形代
第9話
「え? 大学を辞めた……?」
いつものようにお見舞いのため千影の病室を訪れた奏太は、株式会社スケープゴートに就職が決まり大学を中退したことを、早速千影に伝えた。
「そんな、いきなりどうして……」
事実を知った千影は、困惑していた。
当たり前だ。奏太は大学生活を楽しんでいたし、比較的真面目な性格であるから、こんな突拍子も無い選択をする理由が、千影には何も浮かばないだろう。
かといって、やはり、千影にスケープゴートに就職した理由は話せない。ただでさえ度重なる強い薬の投与で身体が弱りきっているのに、奏太の決意まで知ったらそれこそ千影の体力が持たない。
奏太は本当のことではないが、嘘でもない、自分の気持ちに沿った上手い言葉を選んで伝える。
「千影がいない大学生活なんて、俺には耐えられない」
「そんなこと言ったって、大学の費用とかご両親に出してもらってるだろうし、私に気を使う必要全然ないんだよ、奏太」
上半身を起こした千影の身体は、以前にもましてほっそりと痩せ細っていた。ちょっと触ったら折れそうなほど細く白い手が、側で寄り添う奏太の手の上に重ねられる。
「奏太と出会ってまだ一年ほどだけど、奏太には数え切れないほど大切なものをもらった。それはかたちのあるものもないものも含めて、すべてが私にとっての宝物。もう十分すぎるほど。これは決して同情からのものではないと分かってる。分かってるけど、これ以上、私のために無理してほしくないの。奏太には幸せになってほしい。私はもう幸せだから大丈夫。今度は奏太が幸せになる番。だから……」
千影が先を続けようとしたところで、奏太のたくましい腕に抱きすくめられる。
随分と自分を表現することが上手くなった。千影のその成長が嬉しくもあり、また成長したがゆえに必要以上に察することが出来るようになってしまったことにある種の後悔を感じる。これ以上、千影に余計なことを考えさせるわけにはいかない。
千影を抱きしめる奏太の腕に力が入る。
「違うよ、千影。俺は無理なんてしてない。大学辞めたのは、本気だったから……。俺はお金を貯めて千影と暮らしたい。ずっと一緒にいたいんだ」
「奏太……」
「だから、そのために大学を中退して、就職した。人生は短いようで長い。この決断もこれからの長い人生の中で見れば、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。逆に、千影がいない大学生活をダラダラ過ごすよりも、千影のために働ける道を選んだ方が、俺にとっては非常に有意義なことだ。だから、千影がそんなこと、気にする必要は一切ないんだ。今は、俺と千影の、これからの幸せな未来のことだけ考えよう」
待っていて、千影。俺が必ず君を苦しみから救ってみせる。……この命にかえても。
「ありがとう。奏太……」
千影の手が奏太の背中にまわされる。
細くて小さな手がまだ温かい熱を帯びていることに、奏太はこれ以上ないほどの幸せを感じた。
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