プロローグ

 コツ、コツという規則正しい音が静謐な空間を静かに破る。大理石がヒールを弾く音が、まるで水たまりに落ちた雨が作り出す波紋のように、緩やかに反響していく。

 歩く道は陰がほとんどできないほど明るい。太陽の光と間違うほど明るく穏やかな光に、誰もが外の様子を窺おうとするだろう。

 だが、この空間には一切窓がない。

 天国を想像させるような厳かでいて優しい光が差しているようなこの空間を作り出しているのは、何の変哲もないただの蛍光灯だ。しかし、通常設置される蛍光灯の数よりもはるかに多くの蛍光灯が天井に取り付けられている。それにも関わらず、かんさわるようなまぶしさは一切感じられない。以前、ここの電気はエアコンと同じように明るさが調整できると聞いたが、それが関係しているのだろうか。ぼんやりと見上げていた視線を元に戻し、静かに歩を進める。

 ふと、白檀びゃくだんのかすかな香りが鼻をかすめる。

 最初の頃は上品でいてかつ強烈なその独特の香りに毎日頭痛を起こしていたが、今となってはこの香りがこの世で一番自分の気持ちを安らげてくれるものとなった。そして何より、この香りを嗅ぐことが一日の仕事の始まりでもある。

 駅構内にあるコインロッカーがたくさん並んだような場所に着くと、その一つの前で足を止める。

 目の前の扉を開けると、中には白茶けた小さなうさぎのぬいぐるみが白い和紙の上に横たわっていた。フェルトのような柔らかい素材の生地を同じ色の糸で縫い合わせたような簡素な作り。縫い目がちぐはぐで、手作り感満載のマスコット。決して上手とはいえない出来栄えだが、作者の思いがこもった渾身の力作。

 その笑った顔を愛おしそうに撫でた後、片方の腕で抱えていた小さな花束をぬいぐるみの前に置く。そして持ってきた線香にライターで火をつけ、ぬいぐるみの近くに置かれた小さな香炉に線香を立て、手を合わせて目を閉じる。白檀のこうで全身をまとった頃、やっと目を開け立ち上がる。

「安心して。今日も幸せな一日になるから」

 最近やっと動かすコツが分かってきた頬の筋肉を緩め、ぬいぐるみに向けてニッコリと笑いかける。毎日笑い返してくれるうさぎの顔が愛らしい。

 これが「笑う」ということなのだろう。

 自分が今笑えていることへの嬉しさを噛み締めながら、颯爽とその場を後にした。

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