第41話
「ぐわっ!」
突然感じた胸の痛みに、意識せずとも目が覚める。
(な、なんだったんだ!? 今の鋭い痛みは)
跳ね起きた富小路は、痛みを感じた自身の胸あたりに手をあてる。
先ほどのような痛みは感じないものの、何かべっとりと湿っている感触が手から伝わってきた。
何だろうと思い、胸に当てていた手を目の前に戻した富小路は、信じられない光景に目を丸くする。
「な、なんだ、これは!?」
真っ赤に染まった自分の手に、富小路の全身がビクッと震える。
富小路の手を真っ赤に染め上げていたのは、血液だった。
思わず首を前に倒し自身の胸元を確認すると、黒いジャケットの下の白いYシャツに赤黒い大きなしみが出来ていた。
見たこともないようなおどろおどろしい光景に、秀才と言われてきた富小路の脳の動きが一瞬停止するも、血塗られた手の感触への気味悪さに、再び富小路の脳が働き出す。
(これは夢か? いや、あの時の痛みは夢で感じるようなレベルのものではない。じゃあ、どうして痛みを感じないのに服に多量の血の跡が付いているんだ?)
何かが背中をつーっと伝っていくような気持ち悪さと、身に起きていることの原因が分からないことへの不安や焦燥感から、富小路は座っていた腰を無理矢理立たせる。
額から伝っていた冷や汗を腕で拭った後、何気なく周囲を見回した富小路は、さっきまでと景色ががらりと変わっていることに気付く。
「な!? ここは一体どこだ?」
外から漏れてくる少ない光が、周りを淡く照らしていた。富小路はかろうじて見える周囲に目をこらす。
割れた窓ガラスに倒れた机。壁面の塗装は荒く剥がれており、地面は広く埃をかぶっていた。人の気配は何も感じられず、時折聞こえてくるのは車が走って行く音だけだ。どこかの廃工場だろうか。
富小路がゆっくりと周囲を見回していると、カツ、カツというヒールが地面を穿つような足音が近づいてきた。
「……やはり二度、殺す必要があるみたいですね」
その人物は富小路の前で足を止めると、腕を軽く組み、どこか興味深い声を漏らす。
聞き覚えのある声に目を向けた富小路は、静かに息を呑んだ。
「……永守、くん……?」
驚愕の色を含んだ富小路の視線に、永守は口元に薄い笑みを浮かべる。
「こ、ここはどこだ? これは一体どういうことだ?」
富小路の言葉には答えないまま、永守は小馬鹿にするような口調で面倒くさそうに口を開く。
「やっとお目覚めですか、先生? 随分疲れが溜まっていたようですね。まあ、おかげ様であなたを一度殺すことに成功しましたけど」
「何!?」
どこか見下すような視線を向けてくる永守の手に、何かキラリと光るものが握られていることに気付く。永守の手の内から赤黒い液体が滴り落ちるのを見て、富小路は自分の身に起きたことを知る。
(まさか、この胸の血は……)
「『身代わり』サービス、ちゃんと機能するんですね。私、そんなの眉唾物だって、実は信じてなかったんですよ」
永守は富小路の狼狽ぶりを楽しんでいるかのように、口角を上げる。
富小路は自分の置かれた状況を知り、慌ててボディーガードの名を呼ぶ。
「さ、鮫島! 鮫島はどこだ?」
「ここにいます」
間髪入れずに聞こえてきた声に、富小路は安堵の色を示す。
「よかった、そこにいたか。私は後一回殺されたら死ぬ。だから……」
ふいに富小路の声が途切れる。
「な、何をする!?」
次の瞬間には、富小路は鮫島によって羽交い締めにされ、身動きが取れなくなっていた。首筋に当てられた刃物の冷たく鋭い感触に、富小路の額から汗がこぼれ落ちる。
相変わらず余裕を見せている永守と自分の身を封じる鮫島の行動から、富小路は最悪の展開を確信する。
「……まさか、この私がまんまとだまされるとはな」
秘書とボディーガードの裏切りに驚きを感じながらも、富小路から漏れ出た声は意外と落ち着いていた。日常的に駆け引きを求められるような世界に身を置く富小路にとって、毎日が非日常的だ。そのため、今自身の身に起きていることも、始めこそ臆するところがあったが、すでにその動揺は収まりつつあった。
自分の身に起きたことや永守らの裏切り等、少しずつ事の全容が見えてきた富小路は、これまで自分を狙ってきた人間たちへ問いかけたのと同じ言葉を相手に投げかける。
「……望みは何だ? 金か?」
「海良汚職事件」
「かいら?」
永守から返ってきた答えは、しかし、富小路が予想したものとは違っていた。
見事に裏切られた予想と聞き慣れない言葉に、富小路は思わず首をかしげる。
(かいら……海良……ん? 海良と言えば確か……)
富小路は記憶の奥底に沈んでいた人物の顔をなんとか引っ張り出す。
「ああ、思い出したぞ。国家公務員、
パアンッ!!
突然、小気味よい音が無機質な空間に響き渡る。
思い出せないことが思い出せたことへの満足感を漂わせた富小路の笑顔は、次の瞬間には苦くゆがめられていた。
富小路はじんじんと痛みを感じてきた頬に手を添え、自分の頬が永守にはたかれたことを悟る。
永守は鮫島に身体を拘束され続けている富小路との距離をつめ、恨みのこもった視線を向ける。
「本当に面の皮が厚いのね。あなたを守るために戦った人間を、あなたは簡単に切り捨てた。そして濡れ衣を着せた上、死に追いやった……。私は絶対にあなたを許さない」
まっすぐに向けられてくる底知れない憎悪の色が、富小路の記憶の中の人物と重なる。
「その目……見覚えがあるぞ。ひょっとして、お前は海良の子供か!」
目の前にいる永守の顔が、一緒にこの国を変えていこうと誓い合ったかつての同胞のりりしい笑顔に重なる。富小路は少しく感慨にふけるも、相手はそれとは逆のものを一心に向けてくる。
「今更どうでもいいことだわ。これからあなたに待っているのは死だけなのだから」
そういってさらに間をつめてくる永守に富小路は抵抗の意を示す。
「誤解してもらっては困る。私が金を受け取っていたことを黙っていた海良にも責任はある。知っててどうして私を止めなかった? それはあいつも私と同じ側の人間だったからだ。自分たちの父親だから信じたくない気持ちは分かるが、腹黒くない政治家はこの世にはいないんだよ」
富小路の馬鹿にしたような発言に、永守はついむきになって反発する。
「父さんはあなたとは違う! 清い志を持った優しい人だった。あなたを最後まで信じていた。なのに……」
「ふん、自分たちの父親を美化することがそんなに楽しいか。全く、世も末だな」
「……あなたみたいな腐り切った人間は、これからの世の中には必要ないわ。……兄さん」
「『兄さん』、だと? う゛……く、苦しい……」
永守の言葉を受けた鮫島が富小路の腕をさらにきつく締め上げる。
「あら、言ってなかったかしら。鮫島は私の実の兄よ。これは私と兄が何年もかけて立てた壮大な復讐劇。私たちははなからあなたを守る気なんてさらさらないのよ」
永守が富小路の首元にナイフを突き立てる。そしてその口からは静かな死出の旅路への贈り言葉が紡がれる。
「……あなたの罪は死んでこそ償われる。来世こそは善人として生まれ変われることを祈ってるわ」
バアン!!
祈るような言葉とともに、永守がナイフの持ち手に力を込めた時、耳をつんざくような大きな音が響く。あまりの大きさに耳を押さえる暇もなかった永守は、その衝撃音に腰を抜かしてその場に座り込む。
「一体何が……。あ、兄さん!」
鼓膜が破けるような大きな音で引き起こされた頭痛に耐えながら永守が前方に視線を向けると、富小路の動きを封じていたはずの鮫島が倒れていた。
「兄さん! しっかりして! 兄さん!」
未だはっきりしない頭を片手で押さえながら、よろけた足取りで鮫島の元に駆け寄るが、鮫島の意識はすでになかった。
徐々に冷たく青白くなっていく兄の様子を狼狽える永守に、呆れたような声が落とされる。「全く、身の程知らずの兄妹だ」
永守が視線を横に移すと、富小路がやっと解放された腕を軽く回しているところだった。そして手に握られているものが銃だと分かった瞬間、先ほどの大きな音が発砲音で、鮫島が撃たれて倒れたのだと理解する。
富小路は準備運動を終えると、ゆっくりと銃口を永守に向ける。
「常に命を狙われている私が、普段何の装備もせずに外出していたと思うかい?」
富小路の瞳が冷徹な色を帯びる。怯えた目でこちらを見つめる永守にあえて見せつけるように、富小路はゆっくりと銃のセーフティを解除する。
「……そんなに怯えることはない。これからすぐに君をお父さんとお兄さんの元へ送ってあげるから安心しなさい」
トリガーを引いた瞬間、発砲音とともに永守の身体が真後ろに倒れる。
富小路は短くため息をついた後、手に持っていたものを懐にしまい、すぐに踵を返す。
「さて、薄井くんとの約束を果たしに動くとしようか」
ジャケットについた埃を軽く払いながら、富小路は血のにおいが立ちこめる空間を後にした。
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