第42話
夜もすっかり更けた頃、千影は業務報告をするべく神屋敷のいる社長室に向かっていた。 社長室への道のりはどことなく暗かった。消えかかっていたりもともと多くない蛍光灯の明かりが照らす薄暗い空間に、千影の足音だけが響く。
社長室の前に到着した千影が扉をノックすると、中から神屋敷の声が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」
すでに真夜中といってもいい時間であるにも関わらず、神屋敷は一人執務机に向かって仕事をしていた。
千影は執務机の方に近づくと、神屋敷の姿に少し違和感を感じた。雰囲気はいつもと変わらないはずなのに、何かが違う。よく見ると、その原因が神屋敷が掛けている銀縁眼鏡にあったことに気付く。
毎日顔を見合わせる事がないくらいなのに、神屋敷が眼鏡を掛けることがあることを千影は知らなかった。まだまだ若いはずなのにもう老眼が始まったのだろうか。
いつもだったらそんな疑問をすぐにぶつける千影だが、今日はそうもいかなかった。
千影が執務机を挟んで神屋敷の目の前に立つと、神屋敷は机に視線を向け続けながら口を開く。
「……彼は楽に逝ったかい?」
神屋敷は千影がここに来た理由を分かっていた。
分かっていたのにも関わらず、神屋敷からそうした発言が出たことに、千影は血が沸騰するのを必死に抑える。
「ナイフで心臓を一突きされたので、楽ではなかったと思います」
「そうか……」
「そうか、じゃないでしょう!?」
意図せず飛び出た声は怒りで震えていた。
「どうして毎回そんな質問するんですか? 身代わりとなった人間が楽に死ねるわけないのは、社長が一番わかってるはずじゃないですか!」
千影は、胸の痛みに必死に苦しんだ末に息絶えた薄井の最期の姿を思い出す。
生きていても辛いだけだからと盛んに口にしていたのに、動かなくなった薄井の目は何か心残りがあるかのように目を見開いていた。
輝きをなくした何も映さない瞳の上にそっと手を滑らせ、目を閉じさせる。そしてそのまま薄井の両手の平を胸の上に重ねた。
血の通っていない冷たい肌の感触に、胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。
さっきまで一緒に楽しくおしゃべりしていた人が、今はもうぴくりとも動かない。
自分はこうしたことにある程度は抵抗があると思っていた。相変わらず人の気持ちには疎いし、なかなか理解できないことも多い自分は、普通の人より心が渇いているのだと思っていた。
だけど、そうじゃなかった。
千影は激しく動悸する胸の鼓動を落ち着かせようと、自分の胸を手で押さえる。
こんな気持ちを感じるのは初めてかもしれない。
いや、そうではなく、やっと分かりはじめてきただけかもしれない。
千影は大きく深呼吸すると、神屋敷に向き直る。
神屋敷は千影が落ち着くのを待っていたかのように、先ほどの千影の言葉に応える。
「いいや、分かってないから聞くのさ。彼らの苦しみを理解することは誰にもできない。だが彼らの苦しみを忘れないことはできる。我々は生きていけるのは、いつだって彼らという死体の山の頂点に立っているからだ。……その山の高さが計り知れないことを、我々は忘れてはならない」
神屋敷の言葉に千影は大きく目を見開いた後、短いため息をつきながら軽く肩をすくめる。 神屋敷は千影以上に、否、この世の誰よりも、彼らのことを深く思い理解していた。
そして彼らの苦しみとその責任を、自分一人で一心に背負っていることも。
いつも爽やかな笑顔でどんな依頼も難なくこなす自分の上司を、千影はとても誇らしく感じた。
「まったく……素直じゃないんだから」
千影のこぼした言葉を気まずそうに聞き流しながら、神屋敷は話題を変える。
「ゴホン、それで、富小路先生の方は動き始めたかい?」
「はい。そのようです」
「先生は契約書の内容を毎回ちゃんと読んでいるのだろうか?」
「さあ? いずれにしろ、私の仕事は変わりません。いつでも動けるよう準備しておきます」
「ああ、いつも通りよろしく頼むよ」
神屋敷の顔にはいつもの爽やかな笑顔が浮かんでいた。
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