心に触れた日。




「準備はできた? ほら、帰るよ」




 僕らは再び、知多半島道路を赤いヤリスクロスでひた走る。

 肩には山口の頭があって、すぅすぅと規則正しい寝息が耳に優しい。

「疲れてる、んですかね」

「そうだな。泣き疲れてるのかもな」

「……えーっと」

 部屋に戻るときにはもちろん涙はとっくに収まっていたはずだけど、やっぱり見る人が見ればわかるようで。腫れぼったい、というと言い過ぎだけど、少し赤い目をした山口に、芹音さんはいたく驚いたらしい。

「はは、責めてるわけじゃないよ。ほら、寝顔も安心しきってるだろ」

「……そうですね」

「スッキリした顔してたから。もう何年ぶりだ? 覚えてないくらい、泣いてないんだコイツは」

 バックミラー越し、芹音さんの目は遠く、優しい。

 山口透子は泣かない。笑ってばかり。たまに怒ったりもするけれど。

 結局、どうして泣いたのかはよくわからない。聞いても教えてくれないだろうし、何より聞きたいと思えなかった。気にはなるけど、それは触れてはいけない大事なもののような気がした。

 どうしようもない亀裂を、うめるもの……なんて。

 たまたまそこにいて、喋ったことがたまたま彼女に刺さった・・・・だけのこと。

 実感なんてあるはずがない。

「肩じゃバランス悪いだろ。膝、貸してやってくれない?」

「それはちょっと」

「なんだ、ケチだな」

 いやだって、ほら、いろいろあるじゃないか。

「落ちてきたら、そうします」

「よし、じゃあ飛ばすぞ」

「いやいやいや」

 それにしても、意外とおちゃめな人だ。山口と一緒になって僕をからかおうとするところとか、今までだって覗かせていた一面ではあるけれど。

 彼女が泣いたことが、なんだか、一つのきっかけになったみたいだ。僕が『なにか』の一員になったような、認められたような。

 それでも、悲しい涙でないのなら、よかった。呆然とするように、無表情のまま涙を流す山口を見たときは、本当に生きた心地がしなかった。

 肩に眠る山口の、柔らかな髪に手を伸ばす。伸ばして、触れずに、そのまま下ろした。

 空気のような水のような、あの感触が忘れられない。

 ずるり、と、山口の頭が肩からずれて、僕は慌ててそれを支えようとするけれど間に合わず――、膝にとすりと、落ちてきた。

「はは」

 笑う芹音さん。バックミラー越しににらむけれど、笑みを深めるだけ。ため息一つ、膝に落ちた山口の頭を眺めることにした。

 顔を前方向に向けて、頬にかかった髪をくすぐったがるみたいに身を捩るから、僕はそれを指先だけで耳のほうにかける。あらわになる頬は白く、柔らかそうで、触れたくなる衝動に駆られる。閉ざされたまぶたから覗くまつ毛が長い。くしゃくしゃに歪められた泣き顔から、こんなにも安らかな寝顔まで。本当に、きれいっていうのはずるいんだ。

「起きないもんですね」

「結構勢いよくいったのになぁ。よっぽど寝心地がいいのかな、きみの肩も、膝も」

「そういうんじゃないでしょ。たぶん」

 それを言うならきっと芹音さんのほうが、とは言わないでおいた。セクハラっぽい。

 すぅ、すぅ、立てる寝息に耳を澄ませて、そうしていると僕まで眠くなってくる。安らかな寝顔に、安らかな気持ちを誘われる。

「……寝てていいよ、きみも」

「……はい」

 ヘッドレストに頭を預けて目を閉じる。眠気はすぐにやってきた。



 起きたらもう地元に着いていて、もうすぐ我が家というところだった。下ろしてもらったら、今日のところはお別れだ。

 僕の膝から飛び起きた山口は、そのあとすぐ、元気に話し始めた。楽しそうに笑いながら、旅の振り返りだ。

 パーキングエリアには寄らず、僕らはノンストップで話し続けた。

 楽しかった旅の終わりは、少しの寂寞感といつもセットだ。……なんていうほど旅慣れてはいないけれど、車から降りると、途端に実感するんだ。

 ああ、終わったなぁ、って。続いて降りてくる山口が、それを払うように笑う。

「お疲れ。楽しかったね」

「うん。また、行きたいね」

「絶対行こうよ。いろいろ、行きたい」

「うん。いろいろ」

 心なしか、少しだけ寂しそうな笑顔。なんていうのは、僕の願望だろうか。

 きっと彼女は氷室冷夏に戻り、そうなればきっと、旅行なんてそうそう行けるものじゃない。あるいは東京に戻って、会うことさえも難しくなるかもしれない。

 いろいろな想像がまばたきの間に脳裏を過ぎり、また少しだけ、目頭が熱くなる。

 横目に見た芹音さんが手を振り、車のウィンドウを閉めた。これで僕らは、二人きり。

 あとは別れるだけ、なのに、何も言えない。

 何も言えない僕に、その首に、山口はゆっくりと腕を巻き付けた。ブレスレットを手首に巻いてくれたみたいに、丁寧に、柔らかに。

 首筋に濡れた感触。ぞわりと背筋に隙間風。目を白黒させる僕にお構いなしで、彼女は何かを刻むように音を立てた。ぢぅ、と、濡れた音を。立て続けに、何度か。

 やがて唇を離し、腕を解き、ゆっくりと顔を離していく。

 艶さえ感じる色めいた笑みを浮かべたその唇は、鮮やかなピンク。

「おかえし」

 ――ああ、この子はやっぱり、恐ろしい人だ。

 僕の全部をさらって、何もかもをぐちゃぐちゃにして、笑うんだ。楽しそうに、面白がって。

「またね、直樹・・

「……うん。またね、透子・・

 だから僕もおかえしを。いたずらっぽく笑う透子は、そのまま車に乗り込んで、走り去っていった。



 その夜、夢を見た。

 少年と、少女の夢。

 呼吸の詰まるような幼い泣き声を上げる少女と、その傍らで懸命に慰める少年。

 聞き覚えのある泣き声。苦しくて辛くて悲しい、胸に迫る。

「ねぇ、どうしたの」と少年。

「わたし、おにんぎょうじゃないもん」と少女。

 胸の詰まるような泣き声に、少年はポケットからハンカチを取り出す。

 少女はけれど動かない。

 少年はスマートフォンを取り出し、何度か操作を繰り返し、画面を少女に見せる。

「みて」

「……なぁに」

「おかあさんのにんぎょう。きれいでしょ」

「……しらない」

 それは頭部だけのマネキンで、カットしたウィッグを被せて撮影されたもの。

「これも、これも、これも。ぜんぶ、おなじにんぎょうなんだよ」

「ぜんぶ?」

「うん。すごいんだよ、にんぎょうは、なんでもにあうんだ」

「……ふぅん」

「きみは、おとうさんとおんなじ、げいのうじん、なんだよね」

「うん。でも、わたしなんて、もう」

 一度は止まりかけた涙が、またその目にたまり始める。慌てる少年は、だから、言うんだ。


「にんぎょうはにんぎょうだから、なんにでもなれるんだよ。そんなの、だれもかてないよ!」


 ああ――

 少女の涙は止まり、きらめく瞳に希望を映して、食い入るように画面を見る。

 人形が映る。金の髪、黒の髪、赤の髪。長い髪、短い髪。まっすぐな、波打った。

 全部が全部似合っていて、それは確かに、少女の面影を感じさせる。

 少女は喜ぶ。少女は怒る。少女は哀しむ。少女は楽しむ。少女は笑う。

 画面の移り変わりに合わせて、この髪にはこの表情だ、これにはこれだ、あれにはあれ。

 少年は魅入られる。

 誰もこれには敵わない。こんな、奇跡を歪めるような、奇跡の生まれる瞬間に。


 遠山ロコの夢を見た。

 氷室冷夏が生まれた日の、夢を見た。





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