第34話

 富小路とみこうじ栄蔵えいぞう御年おんとし60歳。

 国会議員としてのキャリアはすでに30年以上。若い頃から国のため国民のためにその身を捧げてきた。

 一つの職業に留まり続けてきた人間は、今も昔も決して多くはない。継続勤続年数が3〜5年で長いといわれている今日、富小路が国会議員として国や国民に還元してきたものは大きいと言えるだろう。

 しかし、国会議員が国や国民に還元するものは、いつの日も必ずしもプラスの作用を及ぼすものであるとは言えない。この世の中にはたくさんの人がいて、みんな一人一人異なる考えを持っている。そのため一つのものに対して意見が分かれることは必然的であり、その結果、どちらかが喜びどちらかが悔しい思いをすることもまた必然的に起こることに他ならない。

 そしてその悔しさが憎しみに変わりうることも、古くから変わらないどうしようもない悲しい人間のさが

 国会議員をはじめとする政治家の中には、そうして向けられた負の感情から身を守るためにボディーガードを雇う人間も少なくなかった。

 富小路は動かしていた筆を止め、懐から長年愛用している茶色の革のシガレットケースを取り出す。タバコ一本口にくわえると、すぐ傍からライターの火が差し出される。すぐに白いフィルターにじわりとした赤い光がともった。富小路はそれを味わうように吸った後、ゆっくりと白い煙を吐き出した。

 密室の執務室に白い煙が充満する。執務机の横に控えるボディーガード・鮫島さめじまは、部屋を満たしていく強いタバコの匂いに顔色一つ変えずに静かに立っていた。スーツの上からでも分かる隆々とした筋肉は、誰が見ても一目でそれが良質で鍛え抜かれたものであることが分かるほどだった。

 執務室は静かだった。洋風にしつらえられた室内の煌びやかさがやけに騒々しく感じられた。

 不意にほのかな明かりを落とすシャンデリアの輝きが小さく歪む。そのわずかな変化に屈強な戦士の鋭い視線が執務室の扉に素早く向けられる。途端に扉を小さく叩く音と聞き知った声に、鮫島の警戒が緩む。

「先生、お休みのところ申し訳ございません。永守ながもりです。急ぎお伝えしなければならないことがあり……」

「構わない。入りたまえ」

「……失礼します」

 ロングヘアを一つにまとめ、品の良い紺色のスーツに身を包んだ女性——秘書の永守が入室してくる。

「また例の手紙かね?」

「はい……」

 永守は抱えていた茶封筒の中身を富小路に差し出す。

 富小路は吸っていたタバコを陶器の灰皿に捨ててから、永守から用紙を受け取る。そして内容に軽く目を通すと、すぐに執務机の上に放り出す。

「今月でもう3回目か……。まったく、手紙の主は相当暇を持て余しているようだ」

 放り出された用紙には、大小様々な紙の切れ端のようなものがまばらに貼られ、その一つ一つに文字が書かれていた。いわゆる怪文書のようなものだ。茶封筒に書かれていたのは宛名だけだった。

 永守は怪文書を手に取り、不安そうな表情を浮かべる。

「これは……数を追うごとに内容が過激になっているように見えます。先生、ここはもう警察に相談するしか……」

「警察はダメだ、私が長年築いてきたものに傷が付く可能性がある」

 まだ現役とはいえど、富小路が歩んできた道のりは長い。そしてその分だけ踏んできた花や植物も多い。

 永守は富小路から返ってくる答えを予想していたがごとく、すぐに代替案を提示する。

「それでは鮫島のような者をもう一人雇いましょうか?」

「いや、周りに人を増やしても殺られる時は殺られるものだ」

 富小路は懐から2本目のタバコに手を伸ばす。先ほどと同じように、側に控えていた鮫島からライターの火が差し出される。

 優雅に煙を吸っている富小路とは反対に、永守が困ったように富小路に迫る。

「そんな……。ではどうすれば……」

「永守くんは心配性だな。そんなに心配するようなことでもないよ」

「そんなことありません! 先生の身にもしものことがあったら、私や鮫島の立つ瀬がありません。だからどうか、御身を大切になさってください」

 永守の必死の言葉と無言で頷く鮫島の姿に、富小路の頬が緩む。

「フフ……さっきのは冗談だよ。君たちには悪いことをした」

 富小路はそう言いながら、執務机の引き出しから名刺ケースを取り出し、中から取り出した一枚を永守に差し出す。

「では、永守くん、ここへ連絡してくれるかね?」

「『株式会社スケープゴート』、ですか? こちらの企業は一体どういう……?」

「ここのサービスを利用すれば、万事解決するだろう」

 富小路の自信に満ちた顔に、永守はこれ以上の質問を止める。

「……承知いたしました。明朝、連絡を取ってみます」

「頼んだよ」

 富小路は立ち上がり窓際へ向かう。

 タバコをふかしながら、窓の外に広がる都会の煌びやかな夜景に目を落とす。

 外から漏れてくる光が、富小路の瞳にある種の興味の色を浮かばせていた。

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