第37話
何も言えなかった。薄井の気持ちは本物だ。時折見えた彼の苦悩の表情は、永守に地獄の苦しみを感じさせるような、そんな耐え難いほどの苦しみを垣間見せた。
言葉をなくした永守を少し見やった後、神屋敷は先ほどの説明への補足を始める。
「我が社は自殺願望者を多く採用しております。彼らの大半は真面目で素直で純粋な心を持つ優しい人間です。自分のために死ぬことよりも、他者のために死ぬことを選びます。そしてその選択は、彼らに死への恐怖や人生への絶望ではなく、幸せや希望をもたらします」
神屋敷の言葉に気を取り直した永守は、説明に納得いかない様子でまたもや反論を試みる。
「しかし、だからといって、身代わりとなって死ぬことが幸せや希望をもたらすメリットとなりうるとは、どうしても思えません。結局、身代わりとなる本人は死んでしまうんです。この世から消えてしまうんです。死んだら幸せも何も意味がないじゃないですか? 生きてこその幸せです」
そう、死んだら全てが無に帰してしまう。生きている時に望んだ幸せも希望も、生きてこそ手にすることができるもの。
「その通りです。そのため、その幸せを享受するのは身代わりとなった人間ではなく、この世に残された人間、つまり今なお生き続けている人間に対してもたらされます」
「つまり、身代わりとなる方が受け取るはずだった幸せは、他の方が受け取ることになるということですね? 薄井様、あなたはこれに納得できているのですか?」
永守が薄井に問う。手に入れられるはずだった幸せの権利が、第三者の手に渡ってしまうことに、あなたは本当に納得できるのかどうか、と。
しかし薄井から帰ってきた答えは、例の如く、永守が予想したものとは正反対のものだった。
「はい、納得できます。僕はもう、この世知辛い社会では生きていけない。今すぐにでもこの命を断ちたいと、そう思ってます。だからその幸せになる権利は後世を生きる人々に渡したい」
「でも今のお話だと、社会が変われば、薄井様ご自身の死にたいという気持ちもなくなるのではないでしょうか?」
「僕たちは自分で自分を殺そうとしてるんじゃない、社会が俺たちを殺そうとしているんです。でも、そんな社会を変えることは一朝一夕で実現することじゃない。時間とお金はもちろん、場合によっては法律や権力などの大きな力も必要になるでしょう。そうなると、僕たち一般人にはとても太刀打ちできない。だからそれは力のある人間にやってもらう」
「力のある人間とは?」
「私みたいな人間のことだよ」
「先生……!」
それまで薄井と永守のやりとりを静かに聞いていた富小路が、ゆったりとした口調で口を挟む。
「私が身代わりとなる彼の代わりに、彼の願いを叶えるんだ。地位と権力と財力で持って、彼の願いを叶える。これが私が払う対価だ」
富小路が自分の使命を高らかに宣言する。まるで選挙の演説のような妙な説得力と迫力が、富小路から溢れ出ていた。
薄井は富小路の言葉に背中を押されたように、ついと一歩前へ踏み出す。
「僕は……自分みたいな人間をこれ以上増やしたくない。同じ思いをさせたくないんだ。そのためにもこの社会が幸せになるように変えていく必要がある。それが叶うなら、自分の命を賭けることくらいどうってことはない。僕が願うのはただ一つ、僕が生きていくはずだった社会が幸せになることだ」
薄井の力強い言葉に、応接室全体が一瞬しんと静まり返る。
少し経った後、神屋敷が沈黙を破る一言を永守に投げかけた。
「永守様、どうですか? 我が社が提供する『身代わり』サービスの内容についてお分かり頂けましたでしょうか?」
「……はい。でも社会を変えるなんて……いくら先生でも手に負えないのではないでしょうか?」
富小路はそれなりに長いキャリアと確かな手腕を持ち合わせる優秀な政治家だ。しかし、その富小路ですら、社会を変えるという所業を未だ一度たりとも成し得ていないのが現状だ。
世間に影響を与えるほどの実力者であっても難しいことを、一介の政治家でしかない富小路に求めるのは、少し無理があるのではないだろうか。難しい顔をした永守の言葉に神屋敷も同意を示す。
「そうですね、それもありますし、今の段階だと何をどのように変えれば良いのかがまだ不明瞭です。薄井くん、具体的な説明をお願いできるかな?」
神屋敷の言葉を受けた薄井が、再び身を乗り出す。
「はい。これまでお話した内容はあくまでも最終目標です。その目標に至るためには、とても僕一人の命じゃ足りないでしょう。なのでまずは僕が働いていた会社の環境を変えるところからお願いしたいです。僕の会社は毎年自殺者が出ています。行政の指導が入っても改善の兆しは見られません。どうか自殺者が出ない会社にしてほしいです」
自殺者が出ている会社
「わかった。君の願い、しかと聞き届けた。安心しなさい。君の命、決して無駄にはしない」
「ありがとう、ございます」
薄井は込み上げるものを堪えるように唇を噛み締める。そんな薄井を慰めるように、富小路が薄井の身体を抱きしめる。
不意に、永守の耳に誰かが小さくつぶやいたような声が聞こえる。しかし、それが誰がどんなことを話していたか確認するよりも先に、薄井の身体から富小路が離れる。
「それと、これを……」
薄井が富小路に小さな人形を渡す。富小路はそれを見て目を見開く。
「これは君が作ったものかね? いや、驚くほど可愛らしい出来だ」
永守も富小路の掌に乗せられたものを覗き込む。そこには緑色の少し長細い生き物の姿があった。
「これは何ですか? ミミズ?」
「……
(これが龍!? どう見てもミミズにしか見えないわ! それに、この赤いほっぺは何なの!?)
薄井が作ったという人形に対して、永守は心の中で激しくツッコミを入れる。そして一呼吸おいて、神屋敷に視線を投げかける。
「あの……これは一体……」
「
神屋敷への問いを富小路が代わりに答える。
「これはこの薄井くんと一心同体。依頼人はこれを薄井くんの代わりに置くことで、いつでもあらゆる災厄から守ってもらえる……ということであっているかね、神屋敷くん?」
「ええ、その通りです。薄井が富小路先生に張り付いていては色々と不便でしょう。でも、小さな人形ならそんなに邪魔にはなりません。いわばこの人形はポケット版の身代わりです」
「そうなのですね……」
あらゆることが初めてすぎて、永守の頭はもうパンク寸前だった。ポケット版だから便利だよと言われても、その有り難さにいまいち理解が追いつかないでいた。
そんな永守を思いやってか、神屋敷が唐突にこれまでの会話にピリオドを打つ。
「まあ、何はともあれ、契約成立ですね」
一同ほっと一息をつくが、永守は、先ほどの身代わりの対価についての話を思い出し富小路に青い顔を向ける。
「先生、本当に大丈夫ですか? 行政が介入しても自殺者が出続けるなんて異常です。ここまで話しておいて何なんですが、薄井様の依頼の件については、今一度検討なさってから回答した方がよろしいのでは……?」
「そこはおそらく心配無用でしょう」
今度は富小路の代わりに神屋敷が答える。
「富小路先生は我が社のサービスを何度もご利用になっておられます。先生に叶えられない願いはありません」
「そうなのですか、先生?」
「その通りだ。何よりも、この若者の願いをここで退けたら、私の政治家としての信頼は地に落ちるだろう」
「先生……」
富小路は自信に満ち溢れた顔を永守に向ける。
実際、富小路が「失敗」というものを経験しているところを、永守は目にしたことがない。富小路と懇意にしている人物たちからも、そうした話は全く聞いたことがない。
世の中には成功の道しか歩まない人間もいるのだと、永守はこの時妙に納得できた。
普通の人なら即答できないことを、何の迷いもなく決めた富小路に、神屋敷が賞賛の目を向ける。
「さすがは富小路先生です。……それではこちらの内容をご確認の上、サインをお願いいたします」
神屋敷が机の上に示した契約書を手に取り、富小路は内容の確認もそこそこのまま、すらすらとサインする。
慣れた手つきでサインを終えた富小路から契約書を受け取り、神屋敷は会話を締めくくるように、来た時と同じ爽やかな笑みで富小路と永守を順に見やる。
「ありがとうございます。ではこれを持って『身代わり』サービスの提供を開始させて頂きます」
「ああ。では、よろしく頼むよ」
「はい! こちらこそ!」
富小路と薄井が改めて固く握手を交わす姿を、永守は何とも言えない不安な眼差しで見つめていた。
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