新年あけましたおめでたい。




 十二月三十一日。二十三時、三十分。

 ディスコに、ビデオ通話の通知が灯る。




「年越ししよう」

 お風呂上がりの、ヘアターバン姿の透子は、やや高めのテンションで詰め寄ってきた。

「近い近い。見えない」

「おっと、テンション上がってしまった」

 スマホから顔を離し、胸元が見える程度の距離に。冬だから露出はないにしても、なんというか、「風呂上がり感」が、こう、ね。

「スタンドに立てるね。直樹も、ゆっくりできるようにしといて」

「うん」

 もちろん、拒む理由もない。僕はベッドに腰掛け、その先にあるテーブルにスタンドを立て、スマホを乗せた。

「……見えてる?」

「ばっちり。あ、首のとこ、消えてきてる」

「あー、父さんと母さんにめちゃくちゃ驚かれたよ……」

「あはは。でも、プレゼントに対するアンサーとして、正しいでしょ」

「いや、そうだけど……心臓に悪い」

「なんとも思ってない人に、しないよ」

「……うん」

 ……けれど僕らは結局、『恋人』になっていない。それは僕らの関係に、どこか『恩義』めいたものが存在しているから。

 彼女は、ほんの少しの言葉に救われたらしい。僕にとってそれがどんなに些細で何気ないものであれ、彼女にとっては宝物・・で――それを否定することは、誰にもできない。してはいけない。

 僕は、彼女の思うままに動いて、だからここにいる。彼女がいなくちゃ、きっと今でも部屋に閉じこもって、薄暗い中バーチャル授業だけの毎日だった。

 だから恋人になっちゃいけない、なんてことはもちろんないんだろうけど……それでもどこか引っかかりを覚えてしまうのも、致し方ないことだと思うんだ。

 それに、ただの偶然で成立した関係に深く踏み込んではいけない、行為と結果が釣り合っていない――そういう卑屈な言い訳が、まだ僕の中にある。申し訳ないし、怒るだろうから、絶対口にはしないけど。

「そうだ、早めに言っとくね。初詣行くから、そうだな、朝九時、うちに来てね」

「わかった。なんか、服装とか」

「普通でいいよ。近所の小さい神社に行くつもりだし、というか袴とか持ってたりするの?」

「……ないけど」

「私は晴れ着を着ます。めちゃくちゃ楽しみにしててください」

「……おぉ」

 晴れ着姿の透子を想像しようとして、できなかった。

 何でも似合う彼女は、何でも似合いすぎて、「これだ」というものが浮かばない。プレゼントを考えるときだって、ずいぶん苦労したんだ。

「それ、僕、浮かない?」

「私が浮くんだよ。実際、着物の人なんてあんまり見ないし」

「そうなんだ。初詣とか、結構久々で」

 そういえばいつぶりだろうと指折り数えてみる。数えてはみるものの、そもそも年単位で何かを思い出すこと自体が難しくて、僕は早々に諦めた。

「久々なんだ」

「諦めんなよー。私はねぇ、全っっ然! 行かない!」

「……えぇ」

「でもほら、やっぱりイベントごとだから、一緒に行きたいなーって」

「それは、うれしいけど」

 騒ぎになるからかな、と思ったけど、思えばこれまで騒ぎになったことはない。

 不思議なもので、遠巻きに眺める視線は多くあっても、誰一人透子に近づこうとしないんだ。ひそひそと彼女を見ながら何かしら話しているのは見て取れるけど、それ以上のことは何も。写真すら撮ろうとする人はいなかった。世間は意外と良識的なのかな、と思ったものだ。

 あるいは、と思う。邪魔なものコブがついてたからからかな、なんて。それならそれでいい。彼女が平穏無事にイベントを楽しめるなら、それ以上のことはないのだから。

「近くまで芹ねぇに車で送ってもらうし、なんなら一緒だけど、いいよね?」

「うん、もちろん。芹音さんも?」

「芹ねぇは着ないって。めんどくせぇって。着付けはしてくれるっていうのにさー」

「……できるんだ」

「それがさ、聞いてよ。こんな日が来るかもって、勉強してたんだって。かわいいよね」

 確かに、かわいい。

「私のこと好きすぎだよねー」

「……おい、いい加減に」

「あれ、芹音さん?」

「ああ、うん。ごめんな、邪魔するつもりじゃ」

「いえ、別に一緒に話してもらってもいいんですけど」

「そうだよ、遠慮しちゃって。どうせ一緒に行くのに」

「まぁ、じゃあ、画面外からで悪いけど」

 そういえばかすかに物音が聞こえる。キッチンでなにか、仕事をしているらしい。

「芹ねぇは今、おせちの仕上げ中。お重につめてるの」

「へー、いいね」

「めっちゃおいしそう。明日朝はお家で食べて、お昼、一緒にどう?」

「嬉しいけど、でも」

「いいよ。どうせ呼ぶと思って、多めに作ってある」

「さすが芹ねぇわかってるぅ」

「じゃあ、お世話になります」

 楽しみがまた一つ増えた。

 三が日は家でゆっくり、一日の訪問は非常識――みたいなことを聞いたことがあるけど、家主が透子ではその限りじゃないらしい。

 まぁそもそも、高校生の友達同士なんてそんなものか。遠慮するのは親同士であって、僕らは別に、気にすることもない。

 保護者である芹音さんがいいと言うんだから、いいんだろう、きっと。

 リラックスモードの透子が、膝を抱えて座り直す。こてん、とそこに顎を乗せて、じぃっと僕を見た。

「楽しいねぇ、青春だねぇ」

「かもね。晴れ着姿の女の子と初詣なんて、考えたこともなかったよ」

「そっかぁ。じゃあ、写真も撮らなきゃね」

「無言で勝手に撮るの、あり?」

「いいよぉ。撮れるものならな!」

 いついかなるときも臨戦態勢だ、と言わんばかりの透子。ラフな部屋着にヘアターバン姿で何言ってんだか、と呆れた目の僕に、透子は「へへ」と笑う。

 僕らの談笑は途切れることなく続き、途中画面内に合流した芹音さんとともに、そのときを迎えた。

「さん」

「に」

「いち」

 声を揃えて、

「あけましておめでとー」

 いろいろあった年が終わり、新年がやってきた。

 最悪の始まりから、最高の終わりだった。最高の始まりから、どうなるんだろう。

「透子、ありがとう」

「……うん。私も。ありがとう、直樹」

 自然と口をついて出た感謝の言葉。その意味を問われることはなかったけれど、きっと伝わっただろうと思う。彼女のそれもまた、僕に伝わったから。

 名残惜しいけれど、新年を迎えたのなら、もう明日の――今日の、朝の準備だ。

「もう、寝ないとね」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 芹音さんからは微笑みを一つ。通話は後引く未練を感じさせることなく、あっさりと切れた。



 翌朝、快晴。カーテンから漏れる光で目を覚ましそうなほど。

 ベッドの上、あくびを一つ、背伸びをする。脱力、ため息。

 さあ、はりきって、詣でよう。



 朝八時五十五分、山口家に到着。楽しみが過ぎて、なんだか緊張してきた。

 透子の晴れ着姿なんて、絶対きれいに決まってる。きっと想像を超えてくるから、どんな想像も、たぶん無意味だ。ああ、ただ、早く会いたいと思う。

 インターホンを鳴らして、待つことしばし。

「はぁい」

 透子の声だ。来たのが僕だと知っている、油断しきった声。

 だから僕はカメラに向けて、「おはよう」と手を挙げる。

「入っていいよー」

 門扉に手をかけ、開く。後ろ手に閉じて、何もない広い庭を歩き、玄関のドアに手をかける。

 もう何度も入った家なのに、なぜだろう、いつもと違う光景が待っていると思うと、新鮮な心地だ。

 開くドア。見慣れた玄関、上がりかまち。その少し先に、白い足袋が見えた。

「おは……」

 視線を上げる先、僕は言葉を失った。

 淡い水色――白藍しらあいの地色に、淡い彩りの水仙の花。白緑びゃくろくの帯揚げ、網代あじろ柄の白い帯の上には深い藍色をした帯締めが。

 楚々とした佇まい。あえて手を組んだりはせず自然体で、けれど、もともとの立ち姿がきれいな透子は、それだけで様になっている。

 結ばれた薔薇色の唇が、淡く弧を描いて笑みを作る。いつもより少しだけ華やかなメイクだけど、決して着物の邪魔はしていない。

 髪はあえていじらず、きらめくのはいつも通りの銀のヘアピン。けれどその蝶結びのようなシルエットが、和装とよく合った。

「じゃーん。どうかな?」

 透子が何かを言っているけれど、なんだか、夢見心地で頭に入ってこない。

「おーい」

 すすす、と静かに歩いた透子の目が、僕の目の前で濡れていた。

「……きれい」

「わ」

 驚いたように口と目を開いたと思ったら、いつものように笑うんだ。「んん~」って、面白がって。

「見惚れてたのかぁ」

「……うん。ごめん」

「そっかそっか。何よりの感想ってやつだね」

 もう言葉もいらないみたいで、透子は満足げにリビングへ足を向けた。

 見た瞬間に確信してしまったんだ。出かける前からもう、今日の主役は彼女以外にありえない。

 僕は従者で、芹音さんは……なんだろう。まぁ、それはそれとして。

 きっと今日も、彼女は声をかけられることはないだろう。

 ――遥か天上、あまりに遠い彼女は、手を伸ばしても届くはずのない。

 それでも手を伸ばすんだ。彼女の手から垂らされた糸を伝い、もう今更戻れないところまで、きてしまったんだから。




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