マオ・グロウリ(前編)

「マオ・グロウリです」

 辛うじて名のることはできたけれど、目の前に湯気のたつスープが置かれた瞬間、もう我慢ができなかった。

 三日ぶりの食事だもの。街のはずれに川があったので、水はなんとかなったのが救いだったね。

 とはいえ目の前には、助けてくださったトリス様がいらっしゃる。みっともない姿は見せられない。 

 これでも元のラオブでは裕福な家庭のお嬢様。最低限の礼儀は守ってみせる。

 本人は隠されているようだけど、トリス様が貴族なのは間違いない。金色のさらさらとした髪に、空のような澄んだ瞳。なにより気品が違う。どんなに飢えていても失礼のないようにしなきゃ。

 でも、とうのトリス様は私なんか見ていなかった。

 トリス様が目を丸くして見ていたのは、アタシの隣で食事をとっているシャンティーと名のった女性。横目で確認する。その食べっぷりは迫力満点だった。ガツガツという擬音がピッタリの食べっぷり。一週間ぶりくらいの食事だろうか?

 たぶん食事中に手をだしたら、噛まれると思う。へたをすれば食べられちゃうかも。

「やるな、シィー。伊達に食べるのが趣味とは言ってねぇな! 味と量と値段のバランスが、いい感じの店じゃねぇか」

 不思議なのはこのぬいぐるみのような青いクマだ。伝説の魔導書の一冊イディオ・グリモリオの守護霊獣と同じ名前。でもエルねえさんから聞いていた姿とは、大きさがちがいすぎる。

「でじょーっ!」

 シィーさんの口から、パンくずが飛ぶ。いろんな意味でこの人のほうが獣みたいだ。

「先輩、汚いですよ。飲み込んでから話してください」

 謝るために、再びパンを口に入れたまま口を開こうとした彼女を、トリス様は自身の口を押さえて制止する。シィーさんも慌てて口を押さえて、パンを飲み込んだ。

「えへへ、ごめんね♪ でも、ここは本当におすすめなんだよ。さすがに毎日は無理だけど、月三・四回はきてるんだ。私、量も大事だから、お財布に優しくない店はダメなんだよね。そのぶん混んでることが多いけど、今日はすぐにはいれて良かったよ」

 言いつつサラダをほおばる。

 まあ、確かにここの料理は飢えていなくても美味しく感じたと思う。

 申し訳ないと思いつつも、しばらく食べることに集中させてもらうことにした。

 ひと通り食べ終えると、私の目に涙がにじんでくる。故郷をでてから三ヶ月。これまで旅なんてしたことがなかったから、旅費の配分なんかわからなかった。なくなったら働けばいいと考えていたのもある。結論から言ってしまうと甘かったんだだけどね。

「本当にありがとうございます! アタシ、みなさんに悪いことしたのに、さっきも助けてもらって、ご飯まで食べさせてもらって……」

 テーブルに手をつき、トリス様に深く頭をさげる。

「気にすんな。困った時はお互い様だぜ」

 いや、お前はなにもしていない。なんでこんなに偉そうなんだ?

「うん。クロの言うとおりだよ。ただ、落ちついてからでかまわないから、事情を話してもらえるかな。マオがこの街にいるあいだの行動は、ボクにも責任があるから、話せない事情がなければ話してほしい」

 国際問題になりかねない箇所もあるけど、できるかぎりはきちんと伝えないとね。

 命の恩人だし、迷惑をかけまくりだし、それにこの毛玉が本物のクロガラだったなら、もしかしたらエル姉やお母さんの行方を探る手掛かりが掴めるかもしれない。

 涙を指でぬぐい、しっかりとトリス様を見つめる。

「話せない理由なんてないです。ただ話が長くなるかもしれないんですが……」

「クロ、いいよね?」

「おう、もちろんいいぜ。オレの見立てじゃ、あと一ヶ月はもつからな。あせることはねえよ」

 どういうこと?

 この守護霊獣が魔導書ではなく、ハンカチの上にいることと、なにか関係しているのだろうか?

「うん。ボクらのことは気にしなくていいから、マオのペースで話してくれていいよ」

 やっぱりこの人は優しい。

「お気遣いありがとうございます。アタシからも、お聞きしたいことがあるので、よろしくお願いします」

 アタシは水のはいったグラスに口をつけ、舌を湿らせてから話しはじめる。

「トリス様はお気づきのようですが、アタシはこの国の出身ではありません」

 一応周囲に気を配り、聞き耳をたてている人がいないことを確認してから言葉を続ける。

「ヴァイナード諸国同盟の一国ラオブから参りました。キンディス山脈を背にし、鉱山資源の加工業が盛んな土地柄です。加工品に魔法を付与することも多いので、魔導王国ほどではありませんが、それなりに魔法技術も発展している国です」

 トリス様は私をひと目見て、出身地がわかっていたみたい。気品もすごいんだけど、知性があふれているんだよね、トリス様って。

「アタシはラオブで、その加工品に魔法を付与する、魔術師と言いますか、職人と言いますか、とにかくそういうことを生業なりわいとする家系に生まれました。いまから1年ほど前のことになるのですが、とある要人のかたにより、我が家に一冊の魔導書が持ち込まれたんです。魔導書の名前はノマッド・グリモリオ。ご存知ですよね?」

 シィーさんはわかってなさそうに首を捻るが、ふたりがしっかりとうなずいているので問題はない。

 ノマッド・グリモリオ。

 魔導王国に実在したと言われる伝説の魔導士サイファー・ウォールメンが残した四冊の魔導書の一冊。

「あの魔導書のせいで私の家族が襲われ、父が亡くなりました。いえ、魔導書が悪い訳ではありませんね。ノマッド・グリモリオの守護霊獣エルペッナ様は、魔導書ばかりでなく、アタシたち家族のことも守ろうとしてくれたのですから。悪いのはあの魔導書を狙っていた連中と、狙われているとわかっていながら、父にあの本を預けた……要人のかたです」

 自身の肩が小刻みに震えるのがわかる。あの日のことを思い出すと怒りがおさえられない。それでも、あの人の名前をだすのはギリギリ耐えた。あの人が魔導書を父にあずけなければとは、どうしても思ってしまうが、ノマッド・グリモリオが無ければエル姉に会えなかったし、あの人には弟を保護してもらっている。

 おいそれと名前をだしていい相手でもないし、たとえ命の恩人が相手でも名前は伏せておこう。

「魔導書が我が家に持ち込まれてから、半年ほどたったある日、ひとりの商人が我が家をおとずれました。父の工房に入るのを離れたところから見ていただけですし、フードもかぶっていたので、顔はわかりません」

 グラスを持つ手に自然と力がはいる。

「亡くなる直前の父の言葉から、ノマッド・グリモリオをゆずってほしいと言ってきていたことはわかりました。どうしてその人が、父が魔導書を預かったことを知ったのかは、いまもわかりませんが……」

 父さんが誰かに話すなんて考えられない。あの人も誰にも話していないと言っていた。

「もちろん父は断りました。ノマッド・グリモリオをあずかっていること自体とぼけたようです。商人はいっこうに首を縦に振らない父に、業を煮やしたのでしょう。ある夜、黒ずくめの集団に我が家は襲われたんです。その襲撃で父は重傷を負いました」

 あの時の恐怖は忘れられない。父さんが殺された怒り、エル姉と母さんに会いたいという思いがなかったら、きっと今もおびえて暮らしていたと思う。

「アタシと弟をかばい、存在が希薄になってしまったエルペッナ様を、母はノマッド・グリモリオごとつれて逃げ出しました。父とエルペッナ様が、そうしろと叫んでいた気がします。アタシと弟から、襲撃者たちの目をそらすために……」

 自身の気持ちをのみこむように、グラスに残っていた水をのみほす。

「ほとんどの襲撃者は、エルペッナ様や母との戦闘で死にましたが、生き残っていたふたりは、父たちの思惑通り母を追っていきました。残ったアタシたちは、父に魔導書を預けた要人に保護されましたが、父はその時の傷がもとで、一週間後に……。でも母は見つかっていないのです。要人の方が、捜索はしてくれましたが、遺体すらも見つかっていません」

「行方不明ってことか」

 毛玉のつぶやきに私はうなずく。

「母は若い頃、名の売れた冒険者だったそうです。ふたり程度なら、倒せないまでも殺されていることはないのではないかと、要人のかたは仰っていました。戻ってこないのは、アタシたちを標的にさせないためではないかと」

 本当はアタシだってわかっている。保護されたまま大人しくしていたほうがいいって。

 でも!

「それでもアタシは、せめて母の生死を知りたい。エルペッナ様にもう一度お会いしたい! 両親とエルペッナ様の意思に逆らうことになるのかもしれないけれど、会いたいんです! できることなら弟も母に会わせてやりたい」

 ぬぐったはずの涙がアタシの頬をぬらす。

「アタシは置き手紙と弟を残して、要人の方の屋敷をぬけだしました。それが三ヶ月前になります」

「ラオブ王国からガーバートまでだと、旅慣れしている人の足で二ヶ月ちょっとだろうね。君くらいの女の子だったら、確かに三ヶ月くらいになると思う。でもそれは、まっすぐにむかってきた場合だよ」

 思わずドキリとする。トリス様はもしかして、これからアタシが話す内容を予測しているんじゃないか。そんな気に襲われる。

「お母さんがどの方向に逃げたかさえもわからなかったはずだよね? 追いかけるには情報を集める必要がある。それを考えると、もっと時間がかかると思うのだけれど、なにかお母さんがこちらに向かったというような手がかりがあったの?」

 ああ、やっぱりこの人には隠しごとはできそうもない。もっとも最初から話す気ではいたんだけれど。

 アタシはふところから一枚の赤い羽根をとりだす。

「エルの羽だな」

 これがわかるってことは、どうやらこの毛玉は本物のクロガラのようだ。

「エルペッナ様がくださったものです。見ていてください」

 羽をテーブルに置き、手をかざす。

「我、マオ・グロウリなり。汝の持ち主たるエルペッナの友であり、妹である。我をエルペッナのもとに導きたまえ」

 羽が淡い緑色の光につつまれ、フワフワと宙を移動する。

「解除」

 羽がフワリとテーブルに落ちた。

「なるほどな。エルが存在してるかぎりは、その羽がアイツのところまで道案内してくれんだな」

「はい。でも方角だけなので。それで大きな街なら情報があるんじゃないかと、路銀も尽きかけていたので、仕事もできるんじゃないかなって。実際はそんなに甘くなかったんですけどね」

 なにが面白いのか、毛玉がニヤッと笑う。

「なーに言ってんだ。甘いじゃねぇか。トリスに会えたんだからな」

「うんうん、そうだよね。トリス君、スゴく優しいもん。私にお弁当作ってくれるんだよ♪」

「お金、貰ってますよ」

「材料費だけじゃん。私、すごく助かってるよ!」

 アタシは思わず吹き出してしまう。父を亡くして以来だ。この人たちのそばにいると、なんだか辛いことが忘れられる。

「はい。トリス様は本当にお優しいと思います。きっとこれも、エルペッナ様のお導きでしょう。ところであのー、話は少し変わるんですが、エルペッナ様と同じ守護霊獣のクロガラ様にお聞きしたいのです。ここから北東に、エルペッナ様が傷を癒せるような場所はございますか?」

「ん?  魔法でダメージ喰らっただけなら、ほっときゃ治るぞ」

 そんなことは知ってる。エル姉の言っていたとおり賢くはないようだ。

「エルペッナ様は魔法ではなく、魔力の付与された武器で傷つけられたのです。エルペッナ様は傷つけられたとき、呪いつきかとつぶやいていらっしゃいました」

 トリス様が思案するように目をとじるが、数秒とたたずに口をひらく。

「魔力の自然回復を阻害するタイプかな? ありきたりなだけに、手にはいりやすい」

「そうだな。でも、弱い魔力で作った呪いなら、自分らでなんとかなる。マオの話を聞くかぎり、そいつらはエルとの戦闘を想定してたっぽいから、強力な魔力のこめられた呪いを用意したのかも」

「自分で直せないとしたら、他の人に頼るしかない?」

「ああ。オレたち、じっちゃんの魔導書につけられた守護霊獣はさ、それぞれ得意なことが別々なんだ。オレなら殴り合い。エルは補助系魔法みたいな感じさ。たぶんエルの奴は感知魔法で、回復系魔法の得意なカスカを見つけて、マオの母ちゃんに、その場所までむかってもらってんじゃねぇかな」

 私が望んでいた情報だった。ここでこの人たちに出会えたことを、旅と好奇心の女神レンダ様に感謝せずにはいられない。

「自分で治癒できねぇほど、魔力を押さえられてんなら、アイツ得意の転移魔法は使えねぇからな。でもごめんなマオ。オレはコルがどこにいるかは知らねぇんだ。絶対にコルのところに行ったとも言いきれねぇし、お前の母ちゃんも絶対に一緒だとは言ってやれねぇ」

 声がとても申し訳なさそうだ。思慮はたりないがとても優しい。エル姉の言っていたとおり。

「いいえ、いいんです。生きている可能性があるとわかっただけでもマシです。ここにくるまで、せめて遺髪だけでもなんとかならないだろうかって、死んでいること前提に考えていましたから」

 そう言って自嘲気味に笑う。

 すると三人そろって気づかわしげな表情を私にむけてくる。

 しまった。恩人の気持ちを暗くさせるのは、アタシの本意じゃない。

「ところでエルペッナ様から、クロガラ様はイディオ・グリモリオの守護霊獣様だとお聞きしておりましたが、なぜハンカチに?」

 できるかぎり明るい口調でたずねてみる。

「おう。よく聞いてくれたぜ。語るも涙。聞くも涙の物語よ。燃えた!」

 早すぎて、泣く間がない。いや問題はそこじゃなかった。

「燃えたって……イディオ・グリモリオがですか! え? え? え? だってエルペッナ様は、魔導書が消滅しちゃったら、その魔導書を守っている守護霊獣も消えちゃうって」

「オレもそう思ってたんだけどよ。トリスがこっちに移してくれてな。あ、それにシィーも殴って魔力飛ばしてくれたんだ。スッゲーだろ?」

 駄目だ。この毛玉がなにを言っているのか、全然わからない。

 エル姉はあんなに知的なのに、この毛玉からは知性の欠片も感じられない。エル姉は、この毛玉を強くて頼もしいとも言っていたが、小さくてうるさいだけだ。

 守護霊獣をハンカチに移す? 守護霊獣を殴る? どちらも、馬鹿らしくてとりあう気になれない。

 考えてみれば、アタシの恩人はトリス様だけだ。食べるのを再開したシィーさんには殺されかけているし、このハンカチにのった毛玉は騒いでいるだけ。うん。トリス様の言葉だけ気にしよう。

「クロ。たぶん全然伝わっていないよ。えっとね、マオ。さっきクロが言った通りイディオ・グリモリオは燃えてしまったんだ。でも守護霊獣というのは、守護している物品と魔力で結ばれているだけなんだよ。魔力でできている身体を安定させるために、物品自体にも魔力は必要なのだけれど、物品そのものと存在を共有している訳ではない。だから物品の魔力と切り離したとしても、存在が不安定になるだけなんだよね。もちろん、不安定のままで放置したら、そのままかき消えてしまうのだけれど、その前に違う魔力と結びつけて、存在を固定させてしまえば、守護霊獣自体は存在できる。もっとも普通の守護霊獣は、守るべき物品のために生み出されているから、その物品がなくなってしまった時点で、自分の存在意義を見失い、自ら消滅してしまうだろう。でもクロたちは、ちょっと違うみたいだね。サイファー導師は、魔導書そのものよりも、魔導書を書いた気持ちを大切にしてもらいたかったみたい。クロたちが守っているものは、物ではなく心なのだと思うよ。だから魔導書が燃えてなくなったいまでも、こうして存在してくれている。サイファー導士の意思を引き継いでいるんだね」

「そういうことよ!」

 毛玉がなぜか偉そうにふんぞり返っている。

 というかトリス様、無茶苦茶語りだしたんだけど。ほとんどひと息に喋っていたよ。まるで学者さんみたい。

 語られたことの前半は難しかった。私の感覚で言うと、ふたつの魔術道具を組みあわせていることになるのかな? もっとも守護霊獣みたいに魔力だけで構成されている魔術道具なんてないけどね。

 ただ後半はよくわかる。

 エル姉がいつも言ってた。

『おじいさまの、魔法でみんなを幸せにしたいという気持ちを伝えていきたい』

 その気持ちがあれば、守護の対象が魔導書じゃなくなっても、エル姉は生きていけるってことだよね?

 でもトリス様は、どうやって毛玉をこのハンカチに移したんだろ?

 財布を盗もうとしたとき、アタシは魔力探知の魔法を使用した。財布を盗んだあと、魔法を使って追われないように、魔力の低い相手を探したんだよ。

 それが、トリス様だった。

 トリス様は魔力が信じられないくらい少ない。同情してしまう程に。なのに財布をとったらすぐにばれた。風の魔法を使って、服に財布が入ってる時と同じ圧力がかかるようにもしたのに。

 探知魔法、感知魔法、結界魔法。財布を守るのに使えそうな魔法はいろいろあるけれど、そのいずれもトリス様には行使できるだけの魔力がない。

 そういえばエル姉が言っていた。

『世界には、まだアタシたちが知らない知識や技術を持った人がいる』。

 さすが魔導王国。シィーさんもそうだけど、ビックリ人間がたくさんいる。

「とりあえず、マオのこれからを考えないとね。申し訳ないけれど、少しのあいだ、ボクの部屋で寝泊まりしてもらうことになるよ」

 トトトトト、トリス様と一緒のお部屋!

「仕事探しは明後日から始めよう。明日は、マオは身体を休めたほうがいい。とりあえず、ボクの働いている図書館の館長に相談してみる。顔の広い人だからね。もしかしたらすぐに解決するかもしれない。いい加減な人でもあるから、過度の期待は禁物だけど」

「えー。マオちゃん、女の子なんだから、泊まり先は私の部屋のほうがよくない?」

 シィーさんの意見は正論なんだけど……。

「危険です」

「やめとけ」

「恐いです」

 気持ちは優しい人だとは思うけど、一緒にいては、命がいくつあっても足りない気がする。

 シィーさんがガックリと肩を落とす。

 彼女には申し訳ないが、トリス様に恩返しをするためにも、トリス様のお部屋のほうが都合がいいね。ドキドキが半端ないけど、ここはトリス様のご厚意に甘えさせてもらおう。

 しかしながら、結局シィーさんにもかなりお世話になった。

 寝具、替えの衣服、集合浴場への同行。

 シィーさんの顔の広さのお陰で、すぐに用意が整う。

 これだけでも、いかにこの人が住民から愛されているかがわかる。本当に力がおかしいというだけなんだろう。

 とにかくシィーさんにも、なんらかのお礼を考えないといけないね。

 そうして、夕刻にトリス様のお部屋へ連れてきてもらったアタシだったが……。

「ダメです、ダメです、ダメです、ダメですよー! トリス様、貴族様ですよね? アタシが床に決まってるじゃないですか!」

「そんなのいつ決まったの? ボクは勘当されているからね。貴族様ではございません。様付けもいらないし、いまはマオの疲労を少しでもぬくことが肝要だよ」

 トリス様の言葉がいかに正しかろうと、アタシには受け入れられない。ご迷惑をおかけしている平民のアタシがベッドで寝て、たとえ勘当されている身だとしても、お優しく高貴な身で、恩人でもあるトリス様を床に寝せるなんて、いくらアタシがずうずうしくても、納得できる範囲をこえている。

「お願いしますから。トリス様を床に寝せたまま、ゆっくり休むことなんてできません!」

「大丈夫、安心して。身体は正直だから。調べさせてもらったけれど、マオの体には疲労がかなり蓄積されている。きちんとした寝具で横になれば、すぐに眠れるよ」

 調査なんてしていないのはわかっている。肉体の検査魔法は高司祭が使うようなレベルだ。失礼ながら、トリス様の魔力で使えるものではない。優しげな微笑とともに、アタシを気遣うための方便であることは明白だった。

「……わかりました。それでは今日はお言葉に甘えさせてもらいます」

 アタシはトリス様の説得を諦める。考えてみれば、見ず知らずの人間のために、ご自身の命さえ賭けてしまうような人なのだ。アタシの言葉で説得できるはずもない。

 それに、アタシにできる恩返しの内容を考えれば、最終的にはトリス様にベッドを使っていただける。

 だから問題ないなんてないと油断していたら、今度はトリス様自ら夕食の準備をはじめた。シィーさんも食べに来るということで六人分だ。毛玉をいれても四人なのに量がおかしい。

 いやちがう! 貴族様に料理をさせるのがおかしい!

 アタシは慌てて、自分が代わりに料理することを申し出た。家事の手伝いはきちんとこなしていたから、ラオブ料理にはなってしまうが、それなりに味は保証できる。なのに、この貴族様ときたら……。

「そう? じゃあ手伝ってもらおうかな」

 なんて言いながら、素敵な笑顔をむけてくる。

 透きとおるような碧い瞳が、アタシの心臓が高鳴らせる。けどこれもちがう!

 そうじゃない! そうじゃないんだ、トリス様!

 アタシは手伝いではなく、奉仕しなければいけない立場なんだーっ!

 アタシの心からの叫びは、トリス様にはまったく届かない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る