人生は壊れた櫛のようだ。
静かで、暗く、絶望的だ。
冬の夜の海を端的に表せば、そんな感じになると思う。指先一つ入れれば飲み込まれそうで、一度飲まれればそれで終わりだと確信できる、深く冷たい黒をしている。音だけが静謐で、かえってそれが恐怖心を煽り立てるんだ。
チェックインの受付もとうに終わり、車の出入りはもうほとんどない。僕らと同じように海を眺める人が何組か。食事時の喧騒が嘘のようで、だから僕らは静かに堤防を登った。
レジャーシートを敷いて、ランタンを置いて、まず山口が左側に座った。ブランケットを端のほうから羽織って、もう片方を開いて言うんだ。
「おいで」って、優しい声で。
僕は少しだけ躊躇しながら、けれども素直にそれに従った。
右手持ったブランケットを、山口が左手に持ったそれと合わせて、僕らは閉じこもる。ブランケット越し、自然と繋がれた手が一番熱を持って、汗ばむくらいだ。触れ合う肩、腕にも伝わって、僕の左側だけ、季節が違うみたい。
「……これはもう、友達の距離感じゃ、ないね」
「……そうだね」
けれども僕らは恋人ではない。僕が好きなだけで、山口の気持ちは、わからない。
こうまで近づいてくれるのに、それは好意を示しているようなものなのに。好きでもない男にこうまでするものなのか、と彼女を疑うようなものなのに。
それでもどこか、彼女に隔意を感じてしまう――いや、少し違うか。隔意、というには曖昧な、けれどもっとシンプルで、もどかしい何か。
ランタンの温かな光に照らされた彼女の顔は、夜闇にぼんやりと溶けるようだ。
「デート、これじゃ不満かな?」
「全然。すごく、いいと思う」
「そっか。私も」
ふわりとにじませる笑顔も、温かで、光のようだ。
冷たい陸風が僕らを貫き、海へと走り去っていく。目を閉じてそれをやり過ごす山口を、僕はぼんやりと眺めた。
思った以上に話が弾まない。なのに、どこかそうしているのが自然のような。
思いついたら言葉をかわして、黙しては触れ合う熱に身を委ねて。それは寄せては返す波のように。
ぎゅぅ、と膝を抱えた山口が身じろぎをする。もぞもぞと、落ち着かない。
「寒い?」
「ううん。ごめん、ポケット確かめてた」
「そっか」
断片的でとりとめのないやり取り。
とくん、とくんと自分の鼓動を自覚する。照れくさくて、恥ずかしくて、本当はそれを隠すのに必死なだけ。
わかっているのに、僕は平静を装うのをやめられない。
「ね、旅行、楽しい?」
「うん。すごく」
「よかった。ドライブで海、が行きたくて」
「うん。どっちも、よかった」
「ね。船も乗ったし、満足だ」
「……明日は、帰るだけ?」
「うん。ちょっと、寂しいね」
「うん……ちょっとね」
僕らはそうして黙り込んで、ぎゅうぎゅうと手を握り合う。ブランケット越し、小さくて柔らかな手を、寂しさを紛らすように。
やがて山口は、ブランケットの隙間から小さな箱を取り出した。白い包装に黒い英字の書かれた、少し高そうな。
「メリー、クリスマス」
「……くれるの?」
「うん。あげる」
僕はそれを受け取り、ブランケットにしまい込む。
「開けてもいいよ。開けて」
請われて、僕は丁寧に包装紙を解いていく。
見覚えのあるブランド。見覚えのあるサイズ感。銀の、チェーンブレスレット。
「買っちゃったぁ」
いたずらっぽく笑う山口。耳元に輝くヘアピンと、二人で選んだ二つの一つ。
「つけたげる」
僕の差し出す手首に、山口は受け取ったブレスレットをゆっくりと巻きつける。ブランケットが少しだけはだけて、隙間風が肩を冷やすけれど。ちゃり、と鳴ったブレスレットが、僕の目頭に熱をいれるんだ。
「ありがとう。大事にするよ」
「うん。大事に、してね」
ブランケットを羽織り直して、手をつなぎ直して。
僕は空いた左手で、
「これ、僕から」
彼女の抱えた膝の上、乗せるように。照れくさくて、彼女みたいには渡せなかった。
「開けていい?」
「うん」
照れくさくて、彼女の顔が見られない。
ガサガサと包み紙を解く音が聞こえる。心臓がうるさい。
音が止んで、箱が開けられて、僕の買った『アレ』が、山口の手に。
僕の欲しいもの。そう言われて買った、彼女への贈り物。ちらりと様子を伺えば、山口ときたら、満面の笑みで僕を見てるんだから……目が合って、僕は慌てて逸らしてしまった。
「これが、ほしかったんだ?」
「……そうだよ」
満点の笑み声は、彼女の表情が変わっていないことを教えてくれる。
ああ、顔が熱い。動悸がうるさい。泣きそうになる。
「ごめん、キモいかな」
「えっ、ううん、全然。うれしいよ、本当だよ」
「……うん」
わかってるんだ。山口なら、そう答えてくれることも。卑屈で卑怯な自分が嫌で、でも、想像通りに優しい彼女が嬉しい。
「……でも、教えてほしいな。どういう、意味なのか」
「それは」
「おしえて」
有無を言わさぬ口調。突然の変調に、僕は弾けるように山口を見た。
探るような、濡れるような、あの瞳で、僕を無表情に見つめていた。さっきまでの満面の笑みを嘘みたいに、僕の内側を深く抉るような、あの瞳。
「……山口は、何でも似合うから」
相槌はなく、ただ続きを促しているのがわかった。だからこれは彼女に聞かせながら、独白のようなものでもあって、ただ、つらつらと並べるように。
山口は何でも似合うから。氷室冷夏は、何にでもなれるから。
――その全部が、欲しかったんだ。
僕は調子に乗りすぎて、全部を諦めて、何者でもなくなって、閉じこもった。自分を嫌って、そうすると父さん母さんとの『格差』も理不尽に思えて、どんどん卑屈になって、それでまた自分を嫌うんだ。
嫌になる、嫌になるのループで、僕には何も無いのに、それだけは一丁前なんだ。
人と話すのは久しぶりだった。どもって、うめいて、ろくに話せもしないのに、丁寧に聞いてくれた。楽しそうに話してくれた。
本当に、本当にうれしかったんだ。だから、僕は外に出た。君に会いに。
山口、僕は君の思うがままだ。思い返せばそのときからずっと。
友達、って言っていいのかな。鳥居さんや新谷くんとも、少しずつ話してるんだ。
それからバイトもした。自分で働いて、自分の稼いだお金で、買い物をした。
世界が広がったんだ。僕は相変わらず卑屈で、自分が嫌いなままなのに。何も無いままなのに。
それでも最近は、いいかなって思ってる。
何も無い僕は、山口の掌の上で、くるくる踊る
人形、いいじゃないか。
僕は君の見せてくれる景色にすっかり夢中だ。休む暇なくこの手を引いて、もっともっとたくさんの景色を見せて欲しい。
僕には何も無いから、僕は君の望むものになりたい。
いっそこの全身、その色に染め上げて欲しい。君色の人形になれれば、きっとそれができるから。
「だから僕は、その全部が欲しいんだ」
……とてつもなく恥ずかしいことを言った。もちろんそんなに流暢には言えなくて、たどたどしく――だから、とてつもなく恥ずかしくて、全身熱くてむず痒い。
相変わらず波は静かに寄せては返し、夜闇の静寂をかえって際立たせる。
一回、二回、三回、四回。山口から、反応はない。
ちらり、僕は居たたまれなくなって様子をうかがった。
血の気が引く。
「山口?」
「……え?」
頬を伝う涙が、いまにも顎先から滴りそうなほど。
「あ、れ」
それが何なのかわからないように、山口はその手で頬を覆った。
それが皮切りで、彼女はくしゃりと顔を歪めて。
「うぅ、ひ、くぅ」
息の詰まるような、苦しげな嗚咽を漏らし始めた。
ああ、苦しい。辛い。悲しい。なんて胸に迫る、幼子のような。
「う、ぐぅ、あぁ」
僕は何を言ったんだろう。彼女は何を感じたんだろう。
僕は彼女の何を知っていたんだろう。何が彼女をこうさせたんだろう。
後から後から湧き出る疑問と焦燥が、僕の脳を埋めていく。
わからない、わからない、どうしたらいい? どうしたら、彼女は、山口を――
頭が真っ白になったから、僕は彼女をブランケットで覆い隠してしまった。
僕の、胸の中に。
聞こえる。胸の中に、幼子のしゃくりあげる、泣き声が。
空気の束をつかむように、濡れない水をすくうように、僕はその髪に恐る恐ると指を通した。
そうだ、最初に言っていたじゃないか。
山口は、心身の休養のために、ここにいるんだ。
何かに追い詰められて、何かに不調を来して、だから『天職』を休んでいるんだ。
楽しそうだの面白そうだの、そんなのは彼女の一面に過ぎない。わかりきっていたことじゃないか。
ああ、だとしたら僕は、何を。
嫌われてしまうんじゃないか、避けられてしまうんじゃないか、ここからいなくなってしまうんじゃないか――そういう恐怖に、無理矢理蓋をして、僕はゆっくりと撫で続けた。
それ以外にできることがなかったから。
海を見て、波に合わせて、言葉もなく。
やがて小さくなっていく嗚咽は、数分後には穏やかな呼吸へ変わっていく。山口は身体を起こそうともせず、「うぅ」と呻いて僕の胸に頭を擦り付けてきた。
「ごめん、なんか、変なこと言ったから」
「ちが、ちがう。そうじゃない」
慌てたように、もぞもぞと頭を起こした山口は、はたと目が合うとすぐに逸らしてしまった。珍しいこともあるな、と思いながら、そんな場合じゃないと唇を引き結ぶ。
「あぁ、思いっ切り泣いちゃった」
「……あの」
「大丈夫、大丈夫だから。嫌だったとか、辛いとか、そういうんじゃなくて」
最初の体勢。つまり二人の肩からブランケットで覆い、手を繋いでその隙間を塞いだまま、山口は笑った。
初めて見る笑顔。面白がるでもなく、ただひたすらに温かなものでもなく、なんとも形容のしがたい――完璧な、笑顔。
人生は壊れた櫛みたい。
折れたり曲がったり、いろんな山を、私たちは登ったり降りたり。
時折、谷の底に、さらに亀裂が入ってたりもするの。
それは材質も、間隔も、傷も亀裂も山も谷も、深さも長さも、人それぞれに何もかもが違ってる。
けどね、
失敗はやり直せる、だから恐れるなっていうけど、半分本当で半分嘘。
取り返しのつかないことって、やっぱりあるよ。
そんなとき、どうしたらいいのかな?
自分じゃあどうしようもない亀裂をね、埋めてくれる人がいるの。
――人生はタイミングだな、って思う。
てんでバラバラな壊れた櫛をさ、二つ重ねるの。
てんでバラバラで、どこもかしこもいびつで不揃いで、なのに……
不思議と、どうしようもない亀裂のところだけ、きれいにぴたっと、埋めてくれるような。
そういうタイミングを、なんでだろう、最初から知ってたみたいに。
そこにいて、欲しい言葉をくれるんだ。
「だから安いものでしょ? 私の人生を、少し、ほんの少し、わけてあげるくらい」
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