第3話

 波乱の午前授業が終わった後、奏太は今日の午後一の授業で発表するための原稿を家に忘れていたことに気づいてしまった。

 昼食返上でパソコンに向かい、何とか授業を乗り切ることができた奏太は、学食で少し遅めの昼食を取っていた。

 今日の昼食は油そば。具がほとんどないことと引き換えに、ここの学食のメニューのうちで一番の安さを誇っている。油そばなのでスープがないはずだが、なぜか味がすごく濃い。そのため、事前に無料のドリンクサーバーから水を二杯分用意することが必須となっている。そんな事情がありながらも、安さという魅力的な要素を無下むげにする人間はこの学校にはほとんどいないようで、長らくこの学食のおすすめメニューとして名高くあり続けている。

 お昼時を外した学食はがらんとしていた。机を取り囲んでおしゃべりしているグループが少しと、コーヒーを飲みながら一人で黙々と課題に取り組む学生が数人いるだけだった。

 周りがこういう雰囲気だと、麺と水を交互に含むという少し忙しい時間を過ごしている自分が恥ずかしく感じられる。早く食事を済ませて彼らと同じ空間を享受しようと、さらに麺を激しくすすっていると、前方に人の影を感じた。

 奏太が座っていたのは四人掛けの丸テーブル。今は学食が混んでない時間帯なので、狭い一人用のカウンター席のような場所ではなく、テーブルが広々と使えるテーブル席をあえて選んだのだった。

 誰か知り合いかな、と麺を口にくわえたまま目線を上の方に上げた奏太は、その人物の登場に目をみはった。 

 奏太は口にくわえていた麺をスルッと吸い上げ、ほとんど噛まずにそのままゴクリと飲み込む。喉につかえなかったのが奇跡だった。その間も、奏太の目は正面の人物をとらえたままだった。

「ど、どうして、ここに……?」

「……聞きたいことがあるの」

 雪代千影は、そう言って奏太の正面の席にゆっくりと腰を下ろした。


「さっきは嘘つき呼ばわりしてごめんなさい」

 単刀直入に頭を下げてきた千影に、またもや奏太は目を丸くする。驚きすぎて一瞬、何のことが分からなかったが、午前中の英語の授業であったことであることに気づく。

 正直、午後の授業の発表原稿を作るのに必死すぎて、そんなことはもうすっかり奏太の頭から抜け落ちていた。

 奏太は「あ、いや……俺は別に気にしてないから」と慌ててごまかす。

 千影は奏太の返答を気にも止めず、おもむろに話し出した。

「私、施設で育ったの」

 突然の言葉に驚く奏太の前で、千影は淡々と続ける。

「学校でも施設でも、私はずっと一人だった。気持ちを上手く表現することのできない私は、みんなから誤解されることが多くて、いつしか疎まれるようになった。大人も子どももみんな私を避けた。私を見てくれる人は誰もいなかった。……だから、私は分からないの。感情ってどんなものなのか」

 千影の表情は相変わらず読めなかった。悲しいとも寂しいとも主張してこない虚ろな瞳は、どこを見ているかも分からず彷徨さまよい続ける。

 奏太はそんな千影の瞳を何とかとらえる。

「……どうして、そんなことを俺に?」

「あの時、どうして私が悲しそうに見えたの?」

 あの英語の授業が終わった時に問いかけられたのと同じことを聞かれる。

 奏太は千影からの質問の意図が分からなかったが、さっきと同じ言葉を素直に返す。

「だってそう見えたから」

「本当?」

 千影の表情が初めて、期待を含んだものに変わる。

「あなたは私が感情を持っていると、本当に思ってる?」

 なんでこんな当たり前のことを聞くの?

 なんでこんなに必死なの?

 これは千影が望まない愚問。

 奏太は気づいた。千影にとって、感情とは当たり前のものではないことに。そしてそれは千影を他の人間と差別し、千影に孤独をもたらした。

 千影は無意識に恐れているんだ。自分は一生このまま生きていかなければならないのかと。そして自分を信じることすらできないんだ。だからこうして確かめたがっているのだと。

 今、千影にはっきり伝えてあげないと、取り返しのつかないことになる。

 千影はまた、元の人生に逆戻りしてしまうだろう。

 それじゃあ千影が可哀想すぎる。千影はもう、十分苦しんだ。もう救われてもいいじゃないか。奏太は拳をギュッと握り締め千影をまっすぐ見つめる。

「君は感情持たない冷たい人形なんかじゃないよ。人の気持ちが分かる生きた人間だ。俺には分かる」

 どんな言葉をかけたらいいのか分からない。そう思いながらも、自分のできる限りの言葉を紡いで届ける。

「だから、俺が思う思わない以前に、本当のことだよ。君は他の人たちと何ら変わらない、血の通った人間だ。今だってほら、俺には君がなんだか嬉しそうに見えるけど」

 千影が少し目が少し見開かれたように見えた。

 こんなこと言われたの初めて、という感じではなく、そう言ってもらえて嬉しい、というような感じの雰囲気がうかがえる。

 自分の言葉がこんなに相手に響いたことはないだろう。

 千影と話していると、すべてのことが当たり前ではなく、とても貴重なもののように感じられる。

「多分、慣れていないだけだと思うんだ。こういうふうに感じる時は、こういうふうな表情をするとかいうのが分からないだけだと思う。だから人間観察じゃないけど、周りの人の顔をたくさん見ていくといいかもしれない。それと人とたくさん話すことも大事。そうすれば感情というものがどういうものか、もっと分かるようになると思うよ」

 そう、千影は慣れていないだけ。

 人と多く接することができなかったから、感情を出したり受け止めたり、上手くコントロールすることができないだけだと奏太は思う。

 だから、これからたくさんの人の顔を見て、たくさん人と話していけば、千影の望む答えはきっと得られる。

 奏太が千影の分析を進めていると、ふいに千影が口を開く。

「……じゃあ、私はあなたのそばにいたい」

「え……」

 千影の突然の告白に、奏太は開いた口がふさがらない。

 恥ずかしがる様子もためらう様子も見せない千影から何か強い思いを感じ、奏太は顔を元に戻す。

「あなたと一緒なら、私はきっと変われると思ったの。私の中から『本当の私』を見つけてくれたあなたとなら」

 千影を愛おしいと思った。

 この先、自分の手で、千影を守っていきたいと思った。

 この気持ちは決して同情からくるものではない。

 だって、その前からすでに、俺は千影に惚れているのだから。

「君なら……千影ならきっと変われる。俺がずっとそばにいるから」

 奏太は優しく千影に笑いかけた。

 窓から差し込む光が、二人を優しく包み込んでいた。


 それから二人は、多くの時間を一緒に過ごした。

 そしていつしか心を通い合わせ、互いの存在がかけがえのないものになった。

 奏太の存在は、千影のこれまでの人生を埋め合わせるかのように、千影の心に彩りを添えた。

 奏太は、千影が少しずつ、まるで生まれたての赤ちゃんが言葉を覚えていくように、様々な感情を知っていく姿を愛おしく感じた。

 奏太も千影も、この時間が永遠に続くことを願い信じていた。

 しかし、それは無惨にも裏切れることになる。

 千影は程なくして病に倒れ、余命宣告を受けたのだった。

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