第25話
「幸香! ちょっと頼みたいことがあるんだけど!」
階下から聞こえる母の大きな声で目が覚める。
いつの間にか寝落ちしてしまっていたようだ。
さっきまで明るかった空はすでに濃い藍色に染まり、ところどころがキラキラと光っていた。
顔のそばに放られていたスマートフォンの待機画面を確認する。
ブルーライトの強い光に目をすがめながら、今がもうすぐ夕飯時の時間帯であることを知る。
幸香は寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドから重たい足を下ろし、よろよろと自室を後にする。
台所では母が家族のための夕食をこしらえていた。
眠そうな幸香の顔を見た母は、すぐに鍋の方へ視線を向け直し呆れたように言う。
「あら、もしかして寝てたの?」
「うん、ちょっと……」
「夕飯の前に寝ると、ご飯食べられなくなっちゃうじゃない。……まあ、それはともかく、幸香、ちょっとお醤油とみりん買ってきてくれないかしら?」
幸香の手に千円札が渡される。
「余ったお金は幸香の好きにしていいから」
「はーい」
眠気覚ましと気分転換にはちょうどいいか。
幸香は素直に承諾し、買い物袋を手に家を出た。
近所のスーパーでおつかいを済ませた幸香は、自宅に向けて車が行き交う道路沿いの道をてくてく歩いていた。余ったお金で買ったスナック菓子が、歩く振動に合わせてカサカサと音を立てる。
路地を曲がりしばらく歩いたところで、小さな公園が見えてくる。幸香は先日のアキラとの記憶を思い出さないように、下を向いて早足で通り過ぎようとする。しかし、公園の入り口近くに差し掛かったところで、大きなの声に呼び止められる。
「幸香!」
街灯が点々と灯っているものの、やはり付近は相変わらず暗い。恐る恐る振り向いた幸香は、声の方向を向いた瞬間、目を見開く。
「アキラ、くん……!」
そこには、街灯の光に淡く照らされ息を切らしたアキラの姿があった。
アキラはブレザーを脱いだ状態の制服姿だった。腕まくりした制服の袖で額の汗を拭っていた。
もう大分、夜も深まっていた。どうして制服姿のまま公園にいるのだろうと思った幸香の疑問を先回りするかのように、アキラが口を開いた。
「ここにいたら、会えると思ったから」
「どうして……」
アキラはズボンのポケットからがさごそと何かを取り出す。
「これ……」
差し出されたものに幸香は目を瞠る。
(これって……私のハンカチ!)
アキラの手には、粉々に破れてしまったはずの水色のハンカチがあった。
驚く幸香の様子を見ながらアキラはおもむろに口を開く。
「あの時、お前が落としてったの拾った。血とか泥とかけっこう付いてたから……とりあえず洗濯して今日返そうと思ってたら……教室に着いた途端、アイツらにからまれて……。奪われた」
アキラは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「俺にはお金もないし元通りに直せる力もない。でも、母さんのがあったから。もう何年も使ってないからすこし埃っぽいかもしれないけど……」
幸香は差し出されるものを受け取らず、かわりにアキラの目をまっすぐ見据える。
「こんなの受け取れない」
「何でだよ」
「だってそれはアキラくんのお母さんの形見でしょ? 私が受け取れるはずないじゃない!」
アキラの母親はアキラが中学生に上がる頃、病気で亡くなった。
幸香にとっても幼い頃からよくお世話になった人で、アキラに似て優しくて美人なおばさんだった。それだけに、アキラの母親の死には、相当なショックを受けた。
アキラの家はもともと母子家庭であったため、母親亡き後アキラは同じ地域に住む母方の祖父母の家に引き取られた。
幸香とは違い不幸な身の上のアキラ。
それでもアキラは自分の友達や幸香を守るために、毎回必死になって戦ってきた。
「……どうしてそこまでしてくれるの?」
どこからともなく言葉が漏れる。
自分の方が辛いはずなのに、アキラはどうして他人に優しくすることができるのだろう?知りたかった。
「どうしてボロボロになってまで、他人のことを必死に守ろうとするの?」
「幸香は他人なんかじゃない。もちろんバスケ部の連中だって……」
「他人よ!」
幸香の剣幕にアキラは目を丸くする。
「アキラくんが辛い目に遭っているのに、助けようともせず傍観しているだけの私たちなんて友達でも何でもない、ただの最悪最低な生き物じゃない!」
悪いのは自分だって分かってるのに、またひとりでに涙がこぼれてくる。
幸香の様子にアキラは肩をすくめる。
「また泣くのか? まったく、何年経っても変わってないんだな……」
アキラはそう言って手に持っていたハンカチを幸香の手に押しつけてくるが、幸香は受け取ろうとしない。
アキラは仕方なくハンカチをポケットにしまおうとして、おずおずとハンカチを握るその手を幸香の頬に添える。
「怒ったり泣いたり忙しいやつだな……」
そう言いながらもアキラは幸香の頬を伝う滴を優しく拭っていく。ハンカチのふんわりした柔らかさが幸香の心を慰める。
「確かに友達に裏切られたり幼馴染に見放されたと思った時は、正直すごく傷ついた。でも、今、幸香の言葉を聞いて、なんかすごく救われた」
アキラの言葉に涙を流しながらも幸香はきょとんとする。
瞳にまだたくさんの涙を浮かべて見上げてくる昔と変わらない幼馴染の顔に懐かしさを感じ、アキラの顔に自然と笑みがこぼれる。
「幸香は傍観者なんかじゃない。傍観してないから、俺のことを思ってくれているから、そう言う風に言えるってことだろ? 俺はもう、後悔する人生だけは送りたくないんだ。憎しみだけ抱えて生きていくだけ損だろ? だから、その……泣かせてごめん。それと……ありがとう」
アキラは顔を赤らめ幸香から視線をそらす。
後半は声が小さくてよく聞こえなかった。でも確かに聞こえた。
人が人生の中で、おそらく最も口にする言葉でもあり聞き慣れた言葉。
だが、幸香にとっては違った。
気付けば身体が勝手に動いていた。
「お、おい! 幸香!? い、いきなりどうしたんだよ!?」
幸香はアキラの背中に手を回しある言葉を小さくつぶやく。
そしてアキラの制服の胸ポケットにあるものを忍ばせ、アキラの身体から離れる。
アキラから離れた幸香は不意にアキラの赤い顔を見てはっとする。
(そういえば、私、なんてことを……)
両手で自分の頬を挟みこみ、心の中で絶叫する。
今考えたらすごく恥ずかしいことをしてしまったような気がする。いくら泣いていたとはいえ、いや、泣いていたからこそ、より恥ずかしいのでは……。
「ア、アキラくん……えっと、今のはその……」
幸香の焦る声にも、アキラは上の空といった感じで固まっている。
そんなアキラの様子にも構わずに、幸香は一方的に告げる。
「あの、ごめんなさい! お願いだから、今のは忘れて……!」
幸香は全速力でその場から駆け出す。
滑り込むようにして自宅の扉を開け後ろ手に鍵を閉める。
母のおつかいで買ってきたものを袋ごと台所の棚の上に置き、二階の自室に戻る。
部屋の扉を背にしたまま、ずるずるとその場に座り込む。
心臓があり得ないほどの速さで波打っていた。
恥ずかしいし照れくさいし、明日アキラに会ったらどう接すれば良いか分からない。
でも、後悔はなかった。
幸香は暗い部屋の窓からのぞくまん丸い月をいつまでも眺めていた。
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