いけど、それでもすぅと筋の通った眉。探るような、濡れるような輝きをたたえた、底の知れない瞳。鼻は主張しすぎず、けれど確実に彼女に立体感を与えている。唇は緩く弧を描き、薄いピンクはとろりと溶けるように柔らかく見える。
怖いくらいだ。恥ずかしいのに、目が離せない。
「……目逸らしたら、負け?」
「……じゃあ、それで」
わかっているのに。
勝てるはずがない、なんて。
結局雨はほんの数十分で止んでしまったけれど、僕は山口の家でお昼をいただくことになった。
ハウスキーパーの芹音さんは、ちょうど僕と同じくらいの身長で、仕事の出来そうなクールな女性だった。ピシッとしたパンツルックにかわいいピンクのエプロン――ギャップがなんだか愛くるしくて、思わず見とれてしまった。
「雇い主は私! お給料も私が払っています!」
「なにいきなり。感謝してるよ、ありがとね透子」
「芹ねぇ、こんな見た目だけど、就職困ってて泣いてたから」
「なにを勝手に暴露してんの。やめろ」
芹音、というのは下の名前らしい。苗字は
幼馴染のお姉さん、ということで、山口は小さい頃から懐いていたそうで。
「私の数少ないディスコフレンドでもある」
「そだな。きみ――桜庭くん? で、やっと五人目くらいか」
「……有名女優?」
「だからこそだよ桜庭。私は友達を選ぶタイプなんだ」
「よかったな。選ばれて」
「え、まぁ、はい」
確かに、よく似ている。からかうのが好きで、そういうときだけ妙な連帯感を発揮するんだ。
「あ、そうだ、シャツ……ありがとうございます」
「うん。ペアルック、ってやつだ」
ぐ、と呻く僕。面白がる二人。
エプロンの下、真っ白なシャツは、確かに僕が今着ているのと同じものだ。
山口もだけど、芹音さんもまた、違ったベクトルの美人さん。何の因果だろう、学校に通い始めてからこっち、知り合うのがきれいな女性ばかりだ。
そのうち刺されやしないだろうか。……いや、冗談抜きで。
「あ、そだ、りぃもディスコのほうに招待したんだよ」
「そうなんだ。よかった」
「やっぱりちょっとがっかりしてたなぁ。こっちが
「……そりゃ、まぁ」
「そういうとこあるよな、おまえ」
「なぁに、そういうとこって」
「好感度がオンオフスイッチみてーな」
「……否定はしない」
パチっとつけて、パチっと消える。そこにグラデーションがなく、つけば最大、消えれば無。
あの日、鳥居さんの発言で怒ったときの山口は、まさにそんな感じだった。ついていた電気が消えたような、血の気の引くほどに冷たい表情。
もちろんそれ以前、それなりに仲良くやっていたのは嘘じゃないんだろう、けど。
「振り幅大きいからなぁ、何しても。振り回されて大変だろ、少年」
「……いや、でも、楽しい、です」
「なら、いい。それも透子だ。なんていうのか……うまく踊らされてるっていうか」
「人聞き悪いなぁ」
「それがまた、楽しいんだよ」
「えー」
えへへ、と笑う山口。これもまた、いつもと違う
幼馴染のお姉さんの前では、こんなふうに笑うんだな。僕や鳥居さんとは違う、安心しきった笑顔だ。心を許している、というか。
僕にこんな顔を見せてくれる日が、来るんだろうか。そんなことをふと思う。
「そうだ桜庭くん、なにか食べられないものはない?」
「いえ、特に」
「いいことだ。そばとなにかもう一つ、用意するか」
言って、芹音さんはキッチンのほうへ引っ込んでいった。
僕の横では、山口が小さくガッツポーズだ。
「やた。おそばー」
「そういえば山口、そば好きだったね」
「覚えてたの? マメだなぁ」
まだ僕にとって彼女が『とーこさん』だった頃、そばをすすってうまいうまいと喜んでたのを思い出した。
ダイエットにもおすすめで、低カロリーの上、そば湯を飲めばタンパク質まで取れてしまう。僕も好きだ。
「そういえば、スコール」
「ああ、冷蔵庫に入れといた。あ……あれも?」
「う……うん。山口が、好きだって覚えてて。なんか、無性に」
「ははぁ、やるなぁ」
何がだよ。
それにしても――
僕の他にもいたんだな。山口に振り回されてる人。
彼女の掌の上、うまく踊らされて、それが楽しいって思える人が。
芹音さんの作ったそばと鶏むね肉のみぞれ煮は、とてもおいしかったです。
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