贖罪
第30話
普段嗅いだことのないツンとした香りが鼻に痛い。耐えられないほどではないが気になる痛みに、アキラは思わず目をさます。
ベッドの上で仰向けになったアキラは、そのまま頭を左右にゆっくり動かす。さっきの鼻につく匂いはアルコールのせいか。消毒液や包帯が置かれた棚を見つけ、ここが学校の保健室であることに気付く。
頭がぼーっとする。軽く額を押さえながら、アキラは横たえていた上半身をよろよろと起こす。 ベッドからのギシギシした音を聞きつけたのだろう、保健室の先生がベッドとの間を仕切っていたアイボリー色のカーテンをシャラシャラと開け、顔をのぞかせる。
「具合はどう?」
保健室の先生がベッドの横にある丸椅子に腰掛け、こちらを心配そうに見つめる。
「あの……、俺は一体……?」
「覚えてない? あなた、グラウンドの真ん中で眠っていたのよ?」
「えっ?」
眠っていた? しかも、グラウンドの真ん中で?
先生が「そうよ」と言いながら、首を大きく縦に動かす。
「体育の授業でグラウンドに出た先生があなたに気付いて、眠っているだけだったから、とりあえず保健室まで運んできてくれたのよ」
「そうだったんですか……」
そんなこと、全然覚えていない。先生、相手を間違えてないか?
半信半疑のまなざしを向けるも、先生のどこか安堵した様子に、先生の話が嘘ではないことを感じ取る。
「あまりにも深く眠ってたみたいね。私たちが何度声を掛けてもまったく起きなかったから、ちょっと心配してたの。でも、無事に目覚めることができてよかったわ」
保健室の先生がほっと胸をなで下ろす。
相変わらず何も思い出せないアキラは、ただ先生の顔をぼーっと見ていた。
しかし、優しい微笑みを浮かべた先生の表情は、続く言葉とともに少し翳りを見せた。
「でも、今日は本当に大変な一日ね。あなたの件に加えて、あんな事件まで起こってしまうなんて……」
先生はそう言いながら、視線を後方に向ける。
先生の視線の先には、アイボリーのカーテンが垂れ下がっていた。
確か保健室にはベッドが二台あり、そのカーテンで仕切られた向こう側に、もう一つベッドがあるはずだった。
「誰かいるんですか……?」
「もうすぐ保健室を閉めないといけないのだけど……あんな状態じゃ、難しいわよね……」
先生はアキラの質問には答えず、一人でぶつぶつとつぶやいている。
そして何か思い立ったように、アキラの方に顔を向ける。
「ちょっと職員室の方に相談してくるわ。もうすぐ日が暮れるし、特に具合も悪くなければ、あなたももう帰りなさい。男の子とはいえ、帰りが遅いとお家の人が心配するわ」
そう言って先生は保健室からいそいそと出て行った。
先生がいなくなった空間はシーンと静まりかえり、アキラはこの静寂の中に自分とあともう一人が存在していることが信じられなかった。自分の息づかいも聞こえないほど、静寂に満ちていた。
アキラはベッドから降り、もう一つのベッドがある方へ歩を進める。
なんとなく気になった。一体誰が寝ているのだろう、というような類いのものではなく、知らなければいけないという無意識に感じる義務感に似た何か。
アキラは自分と向こう側を仕切るカーテンに手をかけ、ゆっくりと横に引いていく。
窓からのぞくオレンジ色の光が、アキラの瞳を射貫く。
とっさに手で光を遮ったアキラは、そのまま視線を下に向ける。
「綾華……!」
晃は思わず目を見開く。
そこには目を開いたまま仰向けに横たわる幼馴染の姿があった。
綾華の頬には涙が伝った跡がくっきり残っており、まつげも湿っている。虚ろな大きな丸い瞳はただただ天井を見続けている。そして何よりも、いつもの明るく快活な雰囲気が一切感じられなかった。
何かあったのだろうか。アキラは綾華の顔をのぞき込む。
「綾華、一体、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
何も映していなかった綾華の瞳にアキラの姿が映り込む。綾華は相変わらずぼーっと目を開けたままだった。
「綾華、おい、しっかりしろ! 綾華!」
横たわる綾華の肩を揺すりながら何度か呼びかける。すると、弱々しい小さな返答が返ってきた。
「アキラ……?」
綾華の虚ろな瞳に、ようやく光が宿る。綾華はゆっくりと首を傾け、アキラの姿を認識する。
「アキラ……。どうしてここに……?」
「それが俺も分からないんだ。どうやらグラウンドの真ん中で寝ていたところを保健室に運ばれたらしい。綾華こそ、どうしてこんなところで寝てるんだ?」
綾華はから答えは返ってこない。アキラは何気ない感じで先を続ける。
「そういえば、幸香はどうしたんだ?」
幸香、という言葉を出した瞬間、綾華はベッドから跳ね起きる。
「幸香は、どうしたですって……?」
「な、なんだよ」
鋭い視線でにらみつけてくる綾華に、アキラはたじろぐ。
「どうしてにらむんだよ! 俺はただ、いっつもお前と幸香が一緒にいるからそれで……」
「この、人殺し!!」
綾華から想像もしていなかった言葉を浴びせられ、アキラは驚愕に目を瞠る。
「ひとごろし……?」
その言葉を耳にした瞬間、アキラの頭の中に幸香の笑顔が浮かぶ。
悲しそうなその笑顔を、なぜかアキラは逆さまの状態で見ていた。
何かを掴もうとしても掴めず、アキラはそのまま真っ逆さまに落ちていく。
(何だ、これは……。どうして俺は落ちているんだ……?)
見覚えのないはずの映像に、例えようもない頭痛と寒気を感じる。
頭が痛い。胸が苦しい。息が出来ない。
突然の感覚に身もだえるアキラを気遣う様子もなく、綾華はアキラの肩をつかみ激しく詰め寄る。
「あんたのせいよ……あんたのせいで、幸香は死んだのよ!!」
「幸香が死んだ……?」
一体綾華は何を言ってるんだ? どうして幸香が死ぬんだ?
喉まで出かけた言葉は、すんでのところで無意識に止められる。
「あ、ああ……」
落ちていく自分の姿が、突如として幸香のそれに変わる。
地面に叩き付けられた幸香の身体からは、おびただしい量の赤い液体が流れ出ていた……。「うわあああああぁぁぁ!!」
アキラは訳も分からず叫びながら、保健室を飛び出した。
無我夢中で走ったアキラの足は、気付けば学校の最上階へたどり着いていた。
息を切らしながら一歩一歩前へ進む。
アキラは思い出した。
吹き付ける柔らかな風も空の青さも埃をかぶった机や椅子も、確かにあの時と同じだった。
ただあの時と違うのは、アキラの他に誰もいないこと。それに――。
アキラはボロボロの転落防止用フェンスに目を向ける。
そこには、刑事ドラマでよく見る黄色い規制線が、風にあおられながら緩くはためいていた。
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