イストリア(前編)

 なんともいえない空気が、宿の一室にたちこめる。

 イストリア様のために用意された、日の出亭最高級の部屋の中に、ボクとクロ、マオ、カウティベリオ君が、イストリア様に招かれ、それぞれ複雑な表情でベッドに座るイストリア様を見つめていた。

 ボクは入り口のそばに立ち、目線だけを動かして皆の様子をうかがう。

 マオはテーブル横の椅子に座り、視線を床とイストリア様のあいだでなんども往復させている。先程の言葉の意味を問いただしたい。けれどイストリア様の雰囲気から、ふみとどまっている。そんな気持ちが見てとれた。

 テーブルの上のクロは、いつものにぎやかさはなりをひそめ、黙って腕を組んで目をとじ、イストリア様が口を開くのを待つ。

 窓際で佇むカウティベリオ君は……見てなかった!

 横目でちらりと確認したけど、まったくイストリア様を見てなかった。真っ直ぐにボクをにらみつけている! ほこり高い人だとは知っているけど、まさか魔法武闘会で勝ってしまったことが、こんなにもあとをひくことになるなんて……。

 彼の名誉のために言っておくけれど、彼は学園では優等生で、多くの学生から慕われていた。落ちこぼれだったボクのことも気にかけてくれていたからね。

 でも、すごく真面目な努力家だからなぁ。許せないんだろう。ボクが魔法武闘会で見せたような、ああいう邪道な闘いかたは。

 実験するんじゃなかった!

 本当に気まずい。ただでさえ重い空気なのに、カウティベリオ君の視線がさらに重くのしかかってくる。

 助けを求めるような気分で、イストリア様に視線を戻す。うつむいていたイストリア様が、ボクの想いに応えるように、ようやく顔を上げてくれた。美しい顔立ちだけに、心労にさいなまれた表情が痛々しい。

「まだ300年程しか……ああ失礼」

 イストリア様が力なく首をふる。


「もう300年も昔……ですね。私はハイエルフとしては珍しく旅好きでして、若い頃はヒト族の冒険者とともに、各地のダンジョンにもぐったりしていたのですが、400年前にはもう、生きた伝説扱いにされていました」

 自嘲気味に笑うその姿は、まさに千年を生きているエルフであることを証明しているようだ。

「そうなると厄介事が、むこうからやってくるようになりましてね。うっとうしくなり、ここよりはるか北方のエルフの住まう森にひっそりとかくれ住むことにしたのです」

 イストリア様が懐かしむように天井を見あげる。

「隠遁生活を100年ほど続けたころ、私は森の中で、ひとりのヒト族の少女と出会いました。驚きましたよ。エルフ族さえ滅多に近づかない森の奥深くでしたからね。詳しい話は割愛いたしますが、肉体的にも精神的にも深く傷ついていた彼女を、私は助け、私の住む小屋へと連れ帰ったのです」

 瞳が悲しそうにゆれる。本来であれば語りたくない話なのだろう。

「傷が癒えれば、すぐにでも出ていくだろうと思っていたのですが、彼女はそのまま私のそばに居続けてくれた。気のつく娘でしてね。生活力に乏しい私に、献身的につくしてくれましたよ。彼女が成長し、大人となったある日、私は彼女の望むままに、彼女を受け入れてしまった」

 ちらりとマオに目をむけると、食いいるようにイストリア様を見つめている。彼女にとっては父親の仇の話だ。その心中は複雑なことだろう。

「私は長命であるがゆえに、極端に繁殖力に乏しいハイエルフ。多種族の娘との間に子をもうけると、誰が予想しえたでしょうか? 私にとっては神の奇跡。ですが彼女にとっては悪魔の悪戯。ハイエルフの中でもひときわ高い魔力を持つ私の子を宿した彼女は、ひとりの女の子を産むのと引き換えに、息をひきとりました」

 その子供が、左耳と右耳で形がちがうハーフハイエルフか。他のハーフエルフはどうなのかな? 同じような特徴がでるのだろうか? これまで読んだ文献の中には、そのような記載は見なかったけれど。

 目をとじたイストリア様が大きく息を吐き出す。瞼の裏には、そのときの情景が映しだされているのかもしれない。本人も言っていたが、ハイエルフのイストリア様にとって、300年前は『しか』と表現出来るような最近。

 もしかしたら、女性を失った心の傷が、まだ癒えていないのかもしれない。だから、わずらわしいヒト族の社会にでてきてまで、クロに、友人に会いにきたのではないだろうか? 無意識のうちに、クロにいやしを求めていたのでは?

 だとしたら、マオによってもたらされたこの情報は、イストリア様の心の傷をえぐってしまったのかもしれない。

「あ、あの!」

 たぶんボクと似たようなことを考えたのだろう。マオがなにかを言おうとして、言葉につまった。

 イストリア様が目をひらき、いつくしむような目をマオにむける。

「マオさんでしたね? ご質問があれば遠慮なく。ただ、あの子は生まれてすぐに、ヒト族の知人にあずけ、その後、事件に巻きこまれ行方知れずになっていたのです。ですから彼女が今どこにいるか、なぜアナタのお父様を殺害するにいたったのかは、存じあげておりません」

「あ、いえ。なんで襲われたのかはわかっているんです。あの人たちが狙っていたのはお父さんじゃなくて……」

 かなり悩んだすえに、マオはイストリア様にうち明ける。

「ノマッド・グリモリオなんです」

「ノマッド・グリモリオだと! まさか、そっちも原本か⁉」

 顔をひきつらせたカウティベリオ君が、もう耐えられないとばかりに叫んだ。

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