帰ってきたみたい。
冬休みが終わり、僕らは始業式の真っ最中を狙い、メタクラに向かった。
透子愛用の原付は、登下校時にはすっかりお役御免となってしまった。顔を隠すためのヘルメットもまぁ、今更みたいな話だ。
そういえば最初は隠してた、気をつけてたんだよな。どんな心境の変化があったのか、聞いてみたけれど「さぁ」と笑ってはぐらかされてしまった。結局初詣のようなことはもうなくて、晴れ着姿で浮かれていた世間の良識は、どうやら平静を取り戻したらしい。
二週間ばかりの冬休み。けれど、制服姿の透子がなんだか懐かしい。学校指定の紺のコートを脱ぐと、灰色のブレザーにチェックのスカート。緑の細いリボンタイが少し緩められて、中の開襟シャツ、第一ボタンは開いている。メイクは目立たないように最低限、リップはベージュで、今日の透子は
ノートに向かって数式を書き出す彼女の横顔は真剣そのもの。もう、僕が教えることはなくなって、テキストを片手にスラスラと問題を解くようになった。誇らしくて、少しだけ寂しい。
エアコンの音がぶわぁと断続的に、温かな空気とともに。眠気を誘う。
「今日はなんだか、気もそぞろ、だね?」
ちらりと横目、楽しそうな笑み声の透子に、僕は「うん」とだけこぼした。
気もそぞろ――あることに心奪われて落ち着かないさま。そわそわするさま。
まさしく、今の僕だ。
冬休みにはいろいろあって、いろいろありすぎて、久しぶりの『日常の透子』が、なんだか新鮮なんだ。
「三学期、ラストスパート、がんばらないと。一緒に進級、するでしょ?」
「うん、もちろん」
そうだ、そうだった。
僕だけが一年生に取り残されるなんて、あってはならない最悪だ。気を取り直してシャープペンを持つけれど、やっぱりどこか、そわそわとして落ち着かない。
落ち着かなくてもまぁ、勉強はできる。教えることはなくなったって、学力はまだ僕のほうが上なんだ……一応、程度ではあるけれど。
「ねぇ、ちょっと考えたんだけど」
「うん?」
勉強を始めて数分、透子はこちらに向き直り真剣な眼差しだった。思わず身構える僕に、けれど彼女はいつものように空気を和らげようとはせず、そのまま話を始めてしまった。
「あのね、……復学、してみない?」
「復学……っていうと」
「うん。普通のクラスに、普通に、通うの」
その提案に少しだけ面食らってしまって、
けれど透子はそれを許さない。頬を挟んで、顔を近づけて、目を覗き込んで。「私に集中しろ」と、有無を言わせぬときのいつもの仕草。
「保健室登校からの復帰率って、あんまり高くないんだって。優しく寄り添って、そうするとどんどん甘えちゃうから。不安にならなきゃ、乗り越えなきゃ、だめなんだよ」
「……うん。それは」
「わかってないよね」
ああ、有無を言わせぬ詰問。
その通り、僕はわかっていない。このまま透子と二人で、と心のどこかで思っていた。けれど彼女にとってそこはゴールでなく、あるいはそれは
「私、直樹といろいろやってきたけど、だからこそ、もっといろいろやりたいなぁって、欲張りたくなったの」
本当に、透子にはいろいろと振り回されて、そのどれもが楽しかった。きれいな思い出だ。
「体育祭とか、文化祭とか……二年生だとほら、修学旅行とかも、あるよ」
「……それは確かに、魅力的、かも」
「ね? 私たち、事情が事情だから、少しくらいは甘えてもいいから。でも、やりたいよ」
濡れたように輝く彼女の
たぶん、ここで答えを出さなくちゃだめだ。そんな気がする。
――人生はタイミングだ。どうしようもないとき、その亀裂を埋めてくれるような人が、確かにいるんだ。
僕のタイミングは、たぶん、ここだ。
「しよう、か。復学」
ぱぁ、と花咲くような――そんな陳腐な表現がこんなにも似合う。潤んだ瞳がたわむと、少しだけ雫が溢れた。溢れたそれを、僕は親指で拭う。
「じゃあ、来年度から。二年生から私たち、『普通の学生』だ」
「……がんばろう」
「冬休み中、ずっと考えてたの、本当は。毎日楽しいから、だから、甘えちゃってるなぁって」
「そっか。でもうん、僕は、ずっと透子に甘えてたね」
「それはいいんだよ。だめなのは、状況に甘えること」
「……なるほど」
含蓄ある言葉が突き刺さる。
でも、よかった。透子に甘えられるなら、僕はきっと大丈夫。
「透子が僕に甘える日とか、来るのかなぁ」
「えー。甘えっぱなしだよ、クリスマスとかも、ね?」
そうかなぁ、と目をそらそうとして、挟まれた頬がそのままだったことに気づく。
「……離さない?」
「ちょっとどきどきしてるでしょ。まだ緊張してる」
「バレバレか」
「じゃあ、落ち着くまで、こう」
頬を離してくれた、と思ったら、そのまま前のめりに透子は倒れ込むように腕を首に絡めてくる。
肩に乗る彼女の顔。彼女の肩に乗る僕の顔。頬に触れる、細く艶のある髪が、少しだけくすぐったい。柔らかな身体が、制服を挟んですぐそばに。
「……落ち着かないんだけど」
「私は落ち着く。あぁ、よかったぁ」
「ありがとう、ね、透子」
「……ううん」
ふるふると僕の横で揺れる顔、生きてるなぁ、と感じてしまう。
どきどきして緊張して落ち着かないけど、ああ確かに、温かさも小さな身じろぎも、透子を感じて優しいんだ。
少しだけ、スキンシップが増えたかな。クリスマスあたりからこっち、彼女がほんのちょっと、大胆な気がする。
今以て、僕らは恋人ではないけれど。そんな関係が心地よくもあり、けれど――それに、そんな状況に甘えてはいけないということ、なんだろうか。
一歩進むと決めたのだから、この関係だって。
「――修了式まで、待ってね」
ぞくりと背筋に氷を落とす、甘いささやき。僕の心を見透かす、彼女のすべて。
離れた身体、透子の表情は笑顔。僕の思考を遮る、妖しい微笑み。
ともあれそうと決まれば小テストを消化しなくてはならない。進級できなきゃ、さっきのやり取り全部無駄になる。そんな馬鹿げた話はないじゃないか。
ペースは順調を超えて快調だ。このままいけば、なんて言わなくても、二月に入るころには進級可能ラインに乗る計算になっている。
透子の覚えがいい分、僕も基礎からみっちり鍛え直せた。
「よし、今日はこれで」
「五つ目ぇ。もうほぼ確実にとれるねー」
「ほんと、すごいよ透子」
「先生がいいんだよ。だって、これまでできなかったんだもん」
「忙しかっただけでしょ? やればでき」
「いいの、いいじゃん、先生がいいでこの話は終わり」
「……えぇ」
すねたような透子に漏れる苦笑いも、やっぱり喜色を隠せない。褒められるとうれしい。そんな当たり前を、彼女といると何度も実感できる。
だから僕も、勉強を頑張る彼女にそうしてきたつもりだ。
「今日のお弁当は、二人で食べよ」
「うん。じゃあ、ここでこのまま」
スクールバッグを開いて取り出す、いつもの弁当箱。僕のは母さんが、透子のは芹音さんが作った、栄養管理の行き届いた。
思えば初日から、こうして二人で食べることのほうが多いんだ。鳥居さんや新谷くんが加わるようになった今でもそれは変わらない。
おかず交換だー、なんて言って、あんまり変わりのないメニューを取り替えるんだ。味付けの違いとか、ちょっとした変化に舌鼓を打って。
僕もずいぶん芹音さんの味付けに慣れてしまった。透子もまた、母さんの味付けをよく知ってる。
そういう変化に、なんだか
「芹音さんも、復学の件は知ってるの?」
ごまかすような話題に、もぐもぐと卵焼きを頬張る透子が頷く。ゴクリと飲み下し、
「もちろん。なんなら、絶対決めてくるって言っちゃった」
「……よかった」
「へへ。いい報告ができるよ」
楽しそうに笑う。
「大きいイベントだと、最初はなんだっけな」
「体育祭かな。たぶん五月か六月辺りじゃないかな」
「へー。梅雨時なんだ」
「だから延期とかも多いんだってさ」
「うへぇ。まぁ、雨天決行になったら私は見学だな」
「それがいいね」
滑って転んで怪我でもしたらおおごとだ。学校側を糾弾する声まで上がりかねない。
ああ、やっぱりそれでも、二人は楽しいなぁ。
気兼ねなくて、落ち着く。どもらずに、焦らずに、ゆっくりと話していられる。言葉の出てくるおみくじを、透子が振っているみたいな。運次第、透子次第。僕はその結果に一喜一憂するだけだ。
だからかな、四人のとき、僕の発言はたぶん、数えるほど。少しずつ慣れてきたあの二人でさえそうなんだから、普通の――いいや、今考えることじゃないか。
「夏休みはまた海行きたいねぇ、今度は泳いだり」
「いいねぇ」
「それから文化祭、球技大会、お待ちかねの修学旅行……盛りだくさんだね」
「……楽しみだね」
「うん」
今はそう、楽しみに胸を膨らませるくらいでちょうどいい。
腹も膨らめばきっと、些細な不安くらいはすぐに忘れてしまうんだから。
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