第19話

「ただいま」

「おかえり、幸香」

 幸香が玄関のドアを開けて靴を脱いでいると、すぐに廊下の奥の方から足音が近づいてきた。

「今日の夕飯は幸香の好きなハンバーグよ」

「わぁ~嬉しい! ありがとう、お母さん」

 幸香の母は、可愛い熊のイラストが入ったエプロンを着て、いつものように幸香を出迎えてくれた。

「夕飯はいつも通り7時くらいでいいわよね? お父さんもそれくらいの時間には帰ってこれると思うから」

「うん」

「お腹空いたら、冷蔵庫にあるプリンでも食べてて。今日スーパーで安売りしてたのよ」

「ありがとう」

 幸香は早速冷蔵庫から赤い割引シールが貼られた賞味期限間近のプリンを取り出し、階段を上がって二階にある自室を目指す。

 幸香の母はぬいぐるみ作家。幼い頃からぬいぐるみが好きで、そのうち自分でも作るようになり、ついには自分で作った作品で食っていけるようになるまでになった。母が作るのは主に動物のぬいぐるみで、家の中には至る所に母の作品が散りばめられている。

 幸香の一番のお気に入りはトイレの棚にある虎のぬいぐるみ。本物そっくりの見た目と威厳を放つそれは、家族一人一人がちゃんとトイレを綺麗に使っているか絶えず見張っている。ぬいぐるみなのにそんな存在感を持つところが魅力的だった。幸香も母のような生きたぬいぐるみを作ることを夢見て、毎日コツコツと針と糸でチクチク練習に励んでいる。

 ちなみに幸香の父は、その虎のぬいぐるみが苦手だ。会社員の父は朝のトイレの時間にスマートフォンを持ち込み、ついついながトイレになりがちだった。しかし、虎のぬいぐるみを置いてから、トイレに長居できなくなり、今では誰よりもトイレを短く使うようになった。この時を境に、母の手腕を見直したことはもちろんのこと、ぬいぐるみは可愛いだけのものではないことを悟った。

 幸香は兄弟がおらず一人っ子。経済的に苦しいわけでもなく、家族仲が悪いということもない、他の家庭と比べるととても幸せな家庭が築かれていると実感する。

 しかし、最近はこの幸せを噛み締めるたびに、いつの間にか笑顔が消えた幼馴染の顔が頭をよぎる。

 自分の部屋に入ってドアを閉めた途端、目の前のベッドに倒れ込む。

 うつぶせの体制でいた幸香は、しばらく経った後、おもむろに枕近くのヘッドボードの上にあった写真立てに手をのばす。

 小学生の時、クラスのみんなで遠足に行ったときの写真。中央にしゃがむ女の子は楽しそうに笑っている。その右隣には両手ピースでポーズをとっている女の子のはしゃいだ姿が映っている。そして、左隣には親指を立てて格好良くグッドポーズを決めている男の子の姿があった。

 幸香は、古ぼけてしまった写真の男の子を、ゆっくりと指先でなぞる。

「アキラくん……」

 口に出した途端、目のあたりが熱を帯び視界がぼやけていくのを感じる。幸香は焦ってその場で上半身を起こす。

 自分はどうしてこんなに弱いのだろう。

 悪い存在に対して、どうして立ち向かっていくことができないのだろう。

 情けないような、申し訳ないような気持ちがない交ぜになって、幸香の目からこぼれ落ちていく。

 大切な人を大切にできない自分には、大切な人を作る資格がないのだと思う。

 こんな気持ちになるくらいなら、いっそのこと、一人の方が気が楽だ。

 幼馴染みという繋がりしかないのに、どうして自分がこんなに苦しまなければならないのか……。

 ぼんやりとにじむ視界の中、男の子のグッドポーズだけがはっきりと浮き出てくる。その無邪気な笑い顔を見た瞬間、幸香は気づく。

(違う、アキラくんとの繋がりにすがっているのは、自分の方だ……)

 幸香は濡れた頬を拭うこともせず、手にした写真に映るまぶしい笑顔を懐かしそうに眺めていた。

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