マオ・グロウリ(後編)

 トリス様は本当に魔力以外はとんでもなく優秀な方だった。アタシが積み重ねてきた、家事手伝いの自信が打ち砕かれるほどに。味だけでいえば、昼食をとった料理店をうわまわっている。さらに食材はシィーさんの御用達のお店で安く手にはいっているらしく、費用も安い。

 アタシが手伝えたのは、加熱調理用の魔術陣に、魔力石の代わりに魔力をとおすことと、ひたすらに食材を切ることだけだった。毛玉だけはなんの役にもたっていないが、毛玉はエル姉と同じく守護霊獣だ。料理に貢献するわけがない。むしろ貢献されていたら、アタシはここでの存在価値を見いだせなくなってしまう。

「外国人就労許可証ですか?」

「この国にはそういうものがあってね。冒険者ギルドや商業ギルドに加盟していたら自動取得できるのだけど、所属してないよね?」

 もちろん。アタシは13歳。あの事件がなければ、まだ両親のもとでぬくぬくと育っていただろう。

 それにしても、そんなものが必要だったのか。自分よりも幼い子供が働いていた場所でも働くのを断られた理由がわかった。たぶん無断で外国人を働かせるのは違法なのだろう。なかなか珍しい国法だね。

「それをふくめて館長にきいてみないとね。この街だけじゃなくて王都にも顔の利く人だから、少し時間はかかるだろうけど、そのあたりもなんとかしてもらえると思うよ」

お世話になりっぱなしで頭があがらないけれど、お願いするしかない。このままだとまた同じことをおこしかねない。そうなったら今度こそ犯罪者として、処刑されてしまう。トリス様はもちろんだけど、あの警備隊の人とその家族に迷惑をかけたくはない。

「話もまとまったところで早速ご飯にしようよ!」

「お前は本当に食べることばっかだな」

 待ちきれないといった様子のシィーさんにアタシたちは苦笑するしかない。

 ありがたいことに、夕食がはじまっても、誰もラオブに戻れとは言ってこない。もっともなにを言われたって、アタシは母さんとエル姉さんの捜索を止めるつもりはなかったけど。

 だからこの街に逗留するのは、ある程度の旅費が貯まるまでだね。

 もっとも許可証の件も考えると半年はかかりそうだけど。それでも母やエル姉と再会したとき、立派な盗賊になっているよりはマシな選択肢だろう。

 夕食が終わり、シィーさんが帰宅すると、いよいよ就寝時間。

 アタシの恩返しの時間がやってきた。

 トリス様が床にしいた寝具に横になるのと、毛玉がテーブルに置かれたハンカチの上で丸くなり身動きひとつしないのを確認する。

 アタシがトリス様にかわって、魔法ランプの明かりを消し布団をかぶった。途端に、猛烈な睡魔に襲われる。

 さすがトリス様。見立ては正しかった。

 でもアタシだってラオブの気高き女! 

 ここでそのまま眠ってしまうわけにはいかない!

 おもいきり下唇を噛んだ。血がにじむ感触があったが、かまっていられない。アタシが眠気と悪戦苦闘しているあいだに、トリス様から規則正しい寝息が聞こえてくる。

 音をたてないように気をつけて上体をおこし、丁寧に服をぬいでいく。

 生まれたままの姿になって、ベッドから降りる。

 今のアタシには、他に返せるモノがない。

 アタシももうすぐ十五歳。大人の仲間入りだ。身体自体はすでに1年くらい前から、子供を産めるようになっているから、男性を受け入れることはできるはず。シィーさんのようなクッション性はないけど、きっと大丈夫。

 トリス様が起きている時に、アタシの体を好きにしてくださいと言っても、お優しいトリス様が断るのは目に見えている。でも目が覚めたときに、自分で言うのもなんだが、アタシほどの美少女が裸で男性のモノを刺激していたら、トリス様だって男だ。自制心をなくしてくれるにちがいない。

 いざトリス様のもとへと、一歩を踏み出そうとしたときだった。

「……お前、なにするつもりだよ」

「!」

 叫び声を出してしまいそうになったのを、両手で口を塞ぐことで辛うじて耐える。

 この毛玉、起きていたのか!

 寝ているトリス様を気遣ってか、小声だったのは助かったが……。

「まったく、変な匂いさせてっから、なにか企んでるとは思ったが、思ってた以上にくだらんかったな」

 匂う! つれていってもらった浴場で、あんな一生懸命に洗ったのに!

 それに、くだらないってなによ!

「アタシには、他に返せるモノがないの。しばらく目をつむっててよ」

 毛玉に敬語を使う余裕は、すでにない。

「恩返しのつもりかよ。お前は自分の心さえわかってねぇな」

「……どういう意味よ?」

「お前がしたいのは恩返しじゃねぇよ。心にできちまった自責って重荷をおろしたいだけだ」

 ちがうと叫びたかった。でも、できなかった。

「本当の恩返しってのはな。相手がなにを望んでいるか考えなきゃ駄目だ。お手軽に済ませるのは、お前の感謝の気持ちも裏切ることになるんだぞ」

 アタシの体はお手軽か……。

「お前、トリスがどういう奴か、少しはわかったろ? 優しくて、頭が良くて、器用でなんでもこなせるくせに、心が不器用でまっすぐ。トリスも雄だからな。色仕掛けには引っかかるかもしれないけど、そのあとに、こいつならずっと自分を責め続ける。 そう感じないか? そうなったら、お前がしたことは恩返しじゃない。ただの罠だ」

 なんだかエル姉と話しをしてるみたいだ。

 厳しくも優しくアタシを諭してくれる、大好きなエル姉。

 なんかすごい冷静になってきて、いま裸でいることが恥ずかしくなってきた。

「トリス様のこと、よくわかってるんだね?」

「おうよ。義兄弟だからな。お前とエルもそうなんじゃねぇのか?」

「わかる?」

「おうよ。お前がエルのこと話した時、優しくて暖かい匂いがした。イヒ♪ オレの大好きな匂いだぞ」

「そっか。ねぇ、クロガラ……様」

「クロでいい」

「うん。……ありがとう、クロ」

「気にすんな。疲れたろ? 今日はもう休め」

「うん。そうする。……お休みクロ」

「お休み、マオ」

 いつの間にか、心がすごい軽くなっていて、さっきよりも猛烈な睡魔が襲ってくる。

 もう服を着るのも億劫おっくうになって、アタシは裸のまま布団にもぐりこんだ。

 目が覚めたときには、部屋には誰もおらず、テーブルの上に、皿に乗ったサンドウイッチが置かれてあった。いたれりつくせり。トリス様は貴族の男性だが、きっといいお嫁さんになるに違いない。

 サンドイッチに手を伸ばしかけたが、自分が裸であることに気づき、慌てて服に手を伸ばす。昨夜、アタシの寝相はどうだったろう? 掛け布団とかはね飛ばしたりしてなかったかな?

 うわー、ヤバい、ヤバい、ヤバい! 恥ずかしすぎるーっ!

 トントン

 アタシが服を着終えると同時に、部屋の扉をノックする音が響く。

「トリストファー様はご在宅ではありませんか? 私めは、昨日トリストファー様に場所を提供させていただきました露店商でございます。トリストファー様の物と思われます落し物を見つけましたので、お届けにあがりました」

 ああ、昨日の。

「すいません。トリス様はいらっしゃいません。アタシは留守を預かる者です」

「さようで御座いましたか。たいへん申し訳ないのですが、私めは間もなく次の街へと出発せねばなりません。よろしければ、おあずかりいただけないでしょうか?」

 トリス様といい、この商人といい、魔導王国はお人好しが多いらしい。

 魔導書ほしさに一般家庭に襲撃をかけるヤツらに見習わせたい。

「お待ち下さい」

 そう言って扉をあけると、頭部に強い衝撃をうけ、アタシは起きたばかりだというのに、また眠りにつくことになった。

 まだ、サンドウイッチ食べてなかったのに……。

 次に目が覚めたとき、アタシはどこかの倉庫の床らしき所に転がされていた。

 猿ぐつわをされ、手は後ろ手にしばられ、 足も足首でしばられている。

「あの坊やは本当に持ってきますかね?」

「ああ。間違いなく持ってくる。なにせ、見ず知らずの小娘に、命をかけるようなお人好しだ」

 ……しまった。お人好しはアタシの方だった。トリス様のような方が、そう何人もいるはずがない。あっさり信用して扉をあけるなんて。

「まったく、今日ここで受け取る手筈だったイディオ・グリモリオが、焼失したという噂を聞いた時には肝が冷えました。アレの奪取には、すでにかなりの大金を動かしてましたから」

「まぁ、次から雇う相手は選ぶことですな」

「大丈夫だと思ったのですがね。とにかく、守護霊獣が生きているということは、イディオ・グリモリオも無事ということです。なぜ本体から離れていたかはわかりませんが、伝説の魔導士が残した魔導書です。なんらかの方法があるのでしょう」

 ダメだ。コイツ、自分の信じたいことしか信じていない。どうやらアタシを人質にして、トリス様にイディオ・グリモリオを持ってこさせようとしてるみたいだけど、いくらトリス様がお人好しでも、無いものは持ってこれない。

 悪いことをした罰がくだったのだと諦めたとき、倉庫の入り口の扉がひらいた。

「旦那! 例の小僧が例の本を持ってきやした。ただ一人じゃありません。大女も一緒です」

「呼びに行ったのですか?」

「いえ、部屋に戻ったときから一緒でした。その後、図書館に本を取りに戻りやしたが、他の人間に接触してる様子はありやせん」

「ならば、誰にも連絡していないということです。逃げられても面倒ですから、まとめて連れてきなさい」

 商人の言葉に従い、三人のならず者が、トリス様とシィーさんを、とり囲みながら連れてくる。

「魔導書は持ってきました。マオを放してください」

 トリス様が商人に向かって、一冊の本をさしむける。表紙から、いつもの小さいクロの姿が浮かび上がる。でも、あれはイディオ・グリモリオじゃない。 偽物だ。

 魔力感知で確認するが、あの本の魔力は高くない。本物ならノマッド・グリモリオと同程度の魔力があるはずだ。

「来てやったぜ。文句ねぇだろ!」

 クロが不満をあらわにして言う。

「はい。ありがとうございます。あー、あと昨日、守護霊獣が乗っていたハンカチ。アレも出してください。突然転移されて、暴れられても困りますので」

 トリス様がため息をひとつついて、ポケットからハンカチを取り出してクロに渡す。トリス様を囲んでいたならず者の一人が、本を受け取りこちらに持ってくる。

「それじゃ、後始末しますかね」

 先ほど商人と会話をしていた体格のいい男が、クロの乗った本が商人の手に渡るのを見るや、トリス様たちにゆっくりと近づいていく。

「約束が違います。マオを解放してください」

 商人が笑った。

「言ったでしょう、トリストファー様。貴方は商売人には向かない。お人好しすぎると。後から警備兵に追いかけられても面倒ですので、後腐れの無いようにさせていただきますよ」

 商人の言葉を合図にするように、体格のよい男が、魔力の込められた手甲を装着した右腕を高々と掲げる。

「悪いな、坊や。オレの武器はこれなんでな。苦しまずに殺してやることはできんわ。いでよ、炎‼」

 男の言葉に手甲の魔力が反応し、手甲を炎で包む。

「わかってると思うが、こちらに手を出したら、あの嬢ちゃんから死ぬことになるぜ。おい、お前たちは入り口を固めな。逃げられんようにな」

 商人に本を渡したならず者が、アタシの喉元にナイフをあて、残りのふたりが入り口の扉をしめて、その前に立つ。

 手甲をはめた男が、凶悪な笑みを浮かべ、トリス様に詰め寄ろうとする。

 ふたりのあいだに壁ができた。

 シィーさんだ。

「はっ! まず、お前から死にてぇか!」

 手甲をはめた拳が、シィーさんに突きだされた瞬間、手甲から魔力が消失し、手甲を包んでいた炎が掻き消える。

 ただの拳の一撃となったそれを、シィーさんは事もなげにうけとめる。

「な、なにしやがった!」

 唖然とする男の言葉に、シィーさんは不思議そうな顔をする。

「なにって、うけとめただけだよ」

「そこじゃねぇ!」

 うん、気持ちはわかる。

 彼の打撃を、こともなげにうけとめたシィーさんは、本来驚かれてしかるべきだとは思う。けれどいまはその前に、突然に炎、いや、手甲の魔力自体がどこへともなく消えてしまった方が問題だ。

「要するに、粗悪品をつかまされたということではないのですか?」

 シィーさんの代わりに、トリス様が男の疑問に答える。

 彼が振り替えって、商人をにらみつけた。

「わ、私は知りませんよ! さっきまで使えてたんだから、あなたの扱いかたが乱暴だったせいでしょう!」

 おかしい。

 アタシは、父の仕事柄、魔法具や魔術具に対して、それなりに知識がある。

 あの手甲は甲の部分に、魔術陣を刻まれた魔金属がはめ込まれている類の魔術具だ。その魔金属が割れたり、魔術陣に傷がはいったりすれば、込められた魔法がうまく機能しないことはある。

 でも魔金属は、元々魔力を含有する金属だ。魔力を吸い上げない限りは、魔金属から魔力が消えるなんてことはない。

 アタシは魔力感知魔法を止め、父が魔力付与が正常に作動しているかどうかの、最終確認に使う魔力視認の魔法を、無詠唱で行使してみる。

 ……え? なにあれ?

 私に見えたモノは、一本の魔力の糸だった。いや、正確には二本の糸をひとつに束ねたモノか。空気中の魔力よりも低い魔力。だから魔力感知に引っ掛からなかった。

 トリス様の指から伸びて、男の手甲の魔金属部分にくっつき激しく回転している。どうやらアレのせいで、炎を生みだすための魔力が拡散されてしまっているみたい。

「クソがっ! いでよ、炎! いでよ、炎! いでよ、炎!!」

 男は半狂乱になりながら、拳を振り回すが、シィーさんはその全てをさばく。

「もう! うっとうしいな」

 シィーさんは突きだされた拳をちょこんと押した。

 そう。シィーさんにとっては、間違いなくちょこんだったのだろう。だけど男にとってはちがった。上半身がのけぞったかと思うと、後方に大きくよろめき、そのまま倒れる。それでも勢いは死なず、何度も転がって、商人の足下までやってきた。その転がる途中で、トリス様の魔力の糸が、男の手甲からはなれる。

 魔金属にあっという間に魔力が戻り、男のこれまでの訴えに応えるように、盛大な炎が手甲を包んだ。

「アチッ!」

 普段よりも炎が吹きあげたのだろう。身を焼いてしまった男がはねおきて、手甲をはめている右手を振りまわした。

「あ!」

 商人の手からイディオ・グリモリオの偽物が、ハンカチを握りしめたクロごとたたき落とされた。

 なかなかおさまらない手甲の炎が、本とハンカチにも燃え移り、床の上でクロが火炙りの刑にさらされる。

「のわっ! またかよ!!」

 マズい。

 アタシは咄嗟に、転がったまま、縛られている足で、トリス様達の方へと本を蹴り飛ばした。床を滑る燃える本を、トリス様は靴の裏でうけとめる。

「ト、トリス君! クロちゃんを移す物が、なくなっちゃうよ!」

「落ち着いてください、先輩! 魔闘衣は全身にまとった場合、どれだけ出し続けることができますか!」

 落ち着けと言ったトリス様自身が、声を荒げている。

 それだけ現状がまずいということなんだろう。

「え? 全身? 出し続けるの?  え〜と、え〜と! トリス君の特大サンドウイッチを十個食べれるくらい?」

「今度から、もっとゆっくり食べてください! 今すぐ、全身にまとって!」

 また不思議なモノを見た。

 彼女の身体全体が魔力の膜に覆われたのだ。

 防御魔法でも結界魔法でもない。身体強化魔法ですらない魔力そのものの膜。

 なにか意味あるの? アレ? あー、魔力生物に打撃を与えられるようにはなるのか。

 そう思ったのも束の間、トリス様が魔力の糸でクロを本からひきはがし、なにを思ったのか、シィーさんの魔力の膜に、縫いつけるようにクロをとりつけた。

 あの小さかったクロが、膜に合わせて、シィーさんよりも一回り大きい姿に変わる。

 まるでシィーさんが、クロを着ているかのようだった。

「うわー、なにこれー! あったかーい♪」

「おお! シィーがオレの中にいやがる!」

 本人たちも驚いているが、事態がまったくわかっていない商人やならず者たちはもっと驚いている。

 そうか。魔力視認を使わなくても、魔力生命体のクロは見えるんだ。魔力視認の魔法を使っている私と、彼らに見えている光景は、いま現在は大差ない。

「な、なにをしたのですかそれは! いや、それよりもイディオ・グリモリオです。伝説の魔導書が燃える訳がない。だましましたね!」

 この人、本当にバカだろうか?

 偽物ってのは当たってるけど、イディオ・グリモリオもノマッド・グリモリオも、紙でできた本なんだから、耐火の魔法をこえる火にさらされれば、燃えるに決まっている。

 しかも自分は人をだまそうとしたのに、自分がだまされる可能性をこれっぽっちも考えていない。自分の信じたいことしか信じない、本当に残念な人間だった。

「クソがっ。今度こそ燃やし尽くしてやるよ!」

「お、おい。まずは魔導書の在りかをだな―――」

「うるせぇ。もとから守護霊獣は、消し去る予定だったろうが。全員ブッ殺したあとに、ゆっくり探せばいいだろう。燃やしつくせ炎!」

 商人を突き飛ばした男の手甲に、先程の暴走の時に負けない程の炎が宿った。そのまま、猛り狂ったように、クロとシィーさんに襲いかかる。トリス様が魔力の糸を手甲めがけて伸ばすが間に合わない。私にはまともに見えない速さで、拳が突きだされる。

 そんな中で、場ちがいとしか思えない、のん気な会話が聞こえた。

「ねぇ、クロちゃん。なんかさー♪」

「おう、シィー。負ける気しねぇな♪」

 男の怒りを衣としてまとった炎は、突きだされたさきで、会話で震えた大気のみを焦がし、恐怖にゆれる。

 次の瞬間、倉庫に響き渡る激しい音と射しこむ外の光。

 入り口の扉がきえていた。入り口をふさぐように立っていたならず者たちごと吹き飛んだらしい。

「すげぇーな。シィーはやっぱり怪力だな」

「は、半分はクロちゃんじゃない!」

 こんな状況でも二人のやりとりがまったく変わらないのが、逆に恐ろしい。

「あ、あなたたち、状況がわかっているのですか! こっちには人質がいるのですよ!」

 体勢をたてなおした商人がひきつった顔でさけぶ。

「人質?」

 クロとシィーさんが、そろって首をかしげたと思ったときには、アタシの身体はクロつきシィーさんにかかえられていた。アタシを拘束していた紐と、口をふさいでいた猿ぐつわが、ハラリと床に落ちる。

「人質、どこ?」

「さぁ? 見えねぇな」

「はわ、はわわわわわわ」

 商人が情けない声をあげながら倒れ、口からは泡を、股間からは小便をもらして、そのまま気を失う。ちなみにアタシにナイフを向けていたならず者は、後方で倒れていて、ピクリとも動かない。

「マオちゃん、ちょっと待っててね」

「すぐ、終わるからよ」

 そう言ってアタシをおろす。

「ふざけんな、この化け物が!」

 ひとり残された男が、吠えると同時に右腕を振るった。

 いつの間にか回り込んだクロつきシィーさんの右腕とぶつかり合う。どうやら男には、ふたりの動きが見えたようだ。もしかしたら、それなりに実力のある男なのかもしれない。

 ただシィーさんとの差がありすぎて、そう見えなかっただけで。

 甲高い金属音が鳴り、手甲に取り付けられていた金属板が外れ床の上ではねる。

 残された手甲が、砕け散った。男の腕が吹き飛ばなかったのは、シィーさんが手加減していたからに他ならないだろう。

「ヒッ、ヒィィィィィ!!」

 自分は怒っている。そう思いこむことで、辛うじて保っていた正気の仮面がはがれ落ちた。残されたのは絶望に満たされた醜い泣き顔だけ。

「ヒッ、来るな、来るな、来るな! 死にたくない、死にたくない、死にたくない!」

 無暗に腕を振る男の正面に、呆れ顔で立つクロつきシィーさん。

 いたって真面目な顔で男の背後に立つトリス様。

 終演はあっさりと訪れる。男の首に回されたトリス様の腕。

 ほとんど間をおかず、男の体がどさりと床に崩れ落ちた。

 ……体術まで使えるのか、あの人は。もうあいた口が塞がらない。

「トリス君は、優しいねぇ」

「トリスだからな!」

 シィーさんがしみじみと言い、クロが自慢げに答える。

「ムダな殺生はしたくないんです。そんなことを許す人間に、人を導くための魔導書なんて、書けっこないですよ」

 トリス様が微笑を持って応える。……ステキすぎる!

 いまアタシには、やらなければいけないことがある。でもそれが終わったのなら、残りの人生は、全てこの人のために使いたい。そう思わせるに足る微笑だった。

「そっか〜。それはいいんだけど、トリス君。大事なお話があるの」

 シィーさんが、これまでにないほど神妙だ。

「どうしました?」

「うん。どうやらね、もう、もたない……み〜た〜い〜」

 シィーさんの身体が、ぐらりとゆれる。

「バカシィー! そういうことは早く言え!」

 シィーさんがまとっていたクロの姿が、霞のようにぼんやりとしていく!

 反射的に走っていた。

 床に転がっていた魔金属のプレートに飛びつき、トリス様に向かって投げる。

「トリス様!」

「ありがとう、マオ!」

 瞬時にアタシの意図を悟ったトリス様は、右手から魔力の糸を出して、シィーさんからクロを引き剥がし、左手でプレートを受け止める。

 でも、クロを引き剥がした糸が、その場から動かない!

「重い!」

「頑張れ、トリス! お前の糸の上じゃ、すぐに消えちまうぞ!」

 そんな緊迫感に満ちた二人の雰囲気をぶち壊したのは、なんとも気合いの入らないかけ声だった。

「……うぇ〜い、やぁ〜……」

 倒れゆくシィーさんが、薄い魔力に包まれた右足を、力なく振りあげる。

 その足が、トリス様の魔力の糸の上に移ったクロのアゴをかすめた。

「の〜わ〜」

 クロも間のぬけた声をあげ、口をパカッとひらく。

 その口から、二人のやり取りそっくりの、たるんだ魔力がのっそりとでていく。

 クロの体がググッと縮まった。

「重ね重ね、ありがとうございます、先輩」

 徹頭徹尾、真面目なのはトリス様だけ。

 トリス様は、小さくなったクロを、プレートの魔力に縫いつける。

「うん。材質も問題ないですし、刻まれている魔術陣もしっかりしています。良い仕事をしていますね。この魔術師……いえ、付与師の方ですかね」

 しきりにうなずいているトリス様の手の上で、姿の安定したクロが爪で魔術陣をいじっている。

「クロ?」

「ちょっと微調整して、魔力流れ混んでくんのを抑えることにしたんだ。このままだと、またおっきくなっちまうからな! オレ、この姿の方がすごしやすい」

「うん。クロちゃんは〜、その姿の方がカワイイよ〜♪」

 大の字になって床に寝転がるシィーさんの言葉に、アタシたちは声をそろえて笑う。

 そんなアタシたちのなごやかな雰囲気をひきさいて、慌ただしい足音がいくつも倉庫になだれこんできた。

「トリス! シャンティー! いったいなにごとだ! 外の扉はなんだ!  とにかく、急いで来いって伝言だったが、なにがでやがった!」

 確かギャルドとかいう警備隊の副隊長だ。

 まるで噛みつくように、トリス様につめよる。

「人質がいるので、できるだけ静かにとも、メモに残しておいたと思うのですが?」

 簡単なことだった。直接人に助けを求めなくても、人の目につくところに、警備隊への通報を頼むメモを残して置いたということだ。

「バカ野郎! 途中で、すげぇ音がしたから、緊急事態と判断したんじゃねぇか!」

「そうでしたか。失礼しました。えーと簡単に説明しますね」

 トリス様がギャルドさんに、アタシがさらわれた経緯からここまでのことを簡潔に説明する。

「だいたいわかった。元々、この商人には、きな臭い噂が絶えなかったからな。叩けば、他にも余罪がでてくるだろう。しっかし、あれだけ派手に壊しながら、また死人なしか。たいしたもんだ。トリス、図書館をクビになったらうちにこい。面倒みるぞ」

「ボクは何もしてませんよ。先輩とクロのおかげです」

「ハッハッハ。こいつらの面倒を、うちが見れるわけないだろう? お前あっての話だよ」

 商人たちの連行を部下に任せたギャルド副隊長は、ひとしきり笑うとアタシに視線を向けた。

「悪かったな、坊主じゃなくて嬢ちゃんだったようだ。しかし、それならなんでシャンティーじゃなくトリスの家に?」

「恐いです」

「アブねぇだろ」

「無駄な殺生は、させたくないので」

「おう、納得した」

 シィーさんが言葉なく涙を流していた。

「しかし、それはそれで、やっぱり問題だ。嬢ちゃん、歳いくつだ」

「十四ですけど」

「トリスは?」

「十九です」

 彼が頭を抱える。

「おいおい、嬢ちゃんが許可証得るまでにしたって時間かかるぞ。そのあいだずっと一緒に住むつもりか? それは教育的にどうなんだ?」

 ギャルド副隊長が、ガリガリと頭をかく。

「あー、もう。しゃーねぇ、オレも保証人の1人だ。嬢ちゃん、今日からうちにこい」

「なんだ? オッサン、そういう趣味か。それこそ教育的にどうなんだ?」

 問題発言をするクロの頭をギャルドさんがこづく。

「アホクロ。女房も子供もいるっつーたろうが」

 アタシはちょっと考える。ホントはトリス様のそばにいたい。

 でも、今のアタシでは、魔力石と同レベルでしかトリス様の役にはたてない。トリス様が優秀すぎるからだ。現状では、完全にアタシが世話を焼かれてしまうがわだろう。トリス様のお側にはべるのは、自分をもっと成長させてからでも遅くない。

「ギャルド副隊長、できるだけ早く自立できるように頑張りますので、しばらくのあいだよろしくお願いいたします!」

「お、おう。随分、殊勝だな。ごねるかと思っていたが。まぁ、話が早くていい。トリス、館長にも手を貸してもらえるよう頼んどけ。いろんなとこに顔の利く人だからな」

 トリス様がしっかりと頷く。

「館長には、すでに良いお返事をいただいています。あの人にこれ以上借りを作るのもどうかと思ったのですが、仕方ありません」

 一瞬だけ苦笑されたが、すぐに姿勢を正してギャルドさんに頭を下げる。

「ギャルドさん、マオのことをよろしくお願いします。マオも、できるだけ早くお母さんとエルペッナさんに追いつけるように、ボクも協力するから頑張ろうね」

 男性なのに、聖母様みたいだ。

「はい。トリス様、もしアタシにもなにか―――」

 ギュルゥルゥルゥルゥルゥルゥー!!

 アタシたちはいっせいに倒れたままの、シィーさんを見る。

「うー、もうダメ~。何でもいいから食べさせてぇ〜」

 シィーさんの心からの訴えに、アタシたちの顔と心はほころんだ。

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