第2話

 夏川なつかわ奏太と雪代ゆきしろ千影との出会いは去年の春。お互いに大学生になったばかりの頃だった。

 授業が行われる校舎に向けて、桜が舞い落ちる並木道を何気なく歩いていると、突然、強い風が吹いてきた。思わず両腕で顔を覆った後ゆっくりと腕を下ろすと、目の前に一人の女性が立っていた。

 涼やかな目元と整った顔立ちに、肩に届くくらいのつややかな黒髪を春風になびかせる姿は、桜の精と見紛うほどの美しさを放っている。細い肢体したいを覆うのは、桜の花びらを編んで作ったような薄桃色のワンピース。そしてその上には、春の柔らかな日差しをそのまま溶かしたようなアイボリーのカーディガンを羽織っている。

 目の前の女性は、奏太の前までゆっくりと近づき頭の上に手を伸ばすと、手に掴んだ桜の花びらを奏太に手渡す。

「綺麗ですよね、桜の雨」

 抑揚の無い口から紡がれる澄んだ川のせせらぎのような声が耳に届いた瞬間、奏太はもう目の前の相手から目が離せなくなっていた。彼女が立ち去った後も、しばらくその場を動けずにいた。

 そしてやっと体が動くようになった頃には、1限目が終わっていた。


 奏太が彼女の名前を知ったのは、それからすぐ後のことだった。

 入学後、初めての英語の授業は、一人一人がみんなの前に立って英語で自己紹介をするというものだった。

 英語は得意ではなかったが、なんとか最低限の英語で乗り切った。自分の番が終わって後は適当に座って聞いてるだけでいいやと頬杖をつきながらあくびを噛み殺していたが、ふと聞こえてきた涼やかな声に、ぼんやりとしていた奏太の頭が覚醒する。

「Hello, everyone. My name is Tikage Yukishiro. My hobby is ……」

 黒板に「雪代千影」という達筆な文字が並べられていく。そしてそれとともに、聞き触りの良い流暢な英語の調べに、奏太の周りがにわかにさざめきたつ。 

 みんなは千影の英語力に感嘆しているようだが、奏太は黒板の文字の側に立つ人物しか目に入らなかった。

「ゆきしろちかげ……。雪代千影か……」

 先ほど聞こえてきたローマ字をゆっくりとひらがな、漢字と順に変換してつぶやいてみる。「雪」って漢字は千影の清楚な雰囲気にピッタリだ。「千影」ってなんだか古めかしいイメージがするなぁ等と自分の心の中で密かにコメントする。

 パチパチパチパチ! 不意に沸き起こった盛大な拍手に、奏太は千影の自己紹介がいつの間にか終わったことに気づく。

 賛美の嵐をかいくぐりながら自分の席を目指す堂々とした千影の姿がみんなの瞳に映る。

 しかし奏太には、千影が多くの注目を浴びて恥ずかしげに頬を染めているようにしか見えなかった。

(落ち着いていて自信がありそうだと勝手に思ってたけど、案外恥ずかしがり屋なのかな?)

 千影が自分の席の三つ斜め前の席に着くまで、奏太の目はずっと「ちかげ」を追い続けていた。


 一週間後、奏太は再び千影と話す機会に恵まれることになった。

 奏太と千影が唯一一緒の空間にいることを許される英語の授業。その日は隣の人と二人一組になって、行ってみたい国や行ったことのある国について理由や感想を英語で伝えてみようという授業だった。

 奏太の相手は黒縁メガネをかけた清潔感のある装いの青年。青年は一つ開いていた席を詰めて奏太の隣の席にくる。

「よろしく。実は俺、海外行ったことないんだ。……どっか行ったことある?」

「俺もない。ずっと日本」

「はは、同じだ。やっぱ、日本って良いよな」

 無駄な話はしないタイプだと思っていた相手の発言に奏太は少し驚く。それと同時に、一度も話したことがなかったが、青年のフレンドリーで気さくな感じに好感が持てた。向けられた頼り甲斐のあるまぶしい笑顔に、憧れに似た気持ちが湧き起こるのを感じる。相手の笑いに誘われるように、奏太も一緒になって笑う。

「そんな顔で見ないでよ!」

 教室全体がそれとなく盛り上がっている中、突如、甲高い声が響く。

 騒がしかった教室が、一気にしんと静まりかえる。

 そして全員の視線の先には、目に涙を浮かべた女の子と千影の姿があった。

 二人の元へ慌てて駆けつけた先生から片言かたことの日本語が聞こえてくる。

「ドウシマシタ? ミズ・ノムラ?」

「雪代さんが……私が英語が全然話せないことを責めてくるんです。ずっと睨みつけるように、先を急かすような態度を取られて……。確かに雪代さんは英語ができるから私みたいな人と一緒にいてイライラするのはしょうがないけど……でも私だって一生懸命頑張ってるのに……」

 ノムラはわあっと泣き出し、両手で顔を覆ってしまう。

 まるで小学生だな。大学生とは思えない泣きっぷりを見せるノムラを見て、奏太だけではなく周りからも呆れたようなため息がこぼれる。

 しかし、そうであってもノムラが泣き出すような状況を作り出してしまったのがあの千影であることもまた事実。

 ノムラの話を聞いた先生は、今度は千影の方へ話の真偽を確認しようとする。

「ミズ・ユキシロ、ミズ・ノムラの話は本当ですか?」

「いいえ、本当ではありません。私は責めたり睨みつけたりといったことはしていません」

「嘘よ!」

 ノムラが涙の跡が残る顔を千影の方へ向け、キッと睨みつける。

「今だって、馬鹿にしたような顔してるじゃない! そんな目で見ないで!」

「馬鹿になんかしてない。むしろその逆。ノムラさんの英語、すごくよかった。確かに英語が苦手な感じはしたけど、飾らない綺麗な英語がノムラさんらしくて私は良いと思った」

「ふん、そんなこと急に言うなんて弁解のつもり? そんな淡々と私のことを褒めたって、雪代さんの弁解を受け入れる人は誰もいないわよ」

「弁解じゃなくて、私は本当に……」

「だったらどうして雪代さんの顔には感情がないの?」

 二人の席と奏太の席は机八台分くらい離れていたが、奏太の目には、ノムラの言葉に千影の目が大きく見開かれたことが確認出来た。そして千影の顔がかすかにくしゃりとゆがめられたのが分かった。

 砂時計から落ちる砂のように、千影をまとっていた何かが少しずつ崩れていくような危うさを感じた奏太は、思わず席を立ち上がる。そしてそれは授業終了のチャイムが鳴ったのとほぼ同時だった。

 張り詰めていた空気が逃げ場を見つけたように、一連の騒動を見守っていた学生たちはバラバラと席を立つ。彼らはさりげなく騒動の中心人物二人の姿を見ながら、次の授業に向け続々と教室を後にしていく。

「ノムラさんってああいう人だったんだね、ちょっとめんどくさそう」「雪代さん、巻き込まれてかわいそうだったね」「でも雪代さんも誤解を生むような態度を取ったのはどうかと思うけどな」

 聞こえてくる声を右から左に聞き流しながら、奏太はまだその場に立っていた。

 すでにノムラは千影の前から姿を消しており、先生も微動だにしない千影への声掛けを諦めたのか、次の授業のためか、足早に教室を後にしていた。

 教室には奏太と千影だけが残っていた。

 奏太は千影との距離をゆっくりと縮めていく。そして緊張する鼓動を落ち着かせながら、恐る恐る口を開く。

「あ、あの……大丈夫?」

 相手から返事が返ってこないことに少しひるむも、めげずに続ける。

「ええと、その……。そんなに悲しまないで」

 奏太の言葉を聞いて、千影がやっとかなしばりから解けたように身動きを始める。そして奏太の顔をじっと見上げる。

「私……今、本当に悲しそうに見える?」

 感情が抜け落ちたような表情と抑揚のない言葉で問いかけられ一瞬たじろぐも、奏太はさっき千影から感じた悲しそうでいて苦しそうな何かを思い出し、ゆっくりと首を縦に振る。

「どうしてそう思ったの?」

「だってそう見えたから」

「……嘘つき」

 千影はそう短く言い放った後、逃げるように教室から出ていった。

「もしかして、俺、なんかまずいこと言っちゃった……?」

 千影の発言の意図がまったく分からない。

 奏太はまたもやその場でフリーズすることになった。

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