第16話
あまり綺麗とはいえない五階建ての雑居ビル。
小さなエントランスを抜け、エレベーターを使わずに階段で二階まで上がると、すぐ側に、株式会社スケープゴートの表札と開け放たれた扉が目に入る。
インターホンで名前を名乗った後、すぐに背の高い男性が出てきて、そのまま長机と長椅子がある簡素な部屋に通される。応接間と呼ばれるような部屋だろうか。色とりどりの花が生けられた花瓶の絵画が、寂しい部屋を唯一華々しく盛り立てようとしていた。
勧められた席に座ると同時に、目の前に紙コップが置かれる。透き通った明るい緑色の水面に天井の蛍光灯が映っている。
さっきの背の高い男性が千影の前の椅子に腰を下ろす。少しタバコの匂いがした。
「本日はわざわざお越しいただきありがとうございました」
「いえ……」
営業スマイルではない自然な笑顔に、肩の力が抜ける。無意識に緊張していたようだ。
千影はずっと前に奏太に教えてもらったように、口元を引き口角を上げて相手の誠意に応えてみた。
目の前の男性に怒った様子はない。どうやら「笑顔」を作るのに成功したみたいだ。千影は内心ほっと胸を撫で下ろす。
「私、株式会社スケープゴートで社長を務めております
社長……!? いきなりの自己紹介に内心面食らう。
「弊社は万年人手が不足しておりまして……。本日も担当の者が不在ですので、申し訳ありませんが、私の方で対応させて頂きますね」
そういって神屋敷は千影に柔らかな笑みを向ける。
年齢は三十歳後半ぐらいだろうか? 優しげな目元からは親しみやすさが滲み出ている。清潔感のある髪型と暗すぎない紺色のスーツは、しっかりした印象とともに落ち着いた雰囲気を感じさせた。
この雰囲気と話し方を見る感じ、あの時、電話口で話した人物ではないようだ。この人の方が声が低くて、成熟している感じがする。
「早速ですが、夏川奏太から預かっている千影さんへのメッセージを伝えます。…これを」
神屋敷はそういって机の上に何かを置く。
千影は差し出されたものを確認した途端、目を見開く。
それは、千影の誕生日に奏太がプレゼントした例のうさぎの人形だった。
まだもらってから間もないというのに、うさぎの身体は踏みつけられたかのように至るところが白茶け、糸がほつれたりとボロボロだった。
千影はそれをゆっくりと手に取る。そして頭と胴体をつなぐ部分が取れかかっていて、そこから何か紙切れが飛び出していることに気づく。その小さな紙切れを慎重に取り出し、二つに折られた紙を開く。
中には、
「『雪代千影が幸せになりますように』……」
「はい。それが、夏川奏太の願いです」
「奏太の、願い……」
千影は、紙切れに押された朱墨の手形の上に、自分の手を重ねる。自分の手より一回りも大きく頼り甲斐のある手。辛い時、いつも握ってくれた温かいぬくもりを思い出す。
「あなたはこれから幸せにならなければなりません。そして、この願いは必ず果たされなければなりません」
神屋敷の言葉に、千影は確信する。
「やはり奏太は私の身代わりとなって死んだんですね?」
「そうです。夏川奏太は千影さんの身代わりとなって命を落としました」
答えをはぐらかされると思っていたが違った。神屋敷は正直に答えてくれた。はっきりとした回答に、千影は別段、驚くことも悲しむこともなかった。
ただ、罪悪感と憎しみが千影の心に起こった。
私が生きているのは奏太のおかげ。奏太が自分の命をかけて私の命を守ってくれた。それに対する申し訳ない気持ち。
そして、奏太という犠牲の上に立った自分の命を、千影はもう自分勝手に扱えない。つまり、安易に死を選べなくなったということ。
奏太の気持ちを背負い、自分の気持ちを背負って生きていくことが、この先千影にとってどれほどのものか、あの時の奏太は考えもしなかったに違いない。
時には生きることの方が、死ぬことよりも辛く厳しいことであることを。
「私はこんなこと、望んでなかった。私を生かすために奏太がここまでやる必要はなかった。奏太は無責任だよ。奏太がいないのに、私が幸せになるなんてこと、できるわけないじゃない……!」
千影は今までに感じたことのない感情を抱いていた。そして、自分が初めて「怒り」という感情を外に出すことができていることを実感する。
しかし今の千影にはそのことに喜びを感じる余裕を一切持ち合わせておらず、またその気にも一切なれなかった。
奏太が憎い。どうして私を置いて逝ってしまったのか。こうなることが分かっていたはずなのに、どうしてこの道を選んだのか。人のことを言えないかもしれないけど、残される側の気持ちをもっと考えてほしかった。
気持ちが高ぶる千影に対して、神屋敷の淡々とした言葉が落とされる。
「じゃあ、幸せになることを放棄するかい? 彼の願いを叶えることを諦める選択をした場合、君には彼と同じ運命を
いい年してウインクをしながら、神屋敷は物騒なことを口にする。
契約? そんなもの、関係ない。
もはや、奏太と同じ運命を辿る選択をしないと、きっとこの怒りはおさまらない。
このまま奏太を憎みながら生きることになるくらいなら、死んだ方がマシだ。
「奏太……。どうして私にこんな死ぬ以上に残酷な人生を選ばせたの? 私にあなたを憎ませるようなこと、してほしくなかった……!」
抑えようのない奏太への負の感情が、千影の心を黒く染め上げていく。
奏太を悪者にしたくないのに、奏太を責める気持ちが拭えない自分自身も憎い。
今まで抱えたことがないほど多くの感情に囲まれ、千影の心はもう限界だった。
そんな千影を見ていた神屋敷が、おもむろに口を開く。
「千影さん、彼が君に望んだ幸せって何だと思う?」
いつの間にか完璧に敬語が取り払われた神屋敷の言葉に、千影は拍子抜けして黙り込む。
奏太が私に望んだ幸せ? 笑ったり喜んだり、笑顔に溢れて生きることではないのか?
「笑顔溢れる生き方。これが千影さんが思っている幸せのかたちだと思う。でも、これは不完全な幸せだ」
「不完全な幸せ?」
「そう。本当の幸せというのは、君が今感じている憎しみや苦しみも全部含めたものだと、私は思う」
この気持ちも幸せの一部になるということ?
でも今のこの私が感じているものは、幸せとは対極に存在するものではないのだろうか?
言われたことが理解できずに顔を
「憎しみを感じるからこそ、相手の愛情の深さが分かる。苦しみを感じるからこそ、相手に寄り添うことができる。幸せとは、人間の正と負の感情どちらも理解することで、はじめて得られるものだ」
正と負の感情。良い感情と悪い感情を理解することで幸せは得られる、ということだろうか。
「そしてそれは、生きていくことでしか得られない、非常に尊いものだ」
尊いもの。千影ははっとする。
千影はその意味が分かる。感情に振り回され、いつしか感情を欠いてしまった自分だからこそ分かること。分からない辛さを知っているからこそ、分かる喜びが分かる。
嬉しさ、楽しさ、悲しさ、苦しさ、憎さ、愛おしさ、そしてまだ私が知らない感情……。すべてが尊い。
「千影さん、君は今この瞬間も、幸せに一歩一歩近づいている。あなたの大切な人の願いを叶えようとしている。自分のことをもっと誉めてあげなさい。今のあなたは憎しみにまみれた汚い人間ではない。愛情深く幸せになれる素質を持った尊い人間だ」
千影は奏太を通して、数えきれないほどの様々な感情を知った。
奏太は分かっていたんだ。
それが全て千影の幸せに繋がることを。
奏太ははじめから、千影の幸せしか考えていなかった。
いつでも千影のことを想ってくれていた。
憎しみですら、今の千影にとっては尊い感情。
死してなお、千影のことを想い続けてくれている。
千影の頬から一筋の雫がこぼれ落ちる。
「っ……! 奏太……、奏太……!」
ついに千影の心の扉が開かれた。
嗚咽が止まらない。溢れる涙を拭いもせず、必死に愛おしい名前を呼び続ける。
手にしていたうさぎの人形を強く胸に抱く。次々とこぼれ落ちる涙の粒が、人形の柔らかい生地に吸収されていく。それはまるで千影の思いのすべてを優しく拭い取ってくれているようだった。
神屋敷は千影が気持ちを出し切るまで、千影をそっと見守ってくれていた。焦ることもなく何かをしようとするでもなく、ただ子どもを見守る親のように、信じてそばにいてくれた。それが千影の慰めにもなった。
身体の中から何もかも吐き出されたことで、やっと答えが見つかった。千影はそれを自分で拾い上げる。
「私、今よりもっとたくさんの『気持ち』を知りたいです。そして必ず幸せになってみせます。奏太の願いを叶えるために、今度は私が、奏太のために生きていきたい」
奏太からもらったたくさんの気持ち、私はこの尊さを絶対に忘れない。
それが奏太の幸せにつながることでもあるから。
千影は胸に抱いたうさぎを、今一度強く抱きしめる。
神屋敷は、千影の決意を前にしてニッコリと微笑んだ。
「うん、そうだね。千影さんならきっと叶えられるよ。何かあったらいつでもここにおいで。君は一人じゃないんだから」
神屋敷との出会いもまた、奏太と出会ったからこそできた繋がり。
離れがたい気持ちってこういうことを言うのかな? もし自分にお父さんがいたら、こんな気持ちになるのだろうか。新しく湧き出た気持ちに、自然と笑みが
(ありがとう、奏太)
もう意識しなくても笑顔が作れるようになったよ。
満開の花を咲かせた千影は、誰よりも尊く美しい輝きを放っていた。
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