ラブリース侯爵家(後編)
この先に待ち人がいるとわかっている扉の前って、どうしてこんなに緊張するんだろう。できれば扉のない所で待っていてもらいたい。そうであれば、こうして扉を叩く姿勢のままかたまってしまうようなことはないのだから。
玄関の間でかためた意思はなんだったのか、ボクは父が待つ書斎の扉をたたくふんぎりがつかないでいた。
いまさらどんな顔をして父に会えばいいのか。父の真意を考えようともせず、言葉を額面通りにうけとって。それまでの父の言動との矛盾に疑問をいだくことなく、家からもこの街からも逃げ出して、自分の夢のためだけに舞い戻って、呼ばれたからとノコノコやってくる。
は~、本当になにをしているのだろう。クロについてきてもらえば良かったな~。って、なに言ってるんだ。しっかりしなきゃ、またクロに叱られちゃうね。
クロのことを考えたら、なんとかもう一度気持ちを奮いたたせることができた。扉の直前まで迫っていた手がようやく動き、扉を三度たたく。
「かまわない。入るといい」
一年四カ月ぶりの父の声。条件つきで勘当を言いわたされた魔法武闘会以来。あのとき父は、どんな想いであの言葉を口にしたのだろう?
「失礼します」
現金なもので、一度動きだしてしまえば、体は心の緊張を無視して滑らかに動きだす。重さを懐かしく感じながら、扉を押しひらく。視界いっぱいに広がる思いでの中とかわらない光景。胸いっぱいに広がる心地よい木の香り。
家の歴史と同じだけの年月をすごしてきた書斎机のむこうに、父はいた。
出窓から外に顔をむけ、こちらに背をむけている。助かった。こうして書斎に入ったいまも、どんな顔をすればいいか、いまだに判断がつかなかったから。
「ご無沙汰しております」
「うむ、久しいな」
会話がとまった。どうしよう? まさか魔法武闘会での言葉の真意を本人に聞くわけにいかないよね。オルバンであの態度だったから、本人に問いかけたところではぐらかされそうだし。
そうだ。お礼! お礼言わなきゃ。先輩の件で別荘を使わせてくれているし、王都に滞在する間、こちらの屋敷まで使わせてもらえるんだから。
「今回はいろいろありがとうございます。とくに先輩のことは助かりました。このまま王都にいては療養にならないのではと思っていたので。本来なら、ボクが気をつけて行動していなければいけませんでした。尻拭いをさせるようなことになってしまい、申し訳ありません」
父は振り返らぬまま後ろ手で机の上のティーカップを手にとり、そのまま自身の前に持っていく。
「仕方あるまい。本人も知らぬ事情がありそうな御仁だからな。あのレゾ館長が保護していたほどの人物。我々がおいそれと対処できるものとは思わぬほうがよい。あのかたには、我々は振り回されるばかりよ」
半ば笑うように語る。父さんはレゾ館長の素性をご存知のようだね。まあ昔も今もレゾ館長が王都にお越しになる度に屋敷へ招いているみたいだから、不思議はないか。聞くのは……無駄だね。本人が明かしていないことをベラベラ話すような人じゃない。
「レゾ館長には、ガーバートでたいへんお世話になりました。今回も快く送りだしてくださって。あの方には、感謝の言葉しかありません」
「うむ。まったくありがたい話だな。私からも感謝の言葉を文にしたためておいた」
「ありがとうございます。それから屋敷での滞在を許可していただいたことも嬉しく思います」
「当然だ。ここはお前の家でもある。魔導学園に通わせていたときも、わざわざ寮生活をさせる必要など……いや、あれは結果的によかったか。おかげで私が想像するよりもはるかに頼もしく成長した」
寮生活はボクが望んだことだ。許可してもらえるとは思っていなかったんだけど。家を出たのは十歳の時で、長期休暇のときも家には帰らなかったから、一般の家庭に比べれば、ボクと父さんが一緒にすごした時間はそれほど多くない。
「それで、どれほど滞在する予定なのだ?」
「はっきりとは決めておりませんが、一・二ヶ月を予定しています。冒険者登録をしたのです。できれば最低ランクのEからDに上げて出立したいと思っています」
「そうか。慌てる必要はない。先ほども言ったが、ここはお前の家でもある。しかし明確に定めていないとなれば、早めにいかねばならんな」
「いく? どこにですか?」
「むろん。妻の、お前たちの母の墓参りだ。パトリもお前が一緒であれば、大人しく同行するであろう。一度くらい家族全員で顔を見せてやらねばな」
ああ。本当にボクってやつは、どこまで親不孝なのだろう。離れていても家族の愛に護られていながら、そんなことにも思いが及んでいなかったなんて。
「はい。必ず時間はつくります」
「うむ」
父が振り返り、ティーカップを机に置く。
「トリストファー」
記憶の中の父さんよりも少し皺が深くなった気がする。白髪も少し増えたかな。
「はい」
緊張した面持ちのボクに、父さんの眉尻が少しばかりさがる。
「お帰り」
瞬間、いろんな感情が込みあげてきた。目頭が熱くなり、握りしめた拳に力が入る。いまにでもあふれだしそうな感情を押さえこむようにして、ボクは父に深く頭をさげた。
「ただいま、父さん」
温かな空気が胸にまで沁みこんできた。
父の再会した数時間後、久しぶりに実家用の襟元まで意匠にこだわった普段着に着替えたボクは、夕食をとるために向かった大広間の扉の前で、兄ラビリント・ラブリースとの再会を果たした。
「ご無沙汰しております。兄さん」
「やあ、トリス。この間は召喚獣で失礼したね」
「いえ。相変わらずおいそがしいようで。お身体にはお気をつけくださいね」
ブルカンに到着した夕刻に、召喚獣を介して接触はしていたけれど、直接的な再開はこれが最初。
兄は宮廷魔術士団という、魔術具を装備しての王城警備を目的として発足した師団の長を務めている。ただこの魔術師団、いまではかなりその役割をかえている。
王を守る組織として近衛兵団という組織も生まれたため、いまの彼らの役割は単なる王城の警護にとどまらない。王都全体の生活を支える魔術具の研究開発。各内政機関と連動しての街中に広がる魔術設備の管理運営と多岐にわたる。
とうぜんその組織をまとめる長ともなれば、そのいそがしさは生半可なものではない。まさに激務だ。執務室にこもりっきりになることも一日や二日ではないらしい。かかる責任もまた大きなものだろう。
でもこの優秀すぎる兄は、相当な苦労をされているであろうに、それを周囲に見せない。それどころか、ボクや姉をふくむ家族にも惜しみない愛情をそそぎ、先輩の体調まで気遣ってみせる。とても落ちこぼれのボクの兄とは思えない。
「ありがとう。そうだ。ディノセントの顔はもう見てくれたかい?」
「いえまだ。フェトリーザ様がおいそがしかったようで。女性陣だけでなにか準備があるということでした」
父との謁見がすんだあとに、真っすぐに居間へとむかった。ところが使用人しかいなかったんだよね。伝言を預かっていた者の話によれば、オルバンの説教から帰還した姉さんが、女性陣だけの準備があるからと三人を連れていき、ボクには部屋で自由にしているようにと言ったらしい。
珍しいと思わずにはいられなかった。姉さんがボクをほったらかしにして、他の人と交流を深めるなんてこれまでなかったからね。まあ、おかげでボクは魔導書作成のための、魔法知識を用紙に記録する時間がとれたから結果的にはよかった。
「ほう。私よりフェトリーザのほうが、息子の顔を見てもらいたがっていたのだけれどね。なにかあったのかな。まあ、いいさ。食事が終わったら私が案内しよう。とてもかわいいよ」
仕事が完璧なうえ子煩悩か。愛妻家でもあるみたいだし、ホント完璧超人だね。
驚きをとおりこして、もはや呆れるしかないよ。神様がこんな存在を創りあげたことに。
「さあ、入ろうか。兄弟が全員そろっての食事なんて何年ぶりだろうね」
兄さんが嬉しそうに言いながら大広間への扉を押しひらく。
五十人は楽にはいれるんじゃないかという大広間。入り口の側から、縦に真っすぐに長く伸びる食卓。その上座には、すでに父が席についていた。その斜め後方にオルバンが控えている。
「父さん、ただいま戻りました」
「うむ。いつもご苦労であるな」
「いえ。父さんに比べればなんということはありません。久しぶりの休日は、ゆっくりと休まれましたか?」
「うむ。気遣い嬉しく思うぞ」
うん。なんというか、簡単な挨拶みないな会話なのに、これぞ上流貴族の当主と後継ぎという感じの
食卓をはさんで部屋の両脇に控えていた使用人たちが、父から見て右側手前に兄を、左側手前にボクを、それぞれの椅子を引いていざなう。
ボクたちが着席すると、それほど間をおかずして、大広間の扉が荒々しくあけはなたれた。
「パンパカパーン! パンパンパンパン! パンパカパーン! トリスちゃん、お待たせーっ! あら、お父様とお兄様もいらっしゃったのね。お久しぶりでーす」
ボクと同じように、久しぶりに室内用のドレスに着替えた姉さんが、二人にむけて手を大きくブンブンと振ってきた。父さんのため息と兄さんの噛み殺した笑い声が混ざりあって聞こえてくる。オルバンの怒気も届いてきそうだ。
とりあえず姉さんを落ちつかせようと口を開きかけたボクだったが、フェトリーザ様とルートルメールに手を引かれて入室してきた
小柄な人だった。でも……美しすぎる人だった。いや人の美しさを超えていた。
生命の力強さを感じさせる褐色の肌。深淵に炎を宿しているかのような赤みがかった瞳。短く切り揃えられているけれど滑らかそうな漆黒の髪。彼女の身の内の輝きが溢れだしているかのような黄金色のドレス。その全てが奇跡のように混ざり合い、溶けあい、たたずんでいた。
その姿はまるで精霊。
精霊は頬を上気させ、緊張した様子で勢いよくこちらに頭をさげる。
「こ、このたびはお招きいただいちゃだけでなく、逗留のぎょきょかもくださいまして、まこちょにありがちょーございます。マ、マ、マ、マオ・グロウリともうしまちゅ!」
……マオ? 誰が? ……いや、そうだよね! マオしかいないよね。いやどう見てもマオだ。ボク、なんで気づかなかったんだろう? ああ化粧か。うん。きっとそのせいだ。
父と兄が静かに席をたつ。ボクも慌ててそれにならう。
「当家の主プロメテア・ラブリースと申します。お美しいお嬢さんだと聞いてはおりましたが、いやいやこれは驚きましたな。我が家に天使が舞いおりたのかと」
「ラブリース家の長男ラビリントと申します。貴女のようなお美しい方を当家にお招きでき、たいへん光栄に思います」
あ、あれ? ボクも名乗った方がいいのかな? いや、ボクの連れだし、名乗るのはおかしいよね。あれ? どうしよう?
「これ、トリストファー。なにをボーっとしておる。お前の隣の席についていただく。お連れして差しあげぬか」
「は、はい! ただいま!」
うわ、恥ずかしい! いま絶対に声がうわずってたよね。いや、そんなこと気にしている場合じゃない。マオのところにいってあげなきゃ。あれ? 手と足ってどうやって動かすんだっけ? あ、動いた。良かった。まだ体が覚えてた。
ギシギシと音をたてそうな手足を懸命に動かし、ボクは広間の入り口で待つマオのもとへとむかう。ふかふかの絨毯はボクの足音は呑みこんでくれるけれど、高鳴る心音と固唾を呑みこむ音を消してはくれない。ボク自身よりも先にマオのもとに届いてしまうんじゃないかって、気が気じゃない。
永遠に続くかと思われたこの羞恥の行軍も、いつの間にか終焉を迎え、先ほどの生命の精霊が頬を赤らめながらも、真っ直ぐに僕を見つめている。ボクも彼女から目が離せない。
「どう、トリスちゃん。すごいでしょ! 綺麗でしょ! 私の目に狂いはなかったわ! カーちゃんも、お前が狂ってるのは頭だーって言ってたもの! 私の『二人目の子供は私の養子に下さい大作戦』の第一歩は大成功よー!」
姉さんがなにか言っているが、右耳から入って左耳に抜けていく。
「トリストファー様。お手を」
姉さんの声が抜けっていった左耳から、フェトリーザ様の落ち着いた声が入りこみ、胸へと落ちていく。そうだ。早く手をだしてあげないと、マオが困るよね。
「ど、どうぞ」
うわ。手袋つけてないよ。絶対汗かいてるよね。気持ち悪くないかな。
「は、はい! 失礼いたします!」
ボクの心配をよそに、マオがボクの手をしっかりと握ってくる。
握られたのは手だけだというのに、まるで心臓を鷲掴みにされたかの如く、頭の中は真っ白になった。
そのあとのことはまったく憶えていない。
どうやって彼女を席まで連れていったのか。なにを食べたのか。どんな会話をしたのか。見事なほど思い出せない。
次にはっきりと意識が戻ってきたときには、ボクの手を握っていたのはマオではなく、昨年生まれたばかりの甥っ子だった。
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