第26話
「……だから、その……泣かせてごめん。それと……ありがとう」
少し大人になってから言葉にする「ごめん」や「ありがとう」が、こんなにも気恥ずかしいとは思わなかった。アキラは顔を赤らめ幸香から視線をそらす。
でも、伝えてよかった。
もう後悔はしたくない。母さんに伝えられなかったことを、これから人生をかけて返していくんだ。
アキラがそんなことを考えていると、自分の身体に急な衝撃を受ける。それが自分の胸に飛び込んできた幸香のせいであることに気付くのに少し時間がかかった。
家では嗅いだことのない甘い香りと柔らかい感触を感じた瞬間、アキラはおもわず慌てふためく。
「お、おい! 幸香!? い、いきなりどうしたんだよ!?」
「……」
そのときアキラの耳に何かをつぶやく幸香の声が聞こえた気がしたが、それも一瞬のことだった。すぐにその温かいぬくもりが離れていくのを感じた。
それからのことははっきりと覚えていない。
気付けば目の前から幸香がいなくなっていた。
結局、渡せなかったハンカチを鞄の中にしまう。少し残念な気持ちもあったが、それ以上に今のアキラの心は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
味方がいること、大切に思ってくれている人がいること、それが分かっただけでもアキラにとっては救いだった。
久しぶりに上がった口角にピリッとした痛さを感じながらも、その嬉しい痛みをじっくりと噛みしめる。
そしてそのまま帰ろうと、地面に置いた荷物を拾い上げた時、制服の胸ポケットから何かがこぼれ落ちたのを視界の隅で捉える。
コロンと転がったそれに手を伸ばし、少し付いてしまった土を払いながらまじまじとそれを見つめる。
「虎……?」
それは虎の姿形をした手のひらサイズの小さな人形だった。人形というよりもぬいぐるみやマスコットと言った方が合っているような、そんな感じのものだった。
だが、見た目はそれらの呼び名が似合わないほどリアルに作られていた。
今にも動き出しそうなしなやかな体躯に、思わず触りたくなるようななめらかな毛並み。そして街灯の明かりを反射してキラキラ光る賢そうな瞳。お店で売っているよりも精巧な出来であると感じる。
これがかろうじて手作りだと分かったのは、上手く隠されていたが縫い目が少し見えたことと、既視感を感じたからだ。
(この虎、小さい頃に幸香の家で見たことがあるような……そうだ、確かトイレを借りたときに見たあれだ!)
確かぬいぐるみ作家である幸香の母親が作ったものだ。それとすごく作りが似ている。きっとこれは幸香が作ったものなのだろう。でもどうしてこんなものが自分の制服の胸ポケットに?
これは幸香からのプレゼントだろうか? それとも別の誰かが入れたのだろうか?
そんな疑問を持ちつつも、手のひらの上で小さいながらも存在感を放つ虎に改めて感嘆の目を向ける。
(そういえば、あいつの夢もおばさんと同じぬいぐるみ作家だったな……)
虎の頭の上にはボールチェーンが付いており、バッグやポーチに付けられるようになっていた。アキラは早速持っていた通学用リュックに付けようとして、やめた。
(何考えてんだ、俺……。幸香が俺にプレゼントなんて、今更ないだろ……いや、プレゼント以上のものをもらったか……じゃなくて!)
考えた末、制服の内ポケットにしまうことにする。明日、返そう。
制服の外側から人形に触れる。なんだか温かいものが自分の中に流れ込んでいるような、そんな不思議な感覚がした。
そしてその感覚に呼応するかのように、不意に明るい光を感じて空を見上げる。
アキラは空に浮かんだまん丸い月をもうしばらく眺めていることにした。
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